7:30 土橋出発 晴れ 気温21度
トリカブト |
 |
7:40 神社橋
8:20 雲月橋
9:05 ハルニレ
11:20 ハルニレ
12:05 中の谷
13:05 雲月山
13:20 大休ミ
14:30 土橋
土橋バス停を出発、ハタガ谷に架かる神社橋を渡り、川沿いを下る。神社橋には面谷川と書いてある。ハタガ谷は面谷川とも呼ぶようだ。あるいはハタガ谷の下流を面谷川と呼んでいるのかも。少し下ると棘のある猛烈な薮となる。薮を避けてハタガ谷を渉りミズナラの斜面を上がった。
車道に出て面谷川の川口へ進んだ。面谷川と中の谷の合流点に架かる橋は雲月橋であった。雲月橋から下を見ると、面谷川の川口は砂の小川であった。
「『ウォッちず゙』12500」では面谷川川口に「土橋」と表示されている。車道を少し下ると川原にマツムシソウが咲いていた。川中をサワガニが歩いている。
ハルニレの葉 |
 |
車道を戻り、ハルニレの所へ向った。樹齢400年の大木は今年も大きく葉を広げ、葉の重みで垂れ下がるように枝を伸ばしていた。葉が黄色になっている所が少しあった。「天然記念物 ニレ」と書かれた石柱が立っており、胸幹周4.26mの巨木である。4.26mの数字は、昨年10月、巨木の隣に住む民家のおじさんに測ってもらった数値である。
根元に祠があるが、おじさんの話では、後から置かれたもののようである。よく見ると、幹の上の方にハリギリが寄生し枝を伸ばしていた。ハルニレの裏山へ登ってみた。植生図ではこの辺りはブナ−ミズナラ群落となっており、ミズナラ林の中に所々、若いブナがある。小尾根に鉄柵が残っており、放牧地であったようだ。ヒノキ林に入った所で下った。途中、「村有境」と書かれた石柱が倒れていた。
クロコノマチョウ |
 |
ジャノメチョウ |
 |
ハルニレの所へ戻り、ハタガ谷を上がった。もう人の住まない民家の横を通り車道に出た。そこから中の谷に沿う林道を進んだ。それの臭う牛の糞の転がる放牧地の入口の横を通り、登山道に入る。ススキの道を上がる。牛が点々と見えるが数は少ない。中の谷の林道から1時間ほどで雲月山。
眼下にあるハルニレの南にある水田が、林の中に浮き出ている。雲が降りてきて遠くは霞む。県境尾根のカラマツ林を下る。草原にジャノメチョウが留まっていた。食草にススキなどがある。その先の小尾根の先端に、牛が二頭仲良く休んでいた。大休ミの鞍部を通って下の車道に出た。
車道から40分ほどで土橋に帰着。地元に人に、ハルニレの巨木以外に近くの林でニレが生えていないかどうか聞いて見たが、見たことが無いと言う。他のハルニレがないか探して歩いたのだが、見つからなかった。
マツムシソウ |
 |
ヤマナシ |
 |
●周辺の三角点所在地(点の記)
☆点名:大足谷 743.9m
大字都川字応地ヶ谷
☆点名:風穴 823.7m
大字坂本字風穴
☆点名:土橋 719.7m
大字土橋字雲月山
☆点名:大平山 862.8m
大字土橋字大平山
☆点名:草安 764.4m
大字草安字西草山
■地名考
縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。
日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。
東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。
(以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)
柏原山の北西3kmに縄文や弥生の土器が発掘された七渡瀬遺跡がある。雲月山の北西4kmの柿ノ木遺跡から弥生の石器が発掘されている。周辺は大暮や掛津山で縄文の出土物があった所である。
東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。
カシミールデータ
キツリフネ |
 |
総沿面距離11.6km
標高差242m
区間沿面距離
土橋
↓ 2.7km
ハルニレ
↓ 3.5km
中の谷分岐
↓ 2.1km
雲月山
↓ 3.3km
土橋
|