6:15 大森出発 晴れ 気温23度
キンミズヒキ |
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7:25 白井滝
7:40 東郷山登山口
8:25 真中の鉄塔
9:10 東郷山
10:05 四本杉
11:15 水内登山口(白砂林道)
12:25 国体登山口
13:05 湯来大橋バス停
国道433号線を緩やかに上りきった所に大森神社がある。その名の通り、かつて樹齢数百年の杉の森があった。1991年9月の19号台風の被害で森はなくなり、現在「伏谷ふれあい公園」になっている。
岡岷山は寛政9年8月23日(1797年)、広島城下を出発し、五日市で休憩して上伏谷に宿泊、24日には和田村に入った。
日記に大森神社の様子が記されている。
「廿四日、上伏谷を出て北に向て行大森に至る、森は道より右にありて内に八幡の社あり、此森ハ名にたかハす大木生茂れり、其中に一際高く生立たる杉を天狗の腰掛杉と云、人をして木を抱しむるに五人周りて猶余りあり、根より三間はかり上にて枝四つにわかる、其真中に寄木一株あり、木ハふくら柴にて高さ五間はかり也、森の内大木数ふへからす、先年厳嶋大鳥居の木も此森にて七本伐りしといへり、此森より東にあたりて少し小高き所ニも森あり、是ハ大森の山の神を祭る」(「都志見往来日記」)。
岡岷山は大森神社の鬱蒼とした鎮守の森の様子を絵日記に描いている。大森の杉は厳島神社の大鳥居に使われていた。東郷山の北側に四本杉があるが、大森神社にも四本杉があったようだ。当時、樹齢数百年の杉があったようだから、少なくとも現在に至る700年ほどは、19号台風のような被害はなかったと思われる。
1991年の台風被害は、ここ1000年ほどなかった現代の異常な気象変化を物語っている。
キツネノキミソリ |
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大森神社の駐車場を出発、国道の東側に小山があるが、ここは「大森の山の神を祭」っていたと言う。大森のバス停を東へ進むと「白井の滝」の道標がある。そこから車道を上がった。
寒山(さむやま)が正面に見える。後側の阿弥陀山には車道が上がっている。伏谷川にはツルヨシが茂っている。畑の人に聞いてみた。むかし寒山によく登ったという。山頂周辺に大岩があり、その大岩からの展望が良いと。滝奥の水源にゴギがいたそうだ。湿原のような所がないか聞いてみたが、ご存知なかった。
林道を上がると、マキを積んだ窯場のようなところがあった。白井の滝の道標に従って下へ降りた。二段の滝の下の所に腰をおろして、しばらく休んだ。古い石垣が残っている。岡岷山はここへ立ち寄った。
「瀧ハ二段にて、皆石をつたひて落る、水幅凡壹間に高さ二十間はかり」(「都志見往来日記」)と記している。
白井の滝付近の林道は岩盤となっている。浸食を免れて滝を形成したのであろうか。林道から鉄塔と東郷山が見える。
クサアジサイ |
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白井の滝からほどなく登山口。湯来温泉観光商工同業組合の登山路を示した大きな看板がある。谷筋の登山道を上がると、「東郷山四本杉」の道標があり、そこから急な尾根道となる。登っていくと木の階段から黒いブラスチックの階段になる。
一番目の鉄塔から阿弥陀山が間近に見える。送電線は阿弥陀山の北の尾根を越えている。二番目の鉄塔から、今上がってきた大森付近が見える。そこは山に囲まれた盆地のような所である。リョウブの花が咲いていた。
ベンチに座って一休みした。気温25度で涼しい風が抜けていく。三番目の鉄塔は見通しがよくない。そこからほどなく山頂。山頂のブナに「物知博士」のブナの説明板が取り付けてあった。山頂から大森周辺がよく見える。西側にある国体コースの登山道は笹が茂っている。
東郷山の古名は「ササノトウコウサン」(「芸藩通志」・1819年)と呼ぶ。
一休みして四本杉へ下りた。東郷山北東尾根はブナの林であった。こちらのブナにも説明板が取り付けてあった。ブナの説明内容はそれぞれ違うものであった。ブナ林は涼しい。少し下るとモミ林となる。
大峠への分岐を北へ下る。急な滑りやすい道となる。杉の巨木の中に入っていく。40分ほどで四本杉に到着。根もとから株立ちした四本の幹に金属の輪をはめて補強してある。巨木を回り込んで下手に下りた。看板には周囲11.6m 直径3.7mとあった。
この辺りから国体コースの尾根へ回り込もうと思っていたが、暑さと薮に閉口して、そのまま登山道を下った。四本杉から1時間ほどで登山口の白砂林道に出た。林道を下ると、「林木遺伝資源保存林」の看板がある。主要な樹種は天スギ、モミ、ツガであった。
恵下谷林道に入ると、「恵下山コウヤマキ植物群落保護林」の看板がある。コウヤマキは明治30年に人工植栽されたものであった。
アキノタムラソウ |
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砕石場の丸裸の山の下を通り、木の階段が残る国体コースの入口で一休み。国道に出ると日が照りつけて暑い。伏谷口までが長かった。湯来大橋のバス停で13時48分のバスを待った。
大森手前の北谷のバス停を下りた。北谷バス停から道はゆっくりと上がって行く。ちょうど大森付近が最高鞍部のようである。
東郷山北東面にブナが残っているが、縄文後期の寒冷期には、大森付近までブナは下りていたのではないか。鬱蒼としたブナの森であった大森付近は沼のような所ではなかったか。この地形が東郷山、寒山、阿弥陀山の山名の由来に関係していると思われる。
「旧湯来町には、もうひとつ水系を異にする八幡川の流域がある。阿弥陀山、鷹巣山、 廿日市市原との境界の山々及び東郷山南部を水源として、数本の川がゆるやかな高原状の地
形を流れ、白川で八幡川としてまとまり、広島湾に注いでいる。水内川と八幡川の分水点は 伏郷地区の大森神社境内であり、かつて大森神社には、その名のとおりスギの大木が茂り、
広島県天然記念物に指定されていた。平成3年(1991年)の台風19号によってこの社叢は壊滅的な被害を受け、天然記念物の指定を解除された。現在も、大森神社境内に小さな池があり、この池が水内川と八幡川の分水点になっている」(「広島市の生物 補遺版」(旧湯来町区域の調査に基づく補遺)広島市HP)。
■東郷山周辺の国土地理院の三角点の点名と所在地。
点名:大野平:819P
広島県佐伯郡砂谷村大字伏谷字大野平
点名:温田オンダ:678P
広島県佐伯郡湯来町恵下谷山
点名:下伏:368P
広島県佐伯郡湯来町大字伏谷字角ヶ原
点名:北谷:358P
広島県佐伯郡湯来町大字伏谷字倉谷
点名:昼ヶ原:406P
広島県佐伯郡湯来町大字伏谷字昼ヶ原
点名:寒山:869P
広島県佐伯郡湯来町大字伏谷字寒山
点名:伏谷:836P(阿弥陀山)
広島県佐伯郡湯来町大字伏谷字大野地山
■地名考
縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。
日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。
東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。
(以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)
伏谷・大畑で縄文後期土器片が出土しているが、東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。
大森神社には、水内川と八幡川の分水点となる池があり、縄文期はブナの森があり、沼のような地形であったと思われる。その地形が周辺地名に反映されて現在に至っている。東郷山、寒山、阿弥陀山の山名は大森の沼から形成されたものである。大森周辺の地名も沼に関連した地名である。東郷山の古名が沼の存在を示している。
カシミールデータ
クロヒカゲ |
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総沿面距離14.5km
標高差786m
区間沿面距離
大森
↓ 5.1km
東郷山
↓ 2.7km
水内登山口
↓ 6.7km
湯来大橋バス停
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