6:30 上道原出発 晴れ 気温25度
ヤマツツジ |
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7:10 イワブチ谷(火葬場)
8:00 堰堤2
9:40 炭焼跡
10:50 岩淵山733P
11:25 岩場
11:40 イワブチ山(岡岷山)
12:05 感応山
12:50 湯ノ山
13:20 上道原
湯来町内では縄文遺跡はまだ発見されていないが、上伏谷・大畑で縄文後期土器片が出土し、上道原で縄文土器片が出土している(「湯来町誌」)。
岡岷山の「都志見往来日記」に、この辺りの地名がみられるので、以下往来日記からその足跡を追ってみる。
岡岷山は寛政9年8月23日(1797年)、広島城下を出発し、五日市で休憩して上伏谷に宿泊、24日には和田村に入った。25日、石ヶ谷峡を見て、多田村温泉(湯来温泉)で休憩の後、上筒賀村に入っている。
「…夫より堂原川に至る、此所より向を望めハ峨々たる石山あり、から谷山と云、から谷とは水なき山なる故に云ふといへり、川を渡りて民屋数軒あり、則和田村なり」
伏谷川を下り、水内川右岸から見える岩山を「から谷山」と呼んでいたようだ。堂原川は上道原付近の川の名のようだ。
「十町はかり行て道の左右松茂りたる所より左の方、峯に岩重なりたるを臼が重(うすがぢう)といふ、其峯を岩渕山といふ、前ハ湯の山なり」
岩淵山は奥にあるので川沿いからは見えないが、湯来温泉の入口辺りから見える。絵図を見ると、どうも感応山の上の方を「岩渕山」と呼んでいたようだ。その「岩渕山」の西側に「うすがぢう」と呼ぶ岩山があった。臼のような岩山が感応山の西側に描かれている。
「和田村御本長記帳」の「入相野山」に、すすい谷山、大原山、岩淵山があり、「岩淵山」は特定の山でなく山林名であったようだ。
「…夫よりたらたら瀧を見んとて案内の者を先にたて北に向て行、左に船越山(ふなさご)井ニ砥石か嶽あり、峯ハミな大石を戴く、其中に凸出したる巌あり、中黒く両方白く眼にたちて見ゆ、是は十二年前此巌に落雷かかり巌砕て一片ハ山前へ落、一片は山後へ落、其真中残りて斯の如しといへり、此山の後たらたら瀧なり」
たらたら滝の西側にある岩山を「船さご山」「砥石か嶽」と呼んでいた。岡岷山はたらたら滝を見たあと岩田屋為次郎に宿泊している。
「夜にいりて樓上より望めは、谷川に鵜遣ふ篝火三つ四つ見へたり、夜更るにしたかひ雨いよいよ降りて止む事なし、音するものハ水の音と鹿を逐ふ聲のミにていと淋し」
「鹿を逐ふ聲」がしたというから、鹿を獲る落とし穴猟がまだ行われていたのであろう。隣の多田村では、天保8年(1837年)、猪鹿の被害を防ぐため3150人の農民を動員し、1053個の落し穴を掘ったという(「多田村猪鹿防方御願」)。
アカメガシワ |
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コウヤマキ |
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上道原を出発、近くの製材所の主人に、岡岷山の絵図を見てもらい、地名を尋ねた。地元では湯ノ山の上の方の山全体を岩淵山と呼んでいる。「ウスヶ重」はご存じなかったが、「砥石ヶ嶽」は「砥石ヶオカ」と呼び、「船さご山」も子どものころから、そう呼んでいるとのこと。江戸のころから呼ばれているのは知らなかったと。
ガスが急に出て、先ほどまで見えていた岩山が全く見えなくなった。国道を進むと、イワブチ谷の手前に社がある。イワブチ谷に架かる橋はミチハラ橋、岩淵谷川とあった。イワブチ谷川口は、石が敷き詰められているが、水は全く流れていない。
引き返して湯ノ山温泉の入口を入る。アカメガシワが果実を付けている。イワブチ谷に架かる赤橋の下は草むらとなっている。イワブチ谷右岸の車道を上がる。岩山がだんだんと近づき、感応山の左に岡岷山の描いた「ウスヶ重」がはっきりと見えてきた。絵図にあるウスのふたのような部分を確認できる。
アブに襲われたヒグラシ |
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アセビ |
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橋を渡ると火葬場。火葬場の煙突の上にウスヶ重がある。火葬場の横から谷へ降りた。くもの巣の多い薮の谷である。谷にピンクのテープがぶら下がる。程なく一つ目の堰堤に突き当たる。右岸を越える。この谷にある船岩を探すが、目立つ大岩はない。
「多羅々々瀑 和田村にあり 舟岩 夫婦岩 並に和田村にあり舟岩は岩渕谷にありすべて此辺奇岩多し、夫婦岩は川端にあり」(「芸藩通志」1819年)。「芸藩通志」和田村の図には「船岩」となっている。
二つ目の堰堤、左岸を越える。堰堤の上に、ウスヶ重と感応山の間の岩盤の谷が下りている。少し上がると小滝がある。右岸にスギ林が降りてくると、その中に踏み跡があった。所々岩壁が立つ道である。781ピークから下りる谷を渡って山道が続く。
谷が狭まると、道が喪失する。その先の巨大な岩が谷を塞いでいた。これが船岩かもしれない。少し進むと、また右岸に踏み跡がある。岩の下で雨宿りできる、下に石を敷いた大岩があった。
谷の分岐付近で道は終わり、右の谷の右岸を上がると土管が転がっていた。小さな炭焼跡であった。残っていた踏み跡はこの炭焼場への道であったのだろうか。水の涸れた谷を進み、道標のある鞍部に出た。鞍部の気温は25度で涼しい風が吹き抜ける。
イソノキ |
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リョウブ |
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登山道は西へ行く石ヶ谷峡と北側にもあった。北側の道は天上山林道へ出る道であろうか。そこからほどなく岩淵山。西に781ピーク、南に東郷山が見える。眼下にスポーツ広場と国道が見える。
登山道を下る。コウヤマキがある。セミがけたたましく鳴いていた。アブにつかまったヒグラシであった。ほどなく次の岩場のピーク。眼下に恵下谷の砕石場が見える。南へ降りる下のピークへ下る。アセビが花芽を付けている。東側に大きな岩場が見える。分岐を進むとすぐに感応山。
ウスヶ重の岩壁が上にある。たらたら滝の西側にある岩山が船さご山、砥石ヶ嶽であろうか。眼下に砕石場と東郷山が迫る。リョウブ、ヤマツツジの花が残り、イソノキが赤い実を付けている。
湯ノ山へ下った。石段を下りると、「大同二年、観王山、慶蔵院、大般若経塚、弘法大師史跡、湯之山温泉、霊泉の由来塚」の看板があった。
「湯の山に鉱泉が湧きだしたのは、大同年間(806〜810)と言い伝えられているが、それを裏付ける確かな証明はできていない」(「湯来町誌」)。
「湯山神社…もとは湯元明神と称す、祭神も詳ならざりし故にや寛延三年庚午、藩より社を再建し、出雲の社人藤間某に改て今の神を勧請せしめらる」(「和田村御本長記帳」宝暦2年・1752年)。
湯ノ山はもとは、湯元と呼ばれていた。多田村検地帳には、「ユワロ・ユキ・ユキサキ・小ユキ・ふろの本」などの地名が多く出てくるが、和田村検地帳には湯ノ山の地名はなく、「ユ」のつく地名は一つもない。湯ノ山は新しくつくられた地名ではないだろうか。
首にぶら下げた温度計は35度、たらたらの滝へ寄るつもりだったが、あんまり暑いのでそのまま出発点へ帰着。
クマノミズキ |
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国土地理院の三角点の点名と所在地。
■水内川左岸
点名:永尾:781P
広島県佐伯郡湯来町大字和田字岩淵谷
点名:岩淵谷:607P
広島県佐伯郡湯来町大字和田字大原ススイ谷岩淵谷
点名:大原:770P
広島県佐伯郡湯来町大字和田字大原山
点名:ススイ谷:810P
広島県佐伯郡湯来町大字麦谷字ススイ谷
■水内川右岸
点名:湯の山:193P
広島県佐伯郡湯来町大字和田字向吉(ムカイヨシ)
点名:岩倉:680P
広島県佐伯郡湯来町大字和田字伏谷口
点名:日浦:590P
広島県佐伯郡湯来町大字麦谷字日浦
■地名考
縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。また、抜歯風習、打製石斧、石棒、土偶、浅鉢、注口土器など、それまで西日本になかった文化が広がった。
日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。
東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった。
(以上「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」清水清次郎・アイヌ語地名研究3号・アイヌ語地名研究会発行・2000年 「和歌山県・高知県のアイヌ語系地名」前同・アイヌ語地名研究10号・同会発行・2007年から)
上道原で縄文土器片が出土しているが、東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。
和田村地詰帳(寛永15年・1638年)に以下の地名がある。寺ノ前・竹原・ささ原・ぬくた・さこくち・よしの上・道原・くほ・ぬいノ原・山崎・川ばた・とう原・すろの廻・屋しき原・松か平・こめ石・ゑげ・こいとう・正かんしやう・たき
カシミールデータ
アゲハチョウ |
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総沿面距離8.1km
標高差538m
区間沿面距離
上道原
↓ 4.6km
岩淵山
↓ 1.3km
感応山
↓ 2.2km
上道原
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