6:10 矢神原出発 晴れ後雨 気温25度
オカトラノオ |
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8:05 上道原
7:30 石ヶ谷川入口
9:45 石ヶ谷川分岐
10:40 天上山林道
11:10 大原山813P
13:25 正木山900P
15:15 天上山
15:45 林道登山口
16:20 ススイ谷上部
17:10 ススイ谷入口
17:55 矢神原
天上山林道の入口付近を出発。この辺りは矢神原と言う。日の入る国道は6時だというのに、もう気温は25度。国道を西へ進み、竹原地区手前から水内川の中須賀橋に出た。上流に鮎釣りの人がいる。左岸の土手を、釣り人の近くまで進んだ。釣り人が立っていたのは低い岩場であった。低い磯岩は長く続き、水中に没している所もある。予想したとおりであった。
山中にたらたらの滝へ入る岩場が見える。恵谷橋に出た。先に東郷山が見える。上流の向吉橋に出た。この橋から上流、下流を見ると水内川の岸が真っ直ぐに長く続いている。
湯ノ山温泉入口を過ぎ上道原に入ると、右岸にネムノキの林があり、左岸に青い水田が川岸から上がっている。
岡岷山は湯来を経由して、広島城下から山県郡都志見村(現豊平町)に到る8日間の写生旅行の記録を日記と風景写生にまとめた(「都志見往来日記」1797年)。
岡岷山が描いた堂原の絵図を見ると、岩淵山の下に描かれた堂原は、川原からすぐ畑になっており、10軒ほどの民家が山際にある。今日のような高い土手はなく、川原から民家まで緩やかな坂であったようだ。堂原は道原であろう。
オオバギボウシ |
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クマシデ |
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伏谷大橋を渡り右岸を進む。川が直角に曲がる所の川原に出ると、対岸の国道の下が大きな岩場であったことが分かる。岩場の上に道路をつくったようだ。
「都志見往来日記」に次のように記されている。
「廿五日、和田村を立て昨日来たりし堂原川の辺に至り、川端を伝いて西の方菅沢村にかかり谷川を左になし未申に向て行、石ヶ原と云所あり、谷川の両方巌かさなり流清して風景よし、夫より半道はかり過て纔の渕あり、松右衛門渕と云、夫より名号石に至る」(「都志見往来日記」岡岷山・1797年)。
水内川の中に大きな磯岩が描かれた岡岷山の石ヶ原の絵図がある。この辺りの石ヶ原の地名は、川の中の岩のことを呼んでいたようだ。
百飛橋の下流の岩場に鮎釣りの人がいた。岩場はおそらくこのあたりまで続いていたのであろう。しかし、岡岷山が描いた風景は今は無くなってしまった。百飛橋を渡り、釣堀を通り、櫛が抜けたような植林斜面を前方に見ながら、国道から石ヶ谷峡に入る。
入口に丸子山憩の森の看板がある。正面に高く見えるのは781ピーク(点名:永尾)である。石ヶ谷峡の林に入るとヒンヤリとする。オオバギボウシ、ヒメオオギスイセンの花が咲く。妙号岩に南無阿弥陀仏の字が読める。「都志見往来日記」では「名号石」となっている。
谷にリョウブの花が咲く。水流が岩に溝をつくった比久ノ瀬滝は「都志見往来日記」には「比丘ヶ瀬」とある。「大突出」の上を見ると林の間から岩が突き出ていた。途中にトイレ休憩所がある。カブト岩は岩が剥がれ落ちている。屏風岩にはナツツバキの花が咲いていた。ケムシだらけのウツギの木があった。ヤブウツギを食餌するオビガのようである。
折返し点に燈明滝がある。その上の方で魚影があった。ドクダミの花が多い。この辺りの気温は23度、谷を渡ると涼しい風が吹き抜ける。王子製紙社有林のプレートが目立つ。ノリウツギはまだツボミ。
石ヶ谷川が東へ曲流する所で谷が分岐する。紫のヒヨドリバナが咲いていた。北側の谷の右岸に笹で多い尽くされた林道が上がっていた。薮の林道は途中で東の谷へ上がっている。北の小谷を上がる。谷に紫の瀬戸物茶碗のカケラが落ちていた。
石ヶ谷川分岐から1時間ほどで筒賀境の天上山林道に出た。鍋山、ハチガ谷の頭、十方山への展望がある。少し林道を引き返すと、天上山林道開設記念碑の大きな石碑があった。その辺りから尾根に取り付いた。鍋山方向へ展望が開ける。筒賀の三谷の集落が覗く。ほどなく大原山。林で展望はない。
点名:大原山(813三角点)
所在地:山県郡安芸太田町大字中筒賀字三谷正木山
ウスノキ |
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葉の上に潜むマムシ |
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薮をかけ分けていると、胸下の高さの葉の上に子のマムシがいた。薮を進み2時間余りで正木山。林間から大峯山方向を望む。
点名:正木山(900三角点)
所在地:山県郡安芸太田町大字中筒賀字三谷正木山
正木山を下り始めたところで雨が降り始めた。暑くて弱っていたので恵みの雨であった。雷が鳴る。少し先から岩場が続く。雨が降らなければ展望の良いところである。鞍部に造林日の書かれた石柱があった。その先から薮がひどくなる。それを抜けると、あっけなく竜頭峡から上がる登山道に出た。道を進むと北東から登山道が上がっていた。正木山から2時間ほどで天上山。木の下で強い雨を避ける。
天上山の所在地は湯来町であるが、山名は筒賀側の呼称のようだ。湯来側は「ススイ山」と呼んでいたのだろうか。天上山北側の山林名を「天上山」と呼んでいる。「天上」は筒賀の三谷川奥の竜頭峡の滝のある岩崖のことを言っていると思われる。
雨と雷の中を下った。ツガの大木がある。30分ほどで林道の登山口に出た。林道を上がり、登山道を少し登るとススイ谷への下りとなる。40分ほどでススイ谷上部へ降りた。大分下った所で右岸へ渡る危なかしい木の橋を恐る恐る渡った。道はところどころ谷に寸断されているがはっきりしている。1時間ほどでススイ谷を抜けた。そこから40分ほどで天上山林道を矢神原へ帰着。
■地名考
縄文時代中期から後期にかけて日本列島では「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)が全国一円に広まった。その発生地は関東地方である。
日本の縄文語(日本列島共通語)が成立したのは、縄文時代後期であった。アイヌ語とは縄文時代中期の東日本縄文語を祖語とする言語で、アイヌ語系民族は、その言語を受け継いできた唯一の民族であった。
東日本縄文人が縄文中期に過疎地帯であった西日本へ拡散し、東日本文化が西日本各地に定着した。西日本の人口が縄文後期に爆発的に激増した原因は、東日本縄文人の西方拡散が主因であった(「試論・アイヌ語の祖語は東日本縄文語である」アイヌ語地名研究3号・清水清次郎)。
東日本縄文文化の影響を受けた人々が、この辺りで生活していたと仮定すると、西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代後期から呼ばれていた可能性のある地名と思われる。
また、アイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文時代後期を含む縄文遺跡が存在することを予見している。
●天上山(テンジョウザン)
石ヶ谷川入口から水内川を遡ると日尻橋があり、その付近に大きな岩礁がある。谷が道であった時代の渡渉地点であったと思われる。『北海道蝦夷語地名解』に「ワワウシ」(渡り場)がある。
日尻橋下の岩礁 粟柱口バス停 |

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カシミールデータ
ノコギリソウ |
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総沿面距離24.2km
標高差798m
区間沿面距離
矢神原
↓ 5.2km
石ヶ谷川入口
↓ 8.0km
天上山林道
↓ 4.3km
天上山
↓ 6.7km
矢神原
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