7:10 ウス谷入口出発 曇り 気温4度
ミヤマシキミ |
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7:30 タテイワ谷入口
7:50 右谷分岐
9:20 右谷から鞍部への分岐
10:15 タケノオク谷鞍部
10:35 立岩山
11:15 日の平山
11:45 論田の頭
12:35 境橋
13:05 ウス谷入口
臼谷川の入口を出発。人の姿が見られない静かな坂原集落を通り、20分ほどでタテイワ谷入口。筒賀川の土手のカキノキに、大きな実が付いていた。青空市場の横からタテイワ谷左岸の登山道を上がる。
道沿いにフユイチゴが実を付けている。浄水場跡を通り奥へ進む。シロダモが赤い実を付けていた。タテイワ谷入口から20分ほどで右谷分岐。
登山道はここで右谷右岸に渡り、タテイワ谷と右谷の間の尾根に上がっている。登山道の途中から踏み跡を右谷へ降りた。小滝を乗り越して進むと崖に阻まれる。
右岸を上がると踏み跡が残っていた。
「立岩山へは、筒賀村坂原よりタテイワ谷の右谷へ入り、山頂の観音に至る参道があって多くの村人が登っていたという。この径は谷より直接に観音に登るのでなくて、一旦、立岩山南西主稜の鞍部に登って尾根伝いに観音に行くように付けられている……この径は主稜鞍部より立岩貯水池側のタケノオク谷を降り、水没した二の原の集落へ通じていて、筒賀村と吉和村を結ぶ主要道で村人によく利用され、吉和側の村人もこの径を登って観音に参拝していたという」(「西中国山地」桑原良敏)。
この踏み跡は、村人が登っていた道であろう。踏み跡を進むと、支谷を渡る崩れた木の橋が僅かに残っていた。ところどころ崩れている踏み跡を進むと、道は右谷へ降りていた。そこにも崩れた橋が残っていた。その先で右谷は分岐する。
フユイチゴ |
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サザンカ |
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左のタケノオク谷へ乗り越す鞍部へ上がった。この谷は鞍部へ向って北西に真っ直ぐ上がっていた。分岐から1時間ほどで、テープの巻かれた鞍部に到着。尾根道を進み、ほどなく立岩観音。石が重ねられ、祠があったのか、それと思われる木片が転がっている。
そこから急な岩場を登ると、眼下に立岩貯水池が現れる。十方山には、まだ雪がないようだ。日の平山の先に、女鹿平山のスキー場があり、その後ろに冠山が見える。日の平山の左手に、論田の頭がある。
ほどなく立岩山へ到着。先ほど見えた十方山はガスで隠れてしまった。北東へ市間山への稜線が続く。ぼんやりと瀬戸の島が見えた。風が吹き、北東から雪雲が迫ってくる。早々に引き返した。
雪混じりの小雨となった。濡れたササで下半身はずぶ濡れになり冷たい。立岩山から45分ほどで日の平山。山頂の木が切られ、十方山への展望がある。日の平山から切り開かれたヒノキ林の道を南へ下る。右手にスキー場の白いコースが見える。道の分岐を左へ進み、平坦地に出た。
2万5千地形図では、すぐ下のダニノ谷へ林道が上がっているようだ。ここからタテイワ谷の落口へ緩やかに尾根が降りている。踏み跡がある論田の頭へ進んだ。日の平山から30分ほどで頭へ到着。山頂は伐採されて明るい。踏み跡が南西の尾根へ続いている。
「論田の頭」は「ロンデンノカシラ」と呼ぶのであろうか。「西中国山地」の巻末に、「ロンジ・ロンザン・ロンジョ 論地、論山、論所。土地の境界、水利権等で論争の対象になった場所」とあるが、「トンデ谷の頭」のことではないかと思っている。
論田の頭から、急なヒノキ林を下った。この尾根はウサク谷の東にあり、「切ふさぎ尾」と呼んでいる。ミヤマシキミは赤い実を付けたものと、小さいツボミをつけたものがあった。1時間ほどでヒノキ林を抜け、186号線の境橋に出た。
国道を下るとすぐ、火葬場跡の石碑がある。高速道の上に、三角に尖った目立つ山がある。位置は栃山の西辺りであろうか。その方向は「貝から塚」と呼ばれている辺りである。以前、ここを歩いた時、「貝から塚」を尋ねたが、地元の人が誰も知らなかった。朝と同様、人のいない道を歩き、出発点に帰着した。
筒賀川のカキノキ |
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■地名考
●立岩山
「立岩山の山頂付近の岩塊には呼称が付いていないようだ。そうなると立岩山は『立岩という岩塊のある山』という意ではないと考えざるを得ない。タテは『険しい』という意で、タテ岩は『岩が立っているように険しい』という意味となり、立岩山は、単に『険しい山』という意味となる。恐羅漢山の立山尾根も、これと同じように『険しい尾根』という意と解してよかろう」(「西中国山地」桑原良敏)。
桑原氏は、立岩山は「立岩のある山」の意でなく、「険しい山」の意としている。
「立岩山の山名の初見は、1768年(明和5年)に上梓された佐々木右衛門正封の『松落葉集』と思われる」(「西中国山地」)。
広島大学の「デジタル郷土図書館」HPの「松落葉集」の立岩山の項に、恭種、洞明、三合堂の三つの歌があり、以下転載する。
立岩山
・恭種(やすたね)
花と見ていざ行(ゆき)見むとおもひ立(たつ)いは山の端(は)にかヽるしら雲
(大意 桜の花だと見ちがえて、さあ行って見ようと思い立つたが、それは立岩山の端にかかった白雲であった)
・洞明
打見ればそれとしられて炭竃のけぶりたえせず立つ岩の峯
(大意 ちよつと見てもすぐに立岩山の峯ということがわかるように、この山の炭竈の煙はたえず立ちのぼっている)
・三合堂
動きなき立岩山の数寄屋炭焼にし人は名のみ残りて
(大意 立岩山で焼く数寄屋炭は、この焼いた人の名のみ残つて伝わつている)
恭種、洞明、三合堂の三人の歌人が立岩山を歌っているが、洞明、三合堂の歌は立岩山の歌というより、立岩山で焼かれていた炭のことを歌っている。恭種の歌も、「山の端にかヽるしら雲」とは、炭焼きの煙のことかもしれない。立岩山は炭を焼く煙が、あちこちでのぼっていたのであろう。
数寄屋炭は茶の湯に使われる炭のことで、当時、立岩山は数寄屋炭のある山として知られていたと思われる。歌人である三人は、茶人でもあったと思われ、数寄屋炭に関心を持っていたのではないか。
現在、「数寄屋炭」と呼ぶ名称は残っていないようで、「茶の湯炭」「茶道炭」などと呼ばれている。茶道炭はクヌギの炭が使われている。アオダモ(トネリコ)も炭として使われていたようだ。クヌギより堅いアオダモは炭材として適していたと思われる。当時、立岩山周辺にアオダモが多かったのであれば、炭として焼かれていた可能性がある。
●三の氏山(立岩山別名)
「吉和村三浦一之介家所蔵『吉和村絵図』(江戸末期)には、この1135メートル峯付近の山に『三の氏山』という山名が付されている」(「西中国山地」)。
「三の氏」は「ミノウジ」と呼んでいたと思われる。「立岩山」は「立岩のある山」の意でないが、「三の氏」が「立岩のある山」の意である。
●貝から塚
「上筒賀村国郡志御用につき下調べ書出帳」(1819年)の名勝の項に、立岩山と並んで、「貝から塚」の名だけ紹介されている。上記「松落葉集」に歌がある。
貝がら塚
・虎城
源氏絵や貝がら塚の草の花
(大意 貝がら塚に咲く秋草は,ちょうど源氏絵のようにはなやかで美しい)
・哲桜
花に舞へ貝から塚の郎君子
(大意 貝がら塚をたずねると酢貝のカラが残っているが、時あたかも秋草の咲いている時だ、お前もまけずに舞ってみよ)
「貝から塚」の位置は、広島大学の「デジタル郷土図書館」のHPにある、「松落葉集」の検索地図から類推すると、坂原集落の高速道を隔てた東側辺りのようである。
地元で「カイカラヅカ」の所在を尋ねたが、分からなかった。貝殻が見つかったところだから、その痕跡が残っていて良いのだが、この辺りに「貝殻塚」はないようだ。「カイカラヅカ」と呼ばれていたので「貝から塚」の文字を当てたのかもしれない。
「貝から塚」と思われる三角の山 |
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カシミールデータ
総沿面距離8.7km
標高差636m
ミヤマシキミ |
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区間沿面距離
ウス谷入口
↓ 2.0km
タテイワ谷右谷分岐
↓ 1.6km
立岩山
↓ 1.5km
日の平山
↓ 1.0km
論田の頭
↓ 2.6km
ウス谷入口
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