7:00 駐車場出発 曇り後晴れ 気温22度
ヒメマダラヒカゲ |
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7:30 車道
7:50 1053P
8:25 展望岩
8:45 苅尾山
9:15 1123P
9:35 サルキ峠
9:45 車道(984P)
10:10 二川キャンプ場
11:50 高原の自然館
12:50 カルカヤ橋
13:15 駐車場
長者原の空地で出発の準備をしていると、マラソン大会で車が止められないという。少し戻って、登山口北の駐車場を出発。国道沿いにママコナが咲き、ツルウメモドキが実を付けている。「臥竜山登山口」の道標がある所から山道に入る。コチヂミザサの道を上がる。オオカメノキの赤い実が多い。ときどき雨がぱらつく。大きなブナの横を通り、30分ほどで上の車道に出た。この車道はウマゴヤ谷の登山道まで続いている。
この辺りの植生は登山口から山頂の間に「コナラ群落」「ブナ−ミズナラ群落」「クロモジ−ブナ群集」と変化して行く。少し上の道標に従って登山道に入る。高度が増すにつれ、ブナの森に変わっていく。ユズリハが実を付けている。大きいブナが多い。ヒノキ林を通り、林道の三叉路に出た。西、東、北東に林道が通っている。ウリハダカエデの果実がまだ付いていた。
真ん中の登山道を登った。アキチョウジが咲いている。ブナ林を登り、三叉路から30分ほどで展望のある平たい岩の所に出た。ガスで霞む聖湖が眼下に見える。この辺りは低木ばかりで、背の高い木は枝を飛ばされている。聖湖から吹き上げる風がよほど強いのであろう。
展望岩から上の登山道は枝が覆い始める。背丈ほどシシウド、アザミ、イヌトウバナの道を進むと、ほどなく岩の苅尾山へ到着。ぶら下がっている札を見ると皆、臥竜山と書いている。苅尾山と呼ぶ人はあまりいないのであろうか。
フウリンウメモドキの鮮やかな赤い実の木の横を通って、ブナの原生林へ降りた。今の時期は枝が邪魔して見通せないが、積雪期に歩くと、ここにブナの巨木が何本もあるのがよく分かる。
巨ブナの間を通り、30分ほどで1123ピーク、そこから開けた所に出ると、前方に掛津山のアンテナ塔が見えてくる。右手にジャゴヤ谷が降りている。キンミズヒキ、ミゾソバ、ツユクサの咲く道を下っていくとカシワが多くなる。ササの葉にヒメマダラヒカゲが留まっていた。左に土塁が現れると、ほどなくサルキ峠。八幡牧場の境界の柵があったのか、柵にしていた二本の棒が峠にまだ残っていた。昔はここは、茅類が多かったのであろうか。
ツルニンジン |
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キミノガマズミ? |
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ヒヨドリバナに留まるアサギマダラ |
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そこから984ピークの車道に出た。車道は掛津山へ上がっている。車道を下った。ツルニンジンが咲いている。背丈を越えるススキが穂を出している。葉はガマズミだが実は黄色を付けている。いまから赤くなるのか、あるいはキミノガマズミか。アサギマダラがフラフラと飛んでいる。ヒメマダラヒカゲがここでもササに留まっている。
「有用広葉樹母樹林」の看板があった。ミズナラ890本、クリ310本、ブナ290本と書いてあり、平成3年の数字であった。車道は緩やかな流れのモリガ谷で大きく曲がり、その先で土草峠に上がる分岐となる。キクバヤマボクチが多い、ノダケ、ツリガネニンジンもあった。ほどなく、オミナエシの咲く二川(フタゴウ)キャンプ場に出た。そこはマラソンの折り返し点で、選手が次々と上がってくる。
実を付けたカンボクが多い。カラコギカエデも実が残っている。川沿いにネコヤナギが多い。地元では「トトコネコ」と呼んでいる。選手の行き交う道を、東の山々の眺めながら進んだ。コオニユリがちらほらと咲いている。ホソバアキノゲシ、ヒルガオ、ツリフネソウ、ガンクビソウなどがある。
「高原の自然館」を過ぎた先でオノエヤナギがあった。幹周62cmほど。縦に裂けた樹皮と細長い葉、葉の縁が裏に巻き込むなどの特徴がある。さらにその先に樹高10mほどのオノエヤナギが数本林立していた。千町原の辺りはオノエヤナギの多い所のようだ。牧野富太郎の碑を通り、前方に嶽のスキー場を見ながら進み、カキツバタの里を過ぎた川沿いに、伐採されたオノエヤナギから枝が伸びていた。三本の株立ちだが、幹周1mほどの大木であった。
カンボク |
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ビッチュウフウロ |
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羽の欠けたノシメトンボがロープに留まっていた。792ピークから選手の走る林を抜けて柴木川に架かる苅萱橋に出た。苅萱(カルカヤ)橋の南側が長者原である。昔はこの辺りも湿原であったが、圃場整備でその面影はない。
マラソン大会のお世話をしていた70歳を過ぎた地元の人に聞いてみると、この辺りもヤナギが多かったと言う。湿原を好むオノエヤナギが長者原に群生していた思われる。
「第6回・第7回自然環境保全基礎調査植生調査」によると、長者原付近の国道の南側の柴木川の右岸と同じく西側の柴木川沿いに「ヤナギ高木群落」がある(下図)。「オオバヤナギ、ドロノキ、オノエヤナギ、シロヤナギ、コゴメヤナギ等」があるようだ。柴木川には茅に混ざってネコヤナギが点々と生えていた。
「ある年、大洪水で長者の住んでいた家・屋敷・田畑が一晩にしてことごとく流失して川原となった。田畑のあとにはただ馬の爪跡だけが残っていたという。その後この地を長者原と呼ばれるようになったと伝えられている」(『八幡村史』)。
『八幡村史』にある伝説だが、長者が住んでいたかどうか分からないが、大洪水があったのは真実性がある。すぐ先の虫送峠付近は河川争奪の現場であった。
「河川争奪地形 河川は隣接する河川流域とは分水界を境にして競合関係にある。河川の高度差が大きく一方の河川の浸食が激しい場合、分水界が次第に侵食の少ない河川の側に移動し、一方の水流を奪う現象によって生じた地形」(国土地理院HPより)。
古八幡湖が存在していた時代、八幡盆地を流れる柴木川が、匹見川へ流れていた時代があった。虫送峠は風隙(フウゲキ)である。風隙は過去に河川が流れていたことを示す山稜線上のくぼみのことをいう。
侵食を進めた柴木川による河川争奪(あるいは古八幡湖の氾濫)によって、柴木川の流路が変わり、柴木川下流の川沿いに住む人々にとっては大洪水となった。それが長者原の伝説として残ったのではないか。
長者原湿原の堆積物の花粉分析が行われている。場所はカルカヤ橋東の780m標高の地点。深度125〜110cmの地点で、ヤナギ属花粉は5〜12%の出現率で比較的高率だった。そこは約8000年前の地層である(『高原の自然史12号』)。
8000年前は第2期八幡湖の時代で、そのころヤナギ属が生育していたと思われる。
「広島県芸北町の種子植物目録」のヤナギ科に以下がある。
ヤマナラシ(臥竜山)オオタチヤナギ(西八幡)サイコクキツネヤナギ(臥竜山)オノエヤナギ(千町原)コリヤナギ(西八幡)ネコヤナギ(千町原)ヤマヤナギ(千町原)(『高原の自然史2号』)。
カラコギカエデ |
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ノシメトンボ |
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■地名考
●古八幡湖に関係する地名
「八幡盆地は標高750m〜800mで、西中国山地の中でも最も標高の高い盆地である。周囲は1000mを越す山々をめぐらし、かなり広い面積を占めている。
湖成段丘が780m〜810m標高にあることより、古八幡湖の水面は、800mから810m標高であった。
盆地内の泥炭層の花粉分析から…古八幡湖は二度に渡って出現した。
氷期または晩氷期に出現していた第一古八幡湖。
第二古八幡湖の水が柴木川へ流出して、現在の状態になった」(「西中国山地」桑原良敏)。
青は「古八幡湖」の水面標高810m |
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古八幡湖は1.3万年前、第2期八幡湖は8000年前に出現している。古八幡湖の水面は810m標高まで達していた。湖があった時代、八幡盆地を囲む山々から流れる谷の水は、八幡湖に呑みこまれていた。
「湖水の成因は、臼木谷断層とこれ平行に走る臥竜山西側山麓の断層の活動により、地溝状に陥没したものと思われます」(『広島の地質をめぐって』)。
八幡盆地に湖があった時代か、まだ大きな沼が残っていた時代に確立したと思われる地名がいくつかある。
○大林(オオバヤシ)
oo-pa-yas-us-i
オオ・パ・ヤシ・ウシ・イ
深い・岸の・網ですくう・いつもする・所
819m標高の大林(三角点)は、810m標高の古八幡湖に浮かぶ島か、湖岸であったと思われる。
○尾崎谷(オザキダニ)
o-put-sak-nay
オ・プッ・サク・ナイ
陰部に・口・無い・川
川口がやせていると言うのは、川口がはっきりしない谷のこととである。尾崎谷の川口は沼のようなところであったと思われる。尾崎谷を下るにつれて、その川口は沼の中に消えていくような所であった。八幡盆地にまだ湖が残っていた時代の地名ではないか。
○水口(ムナクト)
mo-nup-kus-to-nay
モ・ヌプ・クシ・ト・ナイ
小・野・の向こうの・沼の・川
ムナクトはムナクト谷と呼ばれる谷の名である。ムナクトの上流にオモ谷があり、オモ谷の下流をムナクト谷と呼んでいたと思われる。810m標高の湖面はムナクトの谷を呑みこんでいた。ムナクトは東と西にある山の間にある谷であり、そこへ沢が流れ込んでいたのである。砂の出る沢で、川口を塞いでいたのであろう。
柏原山にムナクトオクの谷があるが、ムナクトオクの川口も沼のような所であったと思われる。
○土草峠(ツチクサタオ)
uturu-rukusi-tapkop-sar-taor
ウツル・ルクシ・タプコプ・サル・タオル
その間・通路の・タンコブ山の・茅のの・高岸
○虫送峠(ムシオクリタオ)
menas-o-kus-ru-pes-pe-taor
メナシ・オ・クシ・ル・ペシ・ペ・タオル
東の・そこを・通る・峠道沢の・高岸
「カワヨシノボリ斑紋型が太田川水系内で確認 されたのは八幡盆地だけであり、八幡盆地近隣の 河川で分布しているのは別水系となる高津川水系
匹見川のみである」(「八幡高原のカワヨシノボリ」吉郷英範 2003年)。
匹見川に特有のハゼ科のカワヨシノボリが八幡盆地だけに生息していることから、かつて柴木川が匹見川へ流れていたとの仮説がある。
虫送峠は匹見川への流路であった。柴木川から虫送峠にかけて「砂・粘土・礫」の表層があり、かつての河川跡であったと思われる(下図)。
カワヨシノボリは虫送峠を越えて八幡盆地へやって来た。カワヨシノボリにできたことは、ゴギについてもいえる。柴木川水系のゴギは人為的移入種と言われてきたが、自然分布の可能性がある。
ムシオクリタオの地名が形成された時代、川の跡がまだ残っていたのであろうか。虫送峠が「川口」であることは、柴木川が匹見川へ繋がっていた地名による証でもある。虫送峠の西側の谷は東側(柴木川)と比べて深く落ち込んでいる。「川岸の高所」とは、「匹見川(臼木谷)の川岸」の高所の意であろうか。
「島根県道川へ抜ける峠を八幡では虫送峠という。明治の初年頃まで、八月の盆の終わる日に、虫送りの行事が行なわれていた。わらで馬の形を作り、幣をかついで斉藤さねもりの歌を唄いながら、この峠より臼木谷の川へ流したという。島根県側もこの峠名がつかわれている」(「西中国山地」)。
虫送りの行事を行っていたのは八幡の人々であるが、なぜ、柴木川でなく、島根県側の臼木谷へワラ人形を流したのであろうか。
●苅尾山(カリウザン・カリオサン)
「カリウ山の初見は、黒川道祐『芸備国郡志』(1663年)である。山川門の項に狩龍山とあるのがそれで、漢文で記されているこの書はカリウ山と呼ばれているこの山に、発音通り狩龍山を当てたものと思われる。
苅尾山の初見は、『八幡村御建山野山腰林帳』(1716年)である」(「西中国山地」)。
苅尾山から掛津山へ縦走する途中に三角点のある1123ピークがあるが、その所在地は「山県郡八幡村大字東八幡原字刈尾」となっている(国土地理院・点の記)。
虫送峠から北東へ上がる柴木川は、ムナクト、オモ谷を通り1123ピークの水源へ達する。「そこにある川口」とは、ムナクトの谷へ入る川口のことであろう。ムナクトへ入る川口は「山から浜へ出る」出口でもある。
大林、尾崎谷、ムナクト、土草峠、虫送峠などの地名が、八幡湖の存在のもとに成立したのであれば、少なくとも数千年以上さかのぼる地名であろう。
カシミールデータ
総沿面距離15.8km
標高差466m
サワギキョウ |
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区間沿面距離
駐車場
↓ 3.1km
苅尾山
↓ 1.2km
1123P
↓ 0.9km
サルキ峠
↓ 6.8km
千町原
↓ 3.8km
駐車場
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