山歩き

立岩ダム…バアガ谷…イシノコヤ…キリイシノタキ 2007/4/15
立岩ダム…今毘羅大権現…バアガ谷…展望岩…下の巨石(大谷川)…イシノコヤ…上の巨石…キリイシノタキ…立岩ダム

押ヶ垰
立岩貯水池の水天宮
今毘羅大権現 大谷川左岸
大谷川西の観音
炭焼き跡の石積
倒木で埋まる谷
小谷が上がるバアガ谷
バアガ谷の展望岩からみた立岩貯水池

展望岩から見える十方山

薮尾根のブナ
岩場付近から見たキリイシノタキ
大谷川右岸の平坦地
大谷川の上の巨石
キリイシノタキから巨石に降りるゴウロ
  キリイシノタキの岩壁
壁の裂け目
キリイシノタキから立岩貯水池を望む
十方山
7:30 立岩ダム出発 晴れ
 
 

8:05 バアガ谷
10:35 バアガ谷水源
12:35 下の巨石
13:30 上の巨石
15:40 キリイシノタキ
16:20 882P
17:05 立岩ダム

 立岩ダム駐車場を出発、押ヶ垰断層帯の説明板の上に押ヶ垰の集落がある。県道から上の押ヶ垰を「上城」(ウエジョウ)、下側を「前城」(マイジョウ)と呼んでいるようだ。

 ダム貯水池の島の頂に祠があるが「水天宮」と呼んでいる。大谷川左岸の「今毘羅大権現」に寄ってみた。大権現の入口にあった鳥居は崩れている。今にも崩れそうな建物の奥に神殿がある。屋根瓦に「金」の字が見える。「金毘羅」でなく「今毘羅」と表すようだ。

 『国郡志御用ニ付下調べ書出帳・吉和村』(1819年)に由来がある。

 「今毘羅大権現 右鎮座之由来者往古此所ニ火難有讃州金毘羅を遥拝祈願いたし候得者忽チ数千鳥来テ火災ヲ助ケける故村民敬拝して小祠を建則立岩山金毘羅大権現と崇祭ル由申傳」とある。

 大谷川を過ぎた少し先に観音様が祭ってある。観音様は新しいものだが、古くからここに小祠があったのかもしれない。

 「書出帳」によると吉和・下山には、鎌ヶ森明神(カマガモリミョウジン)、着の森明神(チャクノモリミョウジン)、氏ヶ薮明神(ウジガヤブミョウジン)、地主明神(ジヌシミョウジン)、郷ノ森明神(ゴウノモリミョウジン)、川崎大明神(カワサキダイミョウジン)があった。

落ちていた鎌


 バアガ谷の小谷を上がってみた。谷の入口に鎌が落ちていた。近くの木にぶら下げておいた。今日はこの鎌に関係ありそうな「鎌ヶ森明神」の由来を確かめようと思っていた。

 スギ林を上がるバアガ谷は、スギの倒木で埋まっている。右岸のスギ林に小道が残っている。少し上がると炭焼窯の跡があった。大分上にも炭焼き跡の石積みが残っていた。

 炭焼き跡からほどなく、谷は小滝の水路が上がっている。夏靴では登れそうにないので、右岸の尾根に上がった。立岩貯水池から上がる尾根にテープが巻いてあった。境界測量の道のようだ。大分登ったところで展望岩に出た。シジュウカラが上の木に留まっていた。眼下に立岩貯水池があり、キリイシノタキ、十方山山頂を見渡すことができる。

 薮尾根を進み、周囲3mほどの大きなブナを通り、バアガ谷の水源のスギ林の所に出た。そこから大谷川へ降りる尾根にトラバースして、大谷川の左谷へ降りる尾根に移った。大谷川左谷の尾根下斜面は大きなブナがある。折れて涸れたブナの巨木が残っていた。尾根上の大岩を乗り越したところから東側の急な斜面を降りた。思った以上に急な下りだった。大谷川の下の巨石の所で休憩した。

大谷川の下の巨石の入口


 下山に「鎌ヶ森明神」がある。 

 「此鎌ヶ森と申者往古猟師犬引狩ニ罷出候処右森有之処ニ土穴者之犬彼之穴江這入ニ付猟師も犬之跡ヲ追穴江這入候得者廣キ人家有之稲熟シ居候処猪鹿喰荒シ候ニ付彼所之もの猪鹿ヲ取呉候様相頼候ニ付数日逗留致し罷帰候節彼所之もの是ヲ以笹の根ヲ切リ帰リ候得と申少キ異形之鎌ヲ呉候ニ付持帰リ則其鎌ヲ神躰として小祠ヲ建相納メ尊敬仕候由申傳候然ル処三拾年巳前右之鎌失候ニ付早速鎌ヲ新ニ調納置申候」(『国郡志御用ニ付下調べ書出帳・吉和村』1819年 『吉和村誌』より)。


 昔、猟師が犬を連れて鎌ヶ森へ入った時、犬の跡を追って穴に入ると、そこに広い人家があり、稲が熟していたが、家の者が猪鹿が食い荒らすので取ってくれと言うので、数日逗留して帰るとき、これで笹の根を切って帰れと言って、異形の鎌をくれた。その鎌を神躰として小祠を建てたと言う話である。

上流側からみた巨石
大谷川


 穴に入ると、そこに人家があることから類推してみると、穴は大谷川にある巨石の穴のようであり、家はその先にある「イシノコヤ」のことではないだろうか。鎌ヶ森は大谷川にある巨石の上流辺りのことのようである。

 大谷川を上がり、巨石の穴を潜ると、イシノコヤである。イシノコヤは「石の小屋」でなく、「イシノコヤ」と呼ぶ谷の名である。大谷川の下の巨石から上の巨石辺りまでをイシノコヤと呼んでいたと思われる。そのイシノコヤの谷に人家があったのではないか。

 イシノコヤの谷に住む人は、里人が使う鎌と違って、「異形の鎌」を持っていた。里人とは異なる人々が住んでいたと思われる。

 猟師は「異形の鎌」をもらって、ご神躰として小祠に祭るのだが、「異形の鎌」を何故、社まで作って祭ったのであろうか。「異形の鎌」は、猟師が逗留した人家に祭ってあったものではないだろうか。

 以下、「アイヌ民族博物館」のホームページから引用する。(全文はこちら

 写真は,当館収蔵資料「木下清蔵写真」の一枚である。白老で写真館を経営していた木下清蔵氏が昭和初期,白老のチセ(家)を撮影したもので,原資料はガラス乾板。

 母家の棟の両端に注目してほしい。何かが避雷針のように立っている。筆者はプリント写真を見て一般的なイナウ(木幣)が朽ちたものだと思っていたが,原資料を拡大してみると,棒の上から垂れているものはイナウの削りかけにしては幅が広すぎる。一見鎌のようでもある。

 木下写真には同じ被写体と思われる写真が他に2枚あるが(資料番号90009, 90010),撮影時期が異なるようで,鎌の刃に見える部分の向きが変わっていたり,失われてただの棒になっていたりする。ということは鎌ではない。あるいは笹の葉だろうか?

 



 猟師が持帰った「異形の鎌」はイナウ(木幣)ではないだろうか。「笹の根を切れ」というのは、笹のイナウであったのかもしれない。イナウは木製の祭具のひとつで、本州以南のいわゆる「削り花」と非常によく似ている。イナウの機能としては、神への捧げ物となる、神へ伝言を伝える、魔払い、清めを行う、それ自体が神となるなどいくつかのものに分かれる(「アイヌ民族博物館」HP)。


 鎌ヶ森
 鎌ヶ森明神



 巨石の穴を潜り、大谷川を上がった。左谷の分岐付近から右岸に小道が残っているが、これはヒキジノオカへ上がる道である。大谷川左岸に所々道が残っているが、崩れているところが多い。流れに小魚が走る。ゴギのようである。上の巨石手前の右岸に平坦地がある。ここに「人家」があったのかもしれない。

 上の巨石を抜けると、左岸から谷が降りている。この谷は涸れ谷で、石が埋まるゴーロ帯になっている。このゴーロ帯の上部がキリイシノタキである。

 


 ゴーロをキリイシノタキへ向って登ってみた。ゴーロは途切れるところがあるが、また上で現れる。最後はキリイシノタキの壁に塞がれた。西側へ廻ると、壁が割れたところがあった。急な壁の間を登り、細いブナを過ぎて、ちょうどキリイシノタキの上手の尾根に出た。キリイシノタキの展望岩で一休みした。足下に立岩貯水池がある。そこから立岩ダムに降りる尾根を下った。







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カシミールデータ
総沿面距離8.0km
標高差630m

区間沿面距離
立岩ダム
↓ 1.5km
バアガ谷
↓ 2.4km
イシノコヤ
↓ 1.5km
キリイシノタキ
↓ 2.6km
立岩ダム
 

今毘羅大権現
今毘羅大権現
今毘羅大権現
今毘羅大権現
今毘羅大権現
今毘羅大権現
今毘羅大権現
今毘羅大権現
今毘羅大権現
大谷川
観音
バアガ谷
バアガ谷
バアガ谷
キリイシノタキ
立岩山
十方山
大平山 正教山
ブナ
スギ林をトラバース
キリイシノタキ
キリイシノタキ
イシノコヤ
イシノコヤ
上の巨石
キリイシノタキへ上がるゴーロ
ゴーロを登る
キリイシノタキ直下
キリイシノタキ直下
岩壁の裂け目を登る
岩壁の裂け目
上から見た岩壁の裂け目
立岩山と貯水池 キリイシノタキから
日の平山
十方山
登路(青線は磁北線 薄茶は900m超 茶は1000m超)