7:35 馬越出発 晴れ 気温−1度
8:20 坂原中央橋
9:50 シンベイ谷入口
10:35 奥の原山
10:55 小室井山
12:40 高速道の林道
13:30 キリフサギ
14:25 馬越
シモトチヤマ谷入口の栃山トンネルを抜けると、186号線は右へ曲がり、高速道をくぐると馬越である。桜咲く水田跡の石垣にある墓所が、朝陽に明るく照らし出されていた。墓の横をミズネエキの谷が下りている。住居跡が残っており、集落であったようだ。馬越付近の筒賀川は緩やかな流れである。
186号線を進み、川がS字に曲がる所に馬越橋がある。そこに「筒賀村内で釣りをされる方へ」の看板があり、遊魚料は無料と書いてあった。ここの左岸から降りる谷はキヤソウと呼ぶ。その先にある橋は「高橋」と書いてあった。その先の右岸からカミトチヤマ谷が下りている。
小祠の石碑 |
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ツヅラ谷を過ぎ、国道を上がると、鉄の小橋の架かる筒賀川の右岸に小祠があった。祠の横の石碑に、「旧大番神社は中国縦貫道自動車道建設用地内にあり、昭和55年10月現在地に遷座した」とある。『山県郡上筒賀村絵図』のこの付近に「山神」とあるが、「大番神社」のことであろうか。
祠のすぐ先の左岸はウス谷で、筒賀川の岸に「宮平山」法面工事の看板がある。その辺りから坂原の集落に入る。坂原は上筒賀の開けた谷で集落も多い。国道から旧道へ降り、東坂原橋を渡った。右岸に水田の石垣が続く。坂原中央橋で国道と繋がる。大歳神社がすぐ先にある。
そこからオクノハラ谷へ上がった。農家のおじさんに「貝がら塚」を尋ねが、聞いたことがないと言う。『松落葉集』(1768年)に歌われ、『書出帳・上筒賀村』(1819年)にも「貝がら塚」があるが、もう忘れれたのであろうか。
ゴギを尋ねると、子どもの頃、オクノハラ谷でよく釣ったと言う。昔からこの辺ではゴギと呼んでいると。オクノハラ谷には昔、銅山があったと言う。
オクノハラ谷のゴギが移植されたものか、昔から居たのか分からないが、ここのゴギの歴史は古いようだ。高速道をくぐり、コンクリートで固められたオクノハラ谷の左岸の林道を上がった。堰でも築くのか、パワーシャベルが2台、谷に置かれていた。その上の奥の原橋に「奥の原川」とあった。
「ホンタニバシ」を渡ると、林道はヤケノイタ谷に入る。谷は数十メートルの間隔で堰がある。林道の分岐に「猪股線」とあった。ここから猪股峠へ林道が繋がっているようだ。その少し上でも林道が分岐するが、そこら辺りが「田形」のようだ。「西中国山地」では田の跡の意があるが、とても田んぼがあったようには思われない。
オクノハラ谷のゴギ 800m付近 |
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田形の少し先の800m付近にコンクリート堰があった。堰の上から覗いてみるとゴギが居た。この谷は大分上部までゴギの居る谷のようだが、堰が多いので孤立した谷に棲むゴギである。谷の先に立岩山が見える。
林道がU字に曲がる地点に、「A流域 無施業区」の看板がある。そこからシンベイ谷へ作業道が上がっている。シンベイ谷に堰を作るための道であった。それがこの谷の一番上の堰であった。
スギとヒノキの林を上がった。青羽根の鮮やかなカケスが飛び立った。そのすぐ近くに金色のキツネが谷を駆けて行った。ヒノキ林の中に「水土保全機能強化総合モデル事業」の看板がある。作業道に入ってから30分ほどで奥の原山に上がった。山頂付近のクリノキにクマ棚が残っていた。
ササと若いブナの尾根を進み、もみのき森林公園の遊歩道に出た。そこからほどなく小室井山の山頂だった。奥の原山から20分ほどであった。山頂のカヤ原の先に見える山は羅漢山から冠山にかけての山並みのようである。
小室井山は三等三角点で、明治28年の選点。所在地は、佐伯郡吉和村字石原(点の記)とある。遊歩道を少し戻り、ササ原のフタツバラノ谷を降りた。大分下った所で西側に林道が通っていた。この林道はフタツバラノ谷の真ん中を降りているが、潅木で覆われている。ブナの大きな木が一本残っていた。
フタツバラノ谷の先に日の平山が見える。フタツバラノ谷は真ん中が広い平坦地で真っ直ぐに林道が降り、左右に小谷がある。
大分下った所で、下に向かって左側の谷が大きく崩壊していた。赤い土の脆い地盤のようだ。ササがなくなると、スギ林に入る。小室井山から1時間半ほどで、高速道に沿う林道に出た。林道を西へ進み、石原大津橋を渡って186号線に降りた。
高速道の境トンネルを右手に見ながら、国道は左に曲がる。その曲がった辺りの筒賀川左岸にウサク谷が下りている。岩がゴロゴロと落ちている崩れやすい谷のようだ。落口に株立ちのカツラの大木がある。カツラの木の後ろに僅かに石積が残っていた。この辺りの昔の道は、おそらく筒賀川の左岸にあったと思われる。そこからすぐ下流に境橋が架かっている。
ウサク谷から見た境橋 |
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「西中国山地」の「市間山・立岩山」の項の地図の筒賀・吉和境に「切ふさぎ」があるが、それについての説明はない。
『上筒賀村・中筒賀村諸色覚書』(享保12年・1727年)に上筒賀村の境界が示されている。
東境 中筒賀村市ノ谷限り
西境 佐伯郡吉和村伐りふさぎ塚限り
南境 同郡多田村いのまた峠限り
北境 戸河内村大垰限り
とあり、「切ふさぎ」は吉和・筒賀境の「伐りふさぎ塚」のことのようだ。
延宝5年(1677年)の梶原家文書に以下がある。
「『佐伯郡吉和村山県郡上筒賀村此界ニ有橋、従往古両村申合掛之、破損等同繕之、今年御国廻付而俄掛直之、桁長故其木急速難調之、依之七拾歩程川下ニ而掛之、然時者山県郡之内江七拾歩程入之、古之橋台雖有之依老退転之、恐如此書付相渡所也、向後以此書付可有裁許者也
延宝五年十二月十五日 林市兵衛(花押)
(四名略)
山県郡上筒賀村庄屋
八左衛門へ』
これによると、この時に橋の位置が七○歩ほど坂原側に下ったことがわかる。これで境界が変わるわけではないので、もとの橋のところにあった『伐りふさぎ塚』が村境の標識とされたものと思われる」(『筒賀村史』)。
「切ふさぎ」は「伐りふさぎ塚」と呼び、吉和村と上筒賀村の境界のことであった。境界に元々あった橋から、坂原側に70歩寄った所に橋が作られている。
西境を除く他の三境は峠と谷なので、その位置は分かるが、「伐りふさぎ塚」は現在の境界と同じなのであろうか。「伐りふさぎ塚」とは何を意味するのであろうか。
『御建山野山腰林帳・中筒賀村』(享保元年・1716年)に、奥の原山の西は、「吉和村堺きりふさき」とある。立岩山の南西は「吉和村境切ふさき尾より下山境岑尾限り」とある。奥の原山は小室井山東の1045m峯のことである。
「切ふさき尾」は「キリフサギツカ」から論田の頭へ上がる尾根のことであろう。
『国郡志御用ニ付下調べ書出帳・吉和村』(1819年)の往還道に「坂原境切塞キ」があり、野山に「足谷切塞山」がある。吉和村側では、キリフサギツカの西面辺りを「足谷切塞山」と呼んでいたようだ。
「村と村との間で境界をめぐって争論があって解決するにあたり、その村に塚を築いたり堀を掘ったりする事例は全国的に存在したが、おそらくそうした目印として栗栖氏ゆかりの塚が利用されたのではなかろうか。東の境と同様に元来はここも橋が村境の目印とされていたが、塚に変わったのであろう」『筒賀村史』。
ウサク谷左岸に残る石積 |
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ウサク谷の落口付近から国道を下流へ歩いてみた。境橋の西詰まで65歩であった。ウサク谷は石の出る崩れる谷であった。ウサク谷付近から筒賀川右岸に渡る橋は、よく壊れたのであろう。おそらく領主の御国廻りがあり、急いで下流に橋を作った。それが現在の境橋辺りであったと思われる。「切ふさぎ塚」と呼んでいるが、塚のような目印が元々なかったので、上記の文書を残すことになったのではないか。
「キリフサギ」は「ウサク谷」と思われる。おそらく元の名は「キリウサギ谷」「キリウサク谷」であろう。ウサク谷のような石の出る谷に、以下がある。
十方山南のキリイシのタキ
三段峡横川川の五郎堰(古名はゴロゼキ)
大峯山のカレキガ丘
三段峡五郎堰付近のガレ場 |
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ウサク谷 |
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「キリフサギ」と呼ぶ地名は、吉和村や上筒賀村が誕生する前から呼ばれていた古い地名ではないだろうか。石原峠が筒賀川の水源であるが、石原峠が村境とならなかったのは、「キリフサギ」の地名や筒賀川の古名がヨシワ川であることと関係あるのかもしれない。
境橋の先の山腹は工事が行われている。タテイワ谷付近で「貝がら塚」を尋ねたが、知らないと言う。ミツマタの花が咲いている。筒賀川沿いに坂原の長い大きな集落がつづく。万福寺、大歳神社を通り、キリフサギから1時間ほどで馬越に帰着した。
カシミールデータ
総沿面距離12.7km
標高差618m
区間沿面距離
馬越
↓ 1.8km
坂原
↓ 4.4km
小室井山
↓ 3.4km
キリフサギ
↓ 3.1km
馬越
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