8:05 古江出発 晴れ 気温0度
10:20 火防線尾根
10:15 ヨコミチ
11:15 火防線尾根
12:00 大将陣山
12:15 ヤグラダキ
12:25 林道
14:00 佐古
14:45 古江
江龍寺横の河川の広場を出発。広場に、川に接する岩の小山がある。上には社があり、古い墓がある。この小山は土手の上にあるが、土手がない時代は、川の中にあったように思われる。車道を上がると、河内神社に杉の大木がある。
イノシシわな標識 |
|
車道はオクノ谷入口で行き止まり。そこに「わな」注意の標識が立ててある。「ここより奥の山10mから100mまで、わながあります」とあり、「わな数・足くくり・10個」とあった。イノシシわなのようである。「急傾斜地崩壊防止工事」の看板もある。
ヒキジノオへ登る道を確かめていると、カチャカチャと音がする。すぐ横の黒網を掛けた中で、小さいワサビ田の手入れをされていた。道を聞いてみると、この辺りの地籍調査をされた、山に詳しい方だった。オクノ谷にも道があるようだ。
オクノ谷上のヒチマイとササの谷の間に巨石があると言う。ヒチマイは古江では「ヒチマン」と言う。「西中国山地」には書いてないが、ヒキジノオの東側の谷はツエガダニと言う。おじさんの話では、大正期の今から100年ほど前、ツエガダニが崩れ、宇佐川をせき止めて、川が逆流するほどの大規模の土石流があり、現在、おおきな砂防堰堤が、ツエガダニの川口につくられている。
ブナは残ってないか聞いてみると、全部伐採して、大きい木はトチノキくらいしかないと。ヒキジノオを上がると「火防線」があり、そこを通るといい。この辺りでは、防火線のことを火防線と言う。「火防線」は火を積極的に防ぐ意があるのだろうか。
M氏の「古江の蛇釜伝説」が載る本 |
|
おじさんが昔から聞いている昔話が、本に掲載されたと言って、わざわざすぐ下の家に戻り、見せてくれた。「錦町の昔ばなし 錦ふるさと散歩」と言う表題の本で、「古江の蛇釜伝説」のはなしである。
昔、須川の沼田の猟師が、鹿を射止めたと思ったら、それが大蛇で、「のまれる」と思って逃げたが、猟師は熱におかされて間もなく死ぬ。猟師に撃たれた大蛇はクロウ谷で息絶える。その大蛇の頭骨が三宮神社にある。その後、大蛇がいたところに行ってみると、こんこんと水が湧き、「蛇釜」と名付けられた。しばらくの間、雨乞いの行事、「うじこおどり」が行われていたと言う。
丘を宇佐川が切る |
|
佐古から見た丘 |
|
おじさんに礼を言って、ヒキジノオを登った。車道から山道を登ると、古江を見渡せる展望地に出る。そこから宇佐川を見て驚いた。大将陣山から下りる尾根は、長い岬が宇佐川に迫るように降りている。
古江の意を調べている時、その地形が想像できなかったが、現場に来て初めて理解できた。そこはまさに丘が切れている所だった。大将陣山から下りてきた急な尾根は、古江で緩やかな半島のようになっている。それを宇佐川が切っている眺めだった。
おじさんの話では古江に下りる丘尾根の竹林に「平家の落人伝説」があると言う。展望地から火防線尾根の923ピークが見える。登口には古い墓が並んでいる。竹林を抜けるとヒキジノオの尾根筋に出る。林間からツエガダニの砂防堰堤の広場が見える。
雑木の尾根に沿って、アンテナ線だろうか、上がっている。西側の尾根に佐古から上がる林道が見える。ツエガダニから山道が上がっていた。
クリノキの爪痕 |
|
ヒノキ林を抜けると、クリノキにクマ棚が多くあった。爪痕も残っている。2時間弱で火防線の県境尾根に出た。尾根筋を広く伐採してある。ツエガダニ側へ回ってみたが、急峻な谷はヒノキ林になっている。崩谷にヒノキを植えるのはどうだろうか。
「古江と島根県の藤根を結ぶオクノ谷径かヒキジのオの径を登って県境に出、県境主稜の防火線を登って山頂へ至るコースもあるが、これは島根県側から登る方が楽である」(「西中国山地」桑原良敏)。
ここからヨコミチ |
|
広島山稜会 |
|
広い火防線を進むと薮になってくる。「公社造林 中尾事業地」の看板があった。そこからヒノキ林の中を火防線尾根と平行に小さいヨコミチが通っていた。ヨコミチを進んだ。ヒチマイの水源の谷から羅漢山が覗く。焚き火跡の所に、ヒチマイから径が上がっている。
ササ谷へ回る尾根から羅漢山全体が姿を現した。ササ谷対岸に林道が見え、そこへヨコミチが続いていた。ササ谷へ回ると、ヨコミチはササが深くなる。ササ谷から急な尾根を登った。ノウサギの糞がある。
ヨコミチに入ってから1時間ほどで、雪が僅かに残る火防線尾根に出た。ここからはササ薮となる。雪がない尾根は背丈のササが立っている。五里山の尾根のような所であるが、短いので我慢できる。広島山稜会の分水嶺のプレートを過ぎると、山頂は近い。ヤグラダキの分岐で薮ササは終わり、ほどなく山頂に着いた。古江から3時間半ほど。
三角点横の標柱に「4等三角点」と見えた。二等三角点のはずだが、と思ってよく見ると、「AG三角点」と書いてあった。大将陣山は、二等三角点で明治27年の選点。所在地は山口県玖珂郡錦町大字須川字中尾。
山頂は林で展望はない。すぐ下のヤグラダキに降りた。大将陣山の楽しみはヤグラダキからの眺めだろう。ここから見る羅漢山は大きい。すぐ下に山を切り取ったような段々畑の沼田の集落が広がっている。冠山はこちらから見てもはっきり分かる。
大将陣山の古名は「ダイショウチン」と言う。(『防長地下上申』1749年「西中国山地」)。
ヤグラダキは幅3m、長さ10mほどの細長い岩が突き出ている。そのため眺めがよく、下は深く落ち込んでいる。大小丸から上がる林道から見ると、突き出た様子がよく分かる。「岩脚」というのは、ヤグラダキのことではないか。そうすると、ヤグラダキは、
yaw-kut-utur-us-tapkop
ヤゥ・クッ・ウトル・ウシ・タプコプ
小さい・崖・の間・にある・タンコブ山
杉の崩壊地と沼田集落 |
|
宇佐川へ落ちる崩壊地 下側 |
|
ヤグラダキのすぐ下を林道が通っている。林道を少し降りると崩壊していた。もろい、泥土のような山である。この林道はササ谷側へ回る、曲がりくねった道である。ササ谷へ曲がる突端に、ヨコミチが上がっていた。このヨコミチは火防線尾根と林道を結んでいる。
ジャノ谷上部は水が無い岩の谷である。スギが赤く染まり、花粉が膨らみつつある。大分下ったところで、崩壊地に出た。スギ林が、歯が抜けたように宇佐川まで落ちていた。その歯の抜けた空間に、沼田の棚田が覗いていた。
長い林道を1時間半かかって、佐古集落への分岐に出た。陽だまりにナノハナが咲いている。通行止めの林道を、古江の展望地から見た丘尾根に向けて上がると、先ほどの林道の崩壊現場の下に出た。スギ林の地の弱いところがごっそりとやられて、宇佐川へ落ちていた。
丘尾根の峠まで上がると、林道は上に上がっている。丘の尾根を降りる、使われていない小道がある。少し降りると、イノシシわなの中に入ってしまった。まるで地雷原のような径で、わなが八つほどあった。車道に出ると、すぐ先が出発点だった。
カシミールデータ
総沿面距離13.2km
標高差839m
累積標高1504m
区間沿面距離
古江
↓ 2.8km
火防線
↓ 2.9km
大将陣山
↓ 7.5km
古江
■地名考
●ヒキジノオ(大将陣山)
●ヒキジノオカ(十方山)
ヒキジノオより一字多い地名が十方山にある。「ひきじ」と呼ぶ地名は多いようで少ない。カシミールで22件あり、西日本が多い。「西中国山地」の山の尾根にあるのは、この二つだけである。
十方山から下りる大谷川(オオダニゴウ)に、イシノ小屋がある。その付近の、大谷川と左谷が交わる所に巨岩がある。今も谷の流れに削られている。この上部にも巨岩がある。
「石の小屋は石で作った小屋ではなくて、転石がごろごろしていると所の小屋である。左谷の水は多く伏流だ。洪水毎に岩を押流したものであろうがダム水没以前はこの前面は可耕、適住地で下山組中最も広かった」(『吉和村誌』)。
上記左谷とあるのは、右谷の大谷川本谷のことであろう。大谷川は岩が押流して出来た、石の多い谷である。谷中は石が残り、今のダムがある川口は、可耕可能な砂が出たようだ。
「西中国山地」に「ヒキ」を含む地名に以下がある。
ヒキヤケ(安蔵寺山東)
ヒキアケ(香仙原西)
ヒキワケ(馬糞ヶ岳東)
ヒキアケ(白旗山南)
ヒキアケ(鈴ノ大谷山北)
ヒキアゲ谷(冠山東)
ヒキゴヤ(長野山東)
ヒキジ峠(柏原山東)
オクノ谷の水源のヒチマイ付近に巨石があると言う。「マイ」を含む地名は、「西中国山地」ではここだけである。
|