7:05 真地出発 晴れ 気温7度
9:15 林道終点
9:35 1077P
10:15 猿政山
11:00 1129P
11:40 大毛無
12:10 毛無山
13:15 毛無山牧場北
14:10 水谷鞍部
15:10 呑谷集落
15:40 呑谷尻橋(432号線)
16:00 真地
国道432号線から内尾谷川へ渡る、真地地区の橋を出発。橋の入り口に、「可部屋集成館」「櫻井家住宅」の看板がある。可部屋集成館の前を通り、その先に猿政山への林道の入り口がある。林道入り口に看板がある。「猿政山は、上阿井地区の広島県境にそびえる独立峰です。島根県内で2番目に高い山で『出雲国風土記』に御坂山と記されている神話の山でもあります」(仁多町・島根県)。
内尾谷川(ウチオダニガワ)に沿う林道を進んだ。山々は赤く染まりつつある。ミツバチの巣箱がたくさん置いてある。柿の木の横に、クマの捕獲オリが仕掛けてある。吾妻山の東の毛無山は、クマの痕跡のない山だったが、その西にあるこの辺りは、クマが里に出ているようだ。さらに進むと、またミツバチの巣箱があった。「阿井鳥獣保護区区域図」の看板がある。この辺りは「阿井」(アイ)と呼ぶようだ。その看板にキビタキとヤマセミが描かれている。
刈り入れの終わった水田が焼かれていた。その上に民家があった。廃屋もある。内尾谷川に沿って続いていた送電線は、この民家で終わっていた。ツリフネソウがまだ残っている。民家を過ぎた所に、草むらから頭を出した放棄された墓石が四基あった。大分古いものもあった。
振り返ると、内尾谷川の先に、鯛ノ巣山から鉄屋山の峯が続いている。「ツキノワグマの生息区域」の看板を過ぎると林道の鎖止め。王子製紙社有林の看板がある。スギの植林帯に入っていく。展望の利く林道から、通ってきた集落が小さく見える。その集落の上に、大万木山が見える。もう終わりのキバナアキギリが少し咲いていた。
林道の分岐を右へ進む。前方に猿政山が頭を出している。深い内尾谷川が、猿政山に深く入り込んでいる。林道に古いクマの糞が残っていた。妙に白いので、よく観察してみると、サワガニのツメや甲羅がたくさん混じっている。谷を歩くクマにとって、サワガニも重要な食料源のようだ。
猿政山が目の前にある。スギ林の上の山は錦に染まっていた。ようやく林道終点に到着、そこが猿政山登山口である。登山口は、猿政山の峯へ続く、すぐ下にあった。真地から2時間ほど。
急坂を登ると、尾根道に出る。少し進むと西から上がる踏み跡がある。俵原川からの登山道のようだ。登山道は若いブナの道である。一度、皆伐されて再生したブナであろう。ブナの落葉の道を歩く。ほどなく1077ピーク。猿政山への急な登りとなる。少し登って振り返ると、吾妻山は雲の下だが、立烏帽子の頭が覗いている。三ヶ所の縄場を越して、ようやく上の峯へ出た。そこからほどなく猿政山。真地から3時間ほどだった。
林で展望はないが、北東側が少し開けている。山頂に湯川小学校校歌の書かれた道標がある。「さるまさ山や かんのせの 清い自然に いだかれて 友と手をとり 学ぶとき 広い心が わいてくる…」。
道標の下に、三番まで書かれた校歌の銅版があるが、道標に書かれた歌と違うので、別の校歌があるのかもしれない。二番に「阿井川」があるが、北の奥出雲町の阿井のことであろうか。
猿政山道標の校歌 |
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山頂銅版の校歌 |
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猿政山は、点名、猿政山で明治21年の選点、一等三角点の一回り大きい石柱が立っている。
ササの道の西の尾根を下りた。東側に大万木山が見える。吾妻山は猿政山の後で見えないが、だんだんと頭を出してくる。笹谷川の先の集落が見える。猿政山の長い峯に別れを告げる。前方に、赤く染まった1129ピークと大毛無が並び、その先に毛無山が見える。西側に内尾谷の集落が見える。1129ピークに近づくと、紅葉が一段と映えてくる。
1129ピークから下ると、ブナ林に変わる。若い、清々しいブナの林が続く。大毛無へ続く峯へ上がると、岩場の道となる。猿政山から1時間半で大毛無。
大毛無は、点名、毛無山で四等三角点、俗称 登曽根と言う(点の記)。大毛無から進むと、展望が開けてくる。毛無山に上がる車道が見える。霞んでいるが、吾妻山から竜王山に掛けての峯が見える。その辺りは、展望地になっている。毛無山から大勢がこちらへ上がってくるのが見える。西側に毛無山牧場が見える。
大毛無から30分で毛無山。山頂は身動きできないほどの人だった。早々に引き返し、毛無山の北の鞍部から西へ降りた。枝は多いが、ブッシュのない斜面である。谷に出たところで、北側の尾根の走り根に渡った。この尾根には踏み跡があった。2万5千地形図にある破線道は健在だった。毛無山から1時間ほどで、毛無山牧場北辺りの車道に出た。
車道を進み、地形図の破線道を辿った。車道から草むらの林道へ上がるが、林道は先ですぐ終わる。その先の谷を少し下ると、谷に大きな穴が開いていた。直径数メートル、深さも4、5mほどある。こんな穴が三つ、谷に沿って並んでいた。
北へ進むと、踏み跡が残っていた。それを辿って北へ進む。所々、薮となっているが、北へ進む。水谷の鞍部を越え、呑谷の右谷を下ると、道がはっきりしてくる。毛無山牧場北の車道から2時間ほどで、呑谷集落のあった林道に出た。大毛無が正面に聳えていた。呑谷(ノンダニ)の集落は、すべて廃屋だった。水田はススキの原に変わっていた。呑谷集落から30分ほどで、432号線の呑谷尻橋に出た。タタラの里の真地集落を下り、出発点に帰着した。
呑谷集落の廃屋 |
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呑谷入口 |
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カシミールデータ
総沿面距離21.7km
標高差885m
累積標高+2019m
累積標高-2001m
区間沿面距離
真地
↓ 9.4km
猿政山
↓ 2.5km
大毛無
↓ 1.1km
毛無山
↓ 5.5km
呑谷
↓ 3.2km
真地
■地名考
●毛無とカラスガイとヒワ
比婆郡に帝釈峡の縄文遺跡がある。比婆郡の毛無山群から20km南の帝釈峡にある馬渡岩陰遺跡など4つ遺跡群は、石灰岩の岩陰や洞窟を利用した縄文時代の遺跡である。
発掘調査では、旧石器時代から縄文時代前期に及ぶ文化層が発見された。オオツノジカは大型の絶滅動物で、縄文時代の初頭までこの地域では生き残っており、狩猟の対象となっていたことがわかっている。(「広島大学埋蔵文化調査室」)。
また、帝釈峡の縄文遺跡から多くのカワシンジュガイが出土している。北海道でいうカラスガイはカワシンジュガイのことで、沼貝ともいう。カワシンジュガイの幼生はイワナやヤマメなど魚類のエラやヒレに付着し、これらとともに移動する。広島県の小瀬川には昭和20年頃まで相当数が生息していたようで、世界の南限といわれていたが絶滅した。山口県も絶滅種、島根県は絶滅危惧類になっている。
現在、広島県の芸北に、カワシンジュガイが生き残っており、世界の南限になっている(「芸北高原の自然館」HP)。
毛無・貝・ヒワの地名の位置 |
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猿政山周辺 |
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「貝」の字は万葉集にあり、古く遡る文字のようだ。
「貝」を含む地名は、海岸沿いでなく、山間部に多い。
北海道の美馬牛(ビバウシ)はアイヌ語で pipa-us-i
ピパ・ウシ・イ と表わし、「カラスガイの多い所」の意がある。「びば」をカシミールで検索すると、「美唄」「美馬牛」「美葉牛」などがヒットし、いずれもカラスガイが由来の地名である。
北海道のカラスガイ由来の地名は、ビバウシ、ケボウ、ケバウ、ビセイ、ビバイロ、ビマンなどがある。いずれも、pipa が語源である。
「比和という地名は、永禄年(1565年)にさかのぼる。ヒワという地名の起源について…奴可郡国郡志(1819年)では、『比和の頭にあるから比婆山と称えた』とし、山名よりも山麓地名が先行する説をとっている。この種の例は各地に散見し、比婆山の別名熊野山も、山腹の熊野神社から来た名である」(「比和町誌」)。
烏帽子山は冠のエボシではない。烏帽子山と立烏帽子山の名付け人が、同じ人であるなら、立烏帽子山も冠のエボシではないだろう。
帝釈峡の緯度辺りに東から岡山県の貝田、広島県の貝原、貝六、貝の平、貝の谷、貝原、島根県の貝崎が位置しているのは、カラスガイ(カワシンジュガイ)の南下線を示めしているのではないだろうか。
カラスガイは寒冷化とともに南下してきた貝で、帝釈峡辺りの緯度が生息に適していたのだろう。カラスガイはヤマメやゴギのエラに付着して生息範囲を広げてきた。ゴギやヤマメはブナの森に棲んでいる。貝地名や毛無山、ヒワの地名が中国山地沿いにあるのは、偶然ではないように思われる。
内尾谷川入り口のマジ |
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岡山県・吉備のマジ |
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ワナンバラガワ |
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岡山県・ワナンバラガワ |
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