7:45 牛小屋出発 雨後曇り 気温19度
8:55 966ピーク
9:10 オオキビレ
9:25 970ピーク(中山)
10:00 ヨビヤ峠
10:20 添郷
12:20 砥石川山
13:00 夏ヤケのキビレ
13:55 恐羅漢山
15:00 牛小屋
久しぶりに恐羅漢へ上がってみると、十方林道入り口に「緑資源幹線林道の早期完成を!!」と書かれた立て看板が出ていた。「大規模林道戸河内受益者組合」と横川自治会の連名になっている。
雨の中、立山尾根と1019.7ピーク(点名:牛小屋)の間の峠から尾根へ上がった。尾根に沿って土塁がある。大きなヒキガエルが土塁の上でじっとしていた。カメラを向けても動こうとしない。1015ピークを過ぎたあたりは岩の尾根になっている。尾根筋はマツが多い。966ピークを過ぎて下ると大岩がある。ほどなくオオキビレに着いた。横川から牛小屋へ抜ける踏み跡が残っていた。
「オオキビレを越している径は、牛小屋の農家の子供の通学路であったが、今は通る人もない。牛小屋には四軒の農家があった。1700年代は牛木屋の字が使われていた」(「西中国山地」桑原良敏)。
オオキビレを登ると970ピーク(中山)で、四等三角点が頭を出していた。中山からヨビヤ峠へ下る途中に呼岩がある。尾根上に大岩があり、南側にもう一つ、一回り小さい大岩がある。よく反響することから「呼岩」と言われているが、いろいろな角度で試したが、言われるほどに反響しない。
呼岩から100mほど下るとヨビヤ峠。田代の子どもは、この峠を通って横川小学校に通っていた。『戸河内森原家手鑑帳』(1715年)に「呼岩峠」があるので、ヨビイワ→ヨビヤと転訛した。ヨビヤ峠から南へ少しづつ下りながら、ホイッスルを鳴らしてみたが、100mほど上にある呼岩はやはり反響しない。
ヨビヤ峠は掘り下げてある。横川にタタラがあった頃、島根県から砂鉄を運んだ馬道であったことを示すものだろう。
ヨビヤ峠から添郷に降りる谷を下った。支谷のあちこちから水がふきだしている。20分ほどで石垣の残る添郷集落跡に出た。その頃には雨は止んでいた。牛小屋谷を下って来て、最初の石垣があるところが添郷である。この付近の牛小屋谷は小滝が多い所である。
牛小屋谷を下ると、今はスギ林になっている水田跡の石垣が続く。登山道は水路になっている。牛小屋谷は溢れんばかりに白濁の谷になっている。田代橋で休憩した。
二等三角点 |
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田代橋へ降りる急な尾根を登った。濡れた径は滑りやすい。二つ目の大岩から内黒峠への展望があるが、周辺はガスが掛かっている。大岩の上にブナの実が落ちていた。見上げると後ろに大きなブナの木があった。莇ヶ岳でもブナの実が多かったが、今年は豊作年のようだ。
そこからほどなく山頂に出たが、先ほど見えた内黒峠はもうガスが掛かっていた。三角点に二等の文字が刻んである。西側の「魔の池」の木に白い塊がたくさんぶら下がっていた。モリアオガエルの卵塊が実を付けたようになっていた。
1166ピークへ出ると、ガスが飛んでサバノ頭が見えるが、恐羅漢山はガスで隠れ下のゲレンデが見える。羽化したセミが地面でじっとしていた。40分ほどで夏ヤケのキビレに出た。ヤハチのキビレには枯れたブナの巨木がある。その少し先が管理林道へ出る分岐。夏焼峠から1時間ほどで恐羅漢。山頂付近のガスで展望はない。
山頂の岩でしばらく休憩して立山尾根を下った。コアジサイの淡いブルーが、雨後でいっそう見ごろになっている。少し下ると山頂のガスがウソのように展望がある。眼下にオオキビレへの尾根がある。牛小屋の堰堤の池が光っていた。立山尾根の昔の登山道はゲレンデの中に取り残されている。周辺は昔とすっかり変わってしまった。変わらずあるのは「山毛欅乃木小屋」の赤い三角屋根と広島山岳会の小屋だけになってしまった。
カシミールデータ
総沿面距離10.5km
標高差733m
区間沿面距離
牛小屋
↓ 3.3km
添郷
↓ 2.1km
砥石川山
↓ 3.5km
恐羅漢山
↓ 1.6km
牛小屋
地名考
●コタン(村・集落)
「西中国山地」の地名を調べてみると、一ヶ所だけ、安蔵寺山の南のワラビ谷に「カミコダン」の谷がある。その下流に「シモコダニ」の谷がある。
アイヌ語の kotan kotanu は共に「村」であるが,「私の村」と言う ときは kotanu と形が変わる。前者を概念形,後者を所属形という。
a=kotanu は「わたしの村」の意がある。
toan kotan a=kotanu ne
トアン コタン アコタヌ ネ(あの・村が・私の村・である)
などの言い方がある。
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