7:15 鳥越出発 晴れ 気温16度
8:00 689P
9:15 樋佐毛山
9:45 櫛山(丸掛山)
10:05 栃畑
10:35 熊の城山
11:40 天狗シデ
12:20 奥灰ガ谷
13:15 上志路原
上志路原のバス亭を出発。ヒサガ谷の林道を上がった。雨後で水量が多い。まだ雲が残り、ガスが出て見通しが悪い。ヤマメの養殖場がある。「適正狩猟」と書かれた看板がある。「脱包の励行、転倒に注意、矢先の確認、銃の管理の徹底」と書かれている。この辺りは縄文の時代から狩猟に適した所と思われる。最初の橋は「鍋渕橋」、次は「太刀掛橋」「人参畑橋」と続いた。それぞれ意味があるのだろう。
人参畑橋を渡ると右岸は伐採されている。裸になった谷を白く泡立って谷が落ちている。林道の舗装は伐採されたところまでだった。林道沿いはスギの大木が多い。林道が南へ回りこむと689ピーク。下から林道を見上げると、急斜面に林道の底面のコンクリートが半分露出している。
林道の曲がり角からヒサゲ谷水源の左谷へ入った。この辺りは伐採され、スギ林とヒノキ林の境目になっている。
少し谷を上がるとヒノキやスギが雪でアチコチ倒れている。ゴウロ帯を過ぎて大岩のある所から尾根に取り付いた。急な、開けた谷は棘で覆い尽くされている。しばらく難渋した。尾根が緩やかになると踏み跡が現れた。スギ林を抜けて尾根筋に出た。雨がぱらつく。出発から2時間で山頂。林で展望はない。
樋佐毛山 |
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山頂のプレートを見ると、「野地井峠〜熊の城山〜櫛山〜椎谷峠」のルートが示されている。野地井峠は枕の呼び名で横吹峠(田原)のことである。
樋佐毛山の点名は「溝口」で二等三角点、選点は明治26年、所在地は山県郡豊平町大字志路原字番ノ木。
椎谷峠への踏み跡はしっかりしている。櫛山へ向かった。山頂のすぐ先の尾根に林道が上がっている。おそらくヒサゲ谷から上がる林道と思われる。尾根の東側はスギ林と思ったら、いつの間にかヒノキ林になっていた。西側に若いブナがある。
樋佐毛山から30分ほどで櫛山。林で展望はない。平成16年の丸掛山のプレートが掛かっている。櫛山は溝口の呼称、大朝の田原では野地井山と呼んでいる。丸掛山はどこの集落の呼び名だろうか。古名は上櫛山(『芸藩通志』)と言う。広島山稜会の分水嶺のプレートもある。この山に三角点はない。山頂のすぐ先に境界柱があるが、三角点ではない。さらに少し先に古そうな石柱があった。「山」の字が読めるが、境界標だろうか。
尾根を進むと木の階段がある。尾根に大きなブナが折れていた。前方に熊の城山がみえる。20分ほどで栃畑へ下りた。栃畑には周辺の樹林の概念図の看板があり、便利である。栃畑の登りから加計山、火野山、平家山の展望がある。栃畑のキリシマツツジはもうすぐ終わりのようだ。鞍部から少し登ると、周囲3mの大きなブナがあった。その先にもう一本、痛んでいるが大ブナがある。熊の城山の山頂は登山道のすぐ脇にあるので通り過ぎてしまいそうである。
熊の城山 |
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熊の城山の点名は熊城山(クマシロヤマ)で四等三角点、選点は昭和51年、所在地は芸北町大字溝口字野地井。熊の城山は志路原の呼び名のようだ。枕、溝口では通じない。(「西中国山地」)。熊の城山はクマの居る山ではない。熊の城山から樋佐毛山にかけて、起伏のない緩やかな尾根が続いている。アイヌ語で「kuma」は「横山」の意がある。
熊の城山の先に、車道に下りる分岐がある。尾根径は分岐の先辺りで終わり、茂った急な踏み跡が横吹峠へ降りている。尾根の端から櫛山が展望できる。整備された木の階段を下った。サンショウガケに上がる舗装された車道が見える。分岐にある「モクレンの道 車道900m」の道標で、どっちが天狗シデに出るのか迷っていたら、お二人が天狗シデから上がってきたと言う。少し下ると栃畑への分岐があり、そこから100mほどで舗装された車道の終点に出た。下ってきた熊の城山が頭上にあった。
少し下ると、トイレのある展望地から東へ延びる志路原川の左手に寒曳山の大きな山容がある。さらに下って「サクラの森750m」と書かれた道標のところで、車道と山道に分岐する。そこからは櫛山の左手に樋佐毛山が見える。山道を下ってほどなく天狗シデに出た。
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柵で囲まれた斜面に数十本の曲がりくねった幹や枝の天狗シデは奇観である。ブナの奇形「アガリコ」さんをひと回り小さくしたような木々が集団をつくっている。大朝町の説明板によると「テングシデはイヌシデの変種で、幹や枝がくねくねと曲がり、枝先がしだれるなど、その独特な姿に特徴がある。突然変異は一代限りで終わるが、ここでは代々受け継がれ群落を形成しているが、世界的にもめずらしく、遺伝学的な調査であきらかになった」。
車道を下ると「大朝町丸掛山町有林造林事業」の石碑がある。櫛山にあった「丸掛山」は大朝の山林名の呼称のようだ。その石碑には「串山」と「熊城山」の山名がある。
シマヘビが驚いて側溝に落ち逃げ惑っている。灰ガ谷を下り、林道松台線に出た。マツザイは松才、松歳、松台などと表しているようだ。松台線から奥灰ガ谷に出て松歳川を下った。カメさんが車道で右往左往している。
「入山注意」の看板が、志路原部落会と志路原生産森林組合の名で出されている。松歳川に沿う道は「町道志路原
田原線」と言う。国道433号線から燕岩が見える。「沖条口」のバス亭の先に「大字志路原」と書かれた古い石柱が立っていた。次のバス亭は「中沖条口」、右手に松才山を見ながらほどなく出発点に帰着した。
カシミールデータ
総沿面距離14.2km
標高差595m
区間沿面距離
上志路原
↓ 3.8km
樋佐毛山
↓ 1.3km
櫛山(丸掛山)
↓ 1.2km
熊の城山
↓ 2.4km
天狗シデ
↓ 5.5km
上志路原
地名考
●櫛山(クシヤマ)
釧路はアイヌ語で kusuri クスリと呼ばれている。釧路川上流に何ヶ所も kusuri(温泉)がある。
また斜里や根室への kus ru クシ・ル(通る・道)の由来もある。
カムイ・クシ・イ kamuy-kus-i は「神が・通る・所」の意がある。
櫛山は『芸藩通志』溝口村絵図(1825年)に「上櫛山」とあり、「カミクシヤマ」の読みと思われる。
カムイ・クシ・イ→カミクシ の転訛
おそらく古名は「上櫛山」(カミクシヤマ)と呼んでいたのだろう。櫛山はクマの通り道だったと思われる。
●丁川(ヨロ、ヨウロ、ヨオロ)
北海道の名寄(ナヨロ)はアイヌ語で、ネイ・オロ nay-oro と表し、「川の・所」の意がある。
岩手県のヨロベツ沢(ヨロベツザワ)はアイヌ語で、イウォル・ペッ iwor・pet と表し、「狩場の・川」の意がある(「随想アイヌ語地名考」)。
丁川(ヨオロ)は加計から上がり、樋佐毛山西の溝口ではヨウロ川(5万分の1地形図)、ヨロ川(「西中国山地」)と呼ばれているようだ。ヨロ川は溝口の上流からクシの谷が栃畑へ上がっている。
「クシの谷」は カムイ・クシ・ツン・ナイ kamuy-kus-tun-nay と表し、「神が通る谷川」の意がある。この神はクマのことだろう。ヨロ川はイウォル・ペッ iwor-pet と表し、「狩場の川」だったと思われる。
千代田インターの東に「丁保余原」(ヨウロホヨバラ)がある。丁保余原の東に古保利(コホリ)がある。
『延喜式』(927年)安芸国上管に「山県」(ヤマカタ)があり、『倭名類聚集』(平安中期)に山県郡壬生がある。壬生の古保利薬師堂にある薬師如来坐像は平安時代初期(9世紀)の作で、平安時代初期の作風を伝える仏像である。古保利にヒノキの巨木があったが、落雷で折れ、幹の下部が生き残っている。
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