7:50小板出発 晴れ 気温5度
9:00 八畳岩
9:20 深入山
10:15 トンガリ山
11:00 掘割峠
11:30 971ピーク
12:10 登尾山三角点(971.7ピーク)
13:35 林道
14:00 サトリキ峠
14:20 小板
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車道へ降りている林道を上がった。林道はイデガ谷左岸を通っているが、茂っていて使われていない。正面にトンガリ山が見える。林道にはまだ雪が残っている。林道と分かれ、イデガ谷から右側の小谷を上がった。チラホラとブナがあるが、伐採された山である。谷から尾根に上がった。雪はないが、ササはまだ倒れたままだった。1時間ほどで登山道に出た。聖湖が見えるが、苅尾山は雲が懸かっている。登山道を少し登ると、角礫の道となる。正面に深入山がある。ほどなく八畳岩に到着。
八畳岩の少し下から山頂へ続く登山道の角礫は、周氷河地形を表すものだという。
「深入山山頂部より、周氷河地形と考えられる、構造土・ブロックストームが、1965年に下村彦一氏らによって発見され報告された」
「周氷河地形を特徴づける基本的作用は、地中の水の凍結と融解である。岩石は孔隙中の水の凍結によって破砕され、岩塊が地表を覆う岩石原となり、それらの岩片が凍結融解の繰り返しや滑落集合によって、構造上、石畳、アースハンモックなどの形をしている」
「深入山山頂の1100mに平坦面があり、それにより山頂1153.0mまでドーム状になっている。このドーム状の部分に角礫乱層があり表面は黒ボクで覆われて草原になっているが、西の八畳岩へ向かって下る所に露出部があり角礫が散乱している」(「西中国山地」桑原良敏)。
八畳岩から少し登ると「つつじ群生探勝路」の立札がある。「西中国山地国定公園」の看板の先に展望小屋がある。この辺りから草地は黒く焦げて、山焼きの跡が残っている。黒い草地の下にブナ林があり、降りてみた。形の良いブナが集まっている。芽が大きく膨らんでいて、いっせいに葉が出てくるだろう。登山道へ戻った。眺めは霞んで見通しがない。大岩を過ぎると山頂。小板から1時間半ほどだった。
深入山の三角点の点名は「新入山」で三等三角点、選点は明治28年。
すぐ間近の正面に向山と最早山、大箒山は霞んでいる。ミズナシ川の先のサバノ頭、向真入、聖湖の先は霞んではっきりしない。トンガリ山の先の苅尾山は雲がかかっている。風が強く寒い。早々に東側に見えるブナ林へ下った。オシロイ谷水源のブナ林へ降りた。株立ちのブナが多いようだ。一番大きい株立ちのブナは周囲4.6m。ブナがあるところを下り、オシロイ谷水源を上がった。苔むしたオオブナの根元で顔を洗い水を飲んだ。コーヒーで一服とした。
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ササの上にウサギの糞が転がっている。トンガリ山へ進むと草原の境が土塁になって、その上に古い柵の跡が残っている。小板の牧場の柵だったと思われる。トンガリ山への尾根はブッシュで覆われている。深入山山頂を見ると、多くの人が山頂に立っていた。トンガリ山の山頂もブッシュだが、多少の展望がある。苅尾山に懸かっていた雲はもうない。アセビが少し花を開いていた。
尖山(トンガリヤマ)は北海道に多い山名である。ポンヌプリと言い、小山を意味している。
アイヌ語で tuk-kari と表し、「神の小山の回り」の意がある。山の形からトンガリと呼ばれていると思っていたが、古く遡る神聖な山名のようだ。
「深入山の北、1105m独標峯を小板ではトンガリ山と呼んでいる。即物的な名称であるが、小板より眺めると円錐形の形のよい山に見え、深入山より高く見える」(西中国山地)。
ブッシュの尾根を戻った。ホイッスルを鳴らすと、同じような音が返ってくる。物まねの上手な鳥がいる。トンガリ山東のブドウ谷水源は若いブナが多い。ロープを巻かれた3mブナがあった。尾根の東側は雪が大分残っている。堀越峠へ、山焼きされた草地を下った。オシロイ谷水源にブナが線のように降りている。正面の大箒山が大きく見える。オシロイ谷に沿う踏み跡を下ると車道に出た。「クマ出没注意」の看板がある。車道を少し上がると掘割峠。車道は小板へ出る道。オシロイ谷から小板へ抜ける山径があったようだ。
急な尾根を登った。振り返ると林間に深入山がある。30分ほどで971ピーク。タムシバが咲いている。形の良いブナもあった。ピークから鞍部へ下ると途中はアカマツ林。鞍部手前のヒノキ林に入るところに、背の高い二本のブナが並んでいた。ヒノキ林を登り、971ピークから40分ほどで971.1ピークの四等三角点。点名は登尾山で、所在地が戸河内町字佐登梨木となっている。
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登尾から先の東の斜面はブナが多い。斜面でブナを計測し、西側の尾根を下った。この尾根から南を見ると、トンガリ山が深入山と同じくらい大きく見える。ブナの締めくくりは、痛んでいたが4mだった。深入山周辺に劣らず、北側の尾根筋もブナが多いことが分かった。展望地に出ると苅尾山が一際大きく見える。その右に掛津山。
正面に小板の牧草地が見えると、尾根は急な下りとなる。下に見えた林道へ降りた。広島県営林の看板があり、「重之尾事業区」とあった。林道は橋山川の水源が上がっており、谷にはけっこうブナがある。20分ほどでサトリキ峠に出た。
サトリキ峠附近に工事で地層が露出しており、それを見ると、岩が無く、土が堆積したような地層になっている。この辺りは池か沼だったのかもしれない。サトリキ峠から20分ほどで小板に帰着した。
車を止めたところで80過ぎのお婆さんが薪を集めていた。耳が遠く会話にはならなかたが、トンガリ山は昔からそう呼んでいるという。「わたしも昔はよう山に登った」と言っておられた。
サトリキ峠附近の地層 |
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カシミールデータ
総沿面距離9.5km
標高差390m
区間沿面距離
小板
↓ 2.2km
深入山
↓ 1.1km
トンガリ山
↓ 1.0km
掘割峠
↓ 1.2km
登尾山三角点
↓ 4.0km
小板
「戸河内町史」によると「享保拾年巳十月御改山県郡戸河内邑御山帖」(享保10年・1725)に以下の山名がある。
小板ヶ原に 新入山、城山、栃谷山
前記、戸河内村の「山帖」に入会野山と植生がある。
(享保12年・1727年)
新入山 草山
城山 草山・栗・浅木
組ケ平 草山・栗・浅木
栃谷山 草山
(文政2年・1829年)
新入山 蕨山
城山 草山・栗・浅木
組ケ平 草山・栗・栂・浅木
栃谷山 草山
深入山周辺の鑪操業の状況は、
●佐々木家の鑪操業状況
1699〜1705年 蔵座鑪
1708〜1712年 蔵座鑪
1752〜1755年 小板鑪
1777〜1783年 甲繋鑪
1840〜1850年 甲繋鑪
●香川家の鑪操業状況
1750〜1752年 小板ヶ原
炭山所 小板ヶ原新入山・くみヶ原・城山・栃谷山
「加計町史」によれば、餅の木鑪は寛政6年(1794〜1798)、文化2年(1805〜1810)に操業しているが、山林として 小板城山・新入山・くみけ平山がある。
鑪操業の炭山として小板ヶ原に「新入山」の山名がみられるが、これは深入山のことと思われる。1727年には新入山は草山となっているので、それ以前から炭山として伐採されていたようだ。1500年代の終わりには石見の砂鉄を山県郡側へ運び込んでいるので、新入山の炭山としての歴史は古いのかもしれない。
「明治二十一年、参謀本部陸軍測量部発行の輯修二十万分の一『広島』に、深入山の山名があるのが初見である」(「西中国山地」)。
明治になって突然「深入山」の名称が使用されるが、「シンニュウ」と呼ばれた歴史は1700年以前に遡ると思われる。
深入山は鑪操業や採草地として伐採される前は、木がくっつき合うほどの鬱蒼とした樹林だったようだ。いまでも、シンニュウ谷、オシロイ谷などブナが残っているところがあり、昔の名残りなのだろう。
「蔵座より南流して三段峡へ入る川を、ミズナシ川と言う。本流との出合付近が伏流となっている事が多いので、この名がつけられたのだろう。水無が正しいと思われるが、何故か水梨川という字が使われている」
「松原へ流れているムギ谷は、麦谷と書かれている。これは谷の入口の五六(ゴロク)にあった鈩の名称と同じであるが、無木谷が正しいと松原の古老は強調した。鈩で使用する木炭を供給するため皆伐されたので、村人がこう呼んだのだという。またこの老人から三段峡へ落ちているミズナシ川は、水梨と書くのは誤りで水無川と記録しておくよう要望された」(「西中国山地」)。
深入山北の四等三角点、登尾山(971峯)の所在地は戸河内町字佐登梨木となっている。
水梨林道入口のミズナシ川 |
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●オシロイ谷(深入山東の谷)
オシロイ谷落口付近に二十九人碑がある。
「1730年代には、蔵座周辺に鈩場が五ヶ所あった。桃木畠には、大鍛治があり、その山内労務者の下小屋がここに二十五戸あった。1745年(延享二年)1月18日に、四メートル近く積もった大雪のため雪崩が発生して、下小屋五戸、男女二十九名が圧死するという惨事が起きた。それより二十年後の明和二年に、鈩、大鍛治の経営者であった加計の佐々木八右衛門正封が碑を建てた」(「西中国山地」)。
オシロイ谷川口付近 |
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二十九人碑 |
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