6:40木束原出発 曇り後晴れ 気温7度
7:40 嶽
9:30 生山頭
10:15 荷卸峠
10:55 水越峠
12:50 空山
14:20 イヤムネ峠
14:50 弥畝山
17:30 芋原
18:15 水越峠
18:45 大休峠(休ケ峠)
18:55 木束原
嶽 三角点 |
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柴木川から木束原川へ入ると社がある。『国郡志御用ニ付下しらべ書出帳・西八幡原村』(文政2年・1819)に神祠として「木束原社 祭神 姥御前」とあるので、姥御前を祭っているかもしれない。
木束原川左岸の平坦地に水田が広がっている。ヒノキ谷右岸の林道を上がった。入口は30cmほど、雪が残っているが、しばらく進むと林道の雪は消えている。ヒノキ谷の両岸も平坦地が広がっている。正面になだらかな嶽が見えてくる。時おり空が真っ暗になり、今にも雨が落ちそうになるが、しばらくすると明るくなった。突風が吹き抜ける。気温は高いが手先がかじかむほどである。
林道から尾根に上がると、別の林道に出た。しばらく進み、嶽から降りる尾根を登った。ところどころ踏み跡が残っている。県境の稜線に出て、ほどなく山頂に到着。木束原から1時間ほどだった。三角点の横に「陸軍」の石柱が立っている。陸軍の演習場があったころの名残りだろう。
嶽は三等三角点で点の記はない。
高岳の西側に匹見町の無名の1000mを越える、りっぱな山容が見える。県境尾根を西へ下った。こちらはヤブで踏み跡もない。少し下ると周囲2.2mのブナがある。ケーブルの支柱にされたのか、鋼のロープが巻きついていた。少し下ると、ブッシュ帯から抜き出たスマートなブナがあった。これもロープが巻きついていた。1時間ほどでヒノキ谷から上がっている林道に出た。ナマヤマ谷の左手に嶽から見た1000m峯が大きく見える。林道の脇に立派なブナが1本残っていた。
林道は枝やイバラがはびこりとても歩きにくい。尾根径の方が大分楽である。途中から尾根に上がった。尾根に入るとすぐ2.5mの大きなブナがあった。オモ谷が上がる尾根を渡ると生山頭。嶽から2時間ほどだった。林で展望はない。生山頭から少し下るとロープを巻いたブナがあった。40分ほどで荷卸峠に下った。峠の東面は大きなブナが多い。西面はヒノキ林。荷卸峠は木束原と芋原を結ぶ道があったが、今は僅かに踏み跡が残っているだけだった。
荷卸峠から急な尾根を上がり少し進むと、周布川から舗装された道路が縫うように上がっているのが見える。荷卸峠から40分ほどで水越峠に出た。車道のすぐ傍に大ブナが二本並んでいる。周囲3.6mと3m。ブナの根元にミツバチが巣をつくって盛んに出入りしている。峠には日本製紙社有林や王子緑化の看板が立っている。水越峠は2万5千地形図では鍋滝峠となっている。
空山へ上がる尾根を登った。すぐに周囲3mのブナがあった。尾根筋には二又のマツの巨木もあった。3.2mブナの先にブナの巨木の朽ちた根元が残っていた。4mをはるかに超えていそうだ。下には倒れた幹が転がっている。そこから上は大ブナ帯だった。3mを超えるブナがずらりと並んでいる。3.2m、3.3mとつづき、3,9mが一番大きかった。
空山へつづく稜線に出ると牧柵の支柱が尾根に沿って上がっている。1036ピークに出ると前方の空山に四角い反射板が立っている。北側には牧場の草原が広がり、牧舎らしき建物も見える。水越峠から2時間ほどで空山、展望はない。
山頂周辺はササ原だが腰ほどの高さなので自由に歩ける。北面のすぐ下に林道が上がっているが、尾根のササ原を進んだ。前方に弥畝山が見える。少し進むと尾根に林道が上がっている。牧柵の支柱が続いている。牧場を囲む尾根をしばらく下り、天ツツミから上がっている谷の鞍部に近づくと大きなブナがあった。
シジュウカラ |
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計測していると、頭上のブナに留まったシジュウカラの子が「何をしてるの」と覗き込んでくる。周囲3.5m、そこからまだ下に大ブナが見える。3.3m、さらに下に4.4m、谷底に大ブナが見えたので下まで降りた。天ツツミと呼ばれている辺りである。牧場を見下ろすように巨大なブナが屹立していた。周囲4.5mの巨木だった。この斜面から、牧場になっているあたりはブナの巨木地帯だったのではないだろうか。
4.4mブナ 天ツツミ上部 |
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天ツツミの谷を上がって鞍部を通り、イヤムネ峠へ出た。ここからは踏み跡とテープが山頂へつづいている。峠から30分ほどで山頂へ到着した。林で展望はない。林間から空山が見える。
弥畝山は二等三角点で選点は明治26年と古い。所在地は那賀郡弥栄村大字程原。
山頂から尾根を西へ進み、佛谷川右岸の尾根を南へ下った。踏み跡はなくブッシュの多い尾根径だが、境界標識をつくるためか、20m前後の間隔を開けて、木に赤いペンキが塗られている。この赤い標識は818ピークまでつづいていた。途中、王子製紙のプレートがあった。818ピークから林道があると思われる佛谷川へ降りた。山頂から2時間余りで林道へ出た。おそらくこの林道は2万5千地形図にある破線の先端あたりまで上がっていると思われる。
林道を下った。水田跡と思われる石積がある。佛谷川にかかる鉄板の橋を渡り、芋原集落に入ると「山小屋今田屋」の看板がある所に出た。集落には2件の家があった。ビニールハウスが平地に並んでいる。聞いてみると芋原に住んでいる人は居ないようだ。農作業のために町から来ているという。芋原は赤谷川の一番奥の小さな集落だった。
「芋原、上赤谷などの赤谷川沿いの農家は集団移住し、現在芋原には、農家二軒しかないが、冬は引揚げるという話である。ホトケ谷の奥や空山南面は、かつて牧場として利用されていたが、現在アカマツ、クロマツが進入して松林になりつつある」(「西中国山地」桑原良敏)。
307号線に出ると「畜魂碑」書かれた小さな碑があった。「ちくこんひ」と読むようだ。
芋原から水越峠に向かって車道を進むと、川沿いに石垣が残り、ヒノキ林となっているが水田が上へつづいていたようだ。40分ほどで水越峠に出た。周布川を上がる曲がりくねった車道を下った。しばらく下ると金城町指定天然記念物「鍋滝のカツラ」がある。朽ちたカツラの前に小さな祠があった。
峠から15分ほどで波佐・西八幡原の分岐に出た。分岐から15分ほどで大休峠、島根県のウズオ谷側は急だが、大休峠を越えて木束原に入るとなだらかな平原になる。そこから10分ほどで出発点に帰着した。
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カシミールデータ
総沿面距離20.5km
標高差425m
区間沿面距離
木束原
↓ 2.3km
嶽
↓ 5.6km
空山
↓ 2.0km
弥畝山
↓ 3.6km
芋原
↓ 3.5km
水越峠
↓ 3.5km
木束原
『国郡志御用ニ付下しらべ書出帳・西八幡原村』(文政2年・1819)に村名の由来がある。
「当村西八幡原村と名を得たること
往昔此村に八幡宮神鏡枯木ニ留リ給ひしゆへ其所を八まん原と申し就夫西八幡原村東八幡原村と此両村ニ相成候由伝候
然ル処元禄年中鉄砲帳にハ西野村と御座候
元禄年中ハ神鏡枯木に留り給ひしより遥か後ニ御座候得は右申伝怪敷信用難仕御座候
八幡宮神鏡之事ハ荒神原村神祠之所ニ書記申候而旧記ハ無御座候」
西八幡原村は元禄年中(1688〜1704)の鉄砲帳に「西野村」とある。
「隣境村名」に雲耕村、波佐村、上道川村、戸河内村、東八幡原村がある。「小名」に本郷、樽床、木束原、長者原がある。
「野山」は苅尾山、「山」はニノ○、松がね、かやのたげ、棹ヶ峠の四ヶ所。
「神祠」の一つに木束原社、祭神、姥御前がある。
家数169軒で792人が住み、牛75疋、馬151疋がいた。
ウバ御前神社の所在 |
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ウバ御前神社は周辺の村の『書出帳』(文政2年・1819)によると五ヶ所ある。大暮北の島根県側の早水にバゴゼ谷の地名があるので、このあたりにもウバゴゼンがあったと思われる。『書出帳』では祭神不明の社も多いので、その中にウバゴゼンがあったかもしれない。雲耕の老婆御前は近所の人が知らず、ゴゼンタキの名が残っているだけであった。
雲耕村 老婆御前 社無し
政所村 姥御前
西八幡村 姥御前
大暮村 姥御前(宇婆御前) 社有り
才乙村 乳母御前 社有り
早水(島根県) バゴゼ谷
大暮、才乙のウバゴゼン神社は山の鞍部近くにあるのが特徴で、ほかのウバゴゼンも同様と思われる。
ウバゴゼン神社は大暮の由緒で言われているように、狩猟や山仕事の安全を祈って祭ったもので、そのため山の入口に置かれている。
狩猟民が住みついた頃、はじめは山に入る前に峠で狩の安全を祈るだけだったが、だんだんと形式を整え、木幣をたてたり、簡易な祠を立てたのではないか。おそらく山の要所要所にウバゴゼンがあったと思われる。
カシミールでは「姥」を含む地名は東北に多い。
「おばさん」をアイヌ語でウナルペ(unarpe)という。
ケナシ・ウナルペ(kenash-unarupe)と表わすと「林の姥」という魔神となる。ケナシ(毛無)山は北海道南部から芸北大暮まであるが、大体ブナ林帯に一致している。東北に「あがりこ」と呼ぶ奇形ブナがあるが、苅尾山にもある。この「あがりこ」さんが、「ケナシ・ウナルペ」ではないか。一般にブナは女性として表わされることが多いのではないか。
ウナ→ウバ→姥
ウナ→ブナ→橅(木+無)
ケナシ山にあるブナの「あがりこ」さんは「ウバ」ではないか。「ウバ」である「あがりこ」さんは同時に「ブナ」でもある。
ブナはいつから「木+無」と表わすようになったのだろうか。ブナ(橅)は毛無山の「ウナ」のことではないか。「姥」も「橅(木+無)」もアイヌ語の「ウナルペ」が語源ではないだろうか。
鍋滝のホコラ |
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「嶽という珍しい呼称の山名は昔から使われていたらしい。『雄鹿原史』に文政ニ年にまとめられた『奥山忽辻』に…『当庄内土地高く良に浅山、天狗石山、北に冠山、乾に雲月山、西に柏原山、大佐山、嶽山等連綿として芸石の分界をなし……』と記してあるうちの嶽山とあるのが初見と思われるが、この記述の嶽山がはたしてこの嶽という山であるかは判然としない。この山の南に高岳があるが、高岳山頂の三角点の点称が『岳』となっているのが気になる」(「西中国山地」・浅山は阿佐山)。
八幡原は明治22年の町村制施行で東八幡原村と西八幡原村が合併して八幡村となった。西八幡原村は大字名が西八幡原となり、山林部の字名に「嶽」と「高嶽」を設定した。高岳の点名「岳」の三角点の所在地は芸北町西八幡原字高岳、嶽の点名「桧谷」の三角点の所在地は島根県益田市で、「点の記」が設定されていないので選点時期は分からない。
点名「岳」は明治28年の選点なので、おそらく合併前は嶽、高岳の東面を字名「嶽」と呼んでいたのではないか。
苅尾山から嶽を見ると、嶽は八幡高原スキー場のある964峯から続く尾根の一部のようにしか見えない。『奥山忽辻』にある嶽は文脈からすると高岳のことようにも思える。
嶽(ダケ)はアイヌ語で ta-ke と表わし、「切り立った・所」の意がある。 ta-ke はどちらかと言えば高岳を指しているのかもしれない。
弥畝山はカシミール検索ではこの地だけある。
「弥畝山は、イヤウネ山ともヤウネ山とも読める。…東麓の周布川の若生ではヤウネ、北麓の横谷・程原でもヤウネと発音していたが、南麓の芋原ではイヤムネと呼んでいた。イヤウネが転訛したものであることは言うまでもないが、ヤウネ山という呼称の方が広範囲に用いられているようだ」(「西中国山地」)。
「弥」は「いや」「いよ」「や」の読みがあり、「いちばん、最も」の意があり、「や」と読むことで、よりはなはだしいさまを表す(『大辞林』)。
「畝」は「うね」と読み、高い所と低い所が平行して連なった物や形。波や地形・織物などにいう(『大辞泉』)。
弥畝山を北面から見れば、「台形の大障壁」が波を打ったように見えるが、北面より標高が200m余り高い南面から見るとそれほどでもない。辞書の意の通り、住んでいる人が見た感覚が「ヤ」と「イ」の違いを生じさせているのかもしれない。
「吉田東伍著『大日本地名辞書』(明治32年)によると『杵束郷(那賀郡)の東南なる大獄なり、美濃、山県及び本郡(那賀郡)に跨り、山勢頗広大なり、土人の諺に此の山は石州第一の鎭めにして、一国の中央にあたると』とあり、石見では有名な山であったようだ」(「西中国山地」)。
鎮め(しずめ しづめ)は 治めて落ち着かせること。鎮護。「国の鎮めに祭る神」(『 大辞泉』)とある。
土人とは先開の狩猟民のことと思われるが、「一国の中央」とはどの範囲を指しているのだろうか。弥畝山の南に並ぶ掛津山、苅尾山、高岳、比尻山も含めての「中央」なのだろうか。
弥栄村の弥栄中学校の校歌は、弥畝山を歌い、「石見の中央 名も弥栄…」とある。「中央」とは弥栄村辺りのことかもしれない。
それにしても狩猟民が「鎮めにして、一国の中央」と呼んだほど、弥畝山は重要な山だったと思われる。
「ヤウネ」「イヤウネ」をアイヌ語で当てはめてみるが、説明がつかない。山名はそれほど古くない呼び名か、一つのまとまりのある単語なのかもしれない。
イナウ(木幣
モクヘイ)はアイヌ独自の信仰から生まれたもので、その精神文化を象徴するもののひとつで、用途は極めて広く、祈りを行うときに無くてはならない大切な祭具という(「アイヌ文化振興・研究推進機構」HP)。
イナウは本州以南のいわゆる「削り花」と非常によく似ている。北海道では一般にミズキやヤナギ、キハダなどを用い、病気払いや魔除けにはタラノキ、センなどの刺のある木、エンジュやニワトコなどの臭気のある木も使われた。
イナウの機能としては、神への捧げ物となる、神へ伝言を伝える、魔払い、清めを行う、それ自体が神となる、などいくつかのものに分かれる(「アイヌ民族博物館」HP)。
イナウを作る木を「イナウネニ」という。
アイヌ語では inaw-ne-ni (イナウ・にする・樹木)。
イナウネニ→イナウネ→イヤウネ と転訛したとも考えられる。弥畝山はアイヌ語で「イナウを作る樹木のある山」の意となる。
「島根県道川へ抜ける峠を八幡では虫送峠という。明治の初年頃まで、八月の盆の終わる日に、虫送りの行事が行なわれていた。わらで馬の形を作り、幣をかついで斉藤さねもりの歌を唄いながら、この峠より臼木谷の川へ流したという」(「西中国山地」)。
コンカニイナウ(黄金のイナウ)は熊の神様に捧げるため位の高いキハダを使っています(「アイヌ民族博物館」HP)。
「八幡村史」に「三島神社及び早開田」の伝説がある。
「往昔島根県那賀郡鍋石に世並屋という家があって兄弟三人が住んでいた。ある年の春、長兄は狩猟のため山に入り、遂にこの八幡に来て弁当を用い、藁苞を置いて帰った。秋再び来て見ると、春置いて帰った藁苞の籾が発芽してすくすくと生育していた。そこでこの地は農業を行なうに適していることを知って、居を移しこの地に住むこととなり、家号を岡田と名付けて始めて田(開墾)を開いた。現在も『早開』(さびらき)の田名が三島郷に残っている。
長兄は家伝重宝の金の御幣をもって此の地に移ったために、弟達は兄の不法を怒り金幣をとり返そうとして攻めて来た。長兄は金幣を山中にかくして難をのがれたと伝説されている。
その後次第に住民も増したので、この地に神社を建立して金の御幣を祀りて氏神として奉祀した。これが即ち当『三島神社』である」
コンカニイナウは木肌が黄色く、神の国では金になるという想像がアイヌにはある。
狩猟の民だった長兄にとって「金の御幣」は大事な宝ものだったと思われる。狩猟民が八幡原を開墾したと言う伝説は周辺一帯の村々にも言える特徴的なことである。
西八幡原浮島の大歳神社の宝物として「金幣一本、串木三尺二寸、冠より垂下ニ尺四寸」とある(「八幡村史」)。
「金の御幣」はおそらくアイヌの「イナウ」と似たものではないだろうか。狩猟民の時代から「イナウ」に似たものを家伝重宝にしていたことは、注目すべきことと思われる。
先開の土人が鎮めの山と呼んだ弥畝山は、イナウをつくるため、「イナウネニ」を取りに行った聖なる山、鎮めの山なのかもしれない。
弥畝山南の芋原(イモバラ)はアイヌ語で i-mo-para と表わし「(聖なる)それの・小さな(静かな)・広場」の意があり、「(聖なる)赤谷川の小さな広場」の意となる。鎮めの山、弥畝山から下りる赤谷川は聖なる川なのだろう。
弥畝山の呼び名は イヤウネ→ヤウネ と変化したと思われる。「い」音の脱落はよくあるが、出雲弁にも「い」音の脱落がある。
西八幡原村の古名「西野村」はアイヌ語で、
ニシノ ni-us-nup (樹木が・群生する・原場)の意がある。
「八幡盆地の二ケ所で、今村外治氏によって石鏃が発見された。潮見浩氏によると、芸北町荒神原で発見されたものと同類のものとされ、弥生時代前期のものであるという。この石鏃の原料が冠山産のものを使用しているか九州産のものを使っているか興味が持たれる」(「西中国山地」)。
樽床遺跡群は旧石器時代から縄文時代の遺跡で、2万年前には狩猟民が住み始めたと思われる。古八幡湖は1.3万年前、第2期八幡湖は8000年前に出現している。9000年前には東北地方までブナ林が広がっていたから、第2期八幡湖が出現した時期には、八幡原周辺は鬱蒼としたブナ林に覆われていたことだろう。
縄文の民が ya-wa-ta-para(陸の岸の広場)と初めてこの地を呼んだのは8000年前の第2期八幡湖が出現した後のことかもしれない。近くの平坦地を chir-sa-para(長者原 小鳥の浜辺の広場)と呼び、甲繋(コウツナギ)は kaw-tun-nay-kim(石の重なり合った谷川の里山)と呼んでいた。
八幡湖の水が引くに連れ、ブナ林は千町原 sen-chir-para(日陰の鳥の広場)へ広がっていった。八幡原の盆地に鬱蒼としたブナ林が茂った頃、先開の民は ni-su-nuo(ニシノ) と呼んでいたと思われる。
木束原入口の社 |
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八幡原の伝説に「船越しの由来」がある。
「大昔のこと大変な天災地変があり、日本海の海水が山を越してこの地に流れ込んで来た。このとき海水が越した山を水越山といい、この山は匹見町芋原にあって、八幡より朝夕遠望することができる。海水と一緒に一艘の小船がこの附近を通ったので以後は船越と呼んでいる。この海水が那賀郡金城町波佐を没することとなった。波佐のトツサゲに一艘船・二艘船・三艘船という家号の家が有り、その時の天災地変の名残りと言われている」(「八幡村史」)。
日本海が山を越してきたとは思われないが、古八幡湖が日本海へ流入した時代があったようだ。
ハゼ科の淡水魚、「カワヨシノボリ斑紋型が太田川水系内で確認されたのは八幡盆地だけであり、八幡盆地近隣の河川で分布しているのは別水系となる高津川水系匹見川のみである」(「八幡高原のカワヨシノボリ」吉郷英範 2003年)。
カワヨシノボリ斑紋型が八幡盆地と匹見川だけに分布していることから、かつて八幡盆地が匹見川と連絡があった可能性が考えられる。
これはゴギについても言え、柴木川水系のゴギは人為的移入種と言われてきたが、自然分布の可能性がある。
「現在盆地の周辺にある休ケ峠(木束峠)は798m、虫送峠は770mで、古八幡湖の水面より低くなっている。これは周布川、匹見川の源頭部の急速な侵蝕によるものと説明されている。確かに休ケ峠の分水嶺のすぐ横を木束川が流れている様子は、奇異な感じを受ける。河川争奪といえば、はるか過去の出来事と思っていたが、『八幡盆地の水が匹見川の上流に編入するのはそう遠くのことでない』」(「西中国山地」)。
大休峠(休ケ峠)と虫送峠の標高差は28mだが、古八幡湖の匹見川への出口、虫送峠に流木や土砂がたまり、休ケ峠を越えて周布川へ流出した時代があったのかもしれない。それが「波佐の天変地変」の原因であるとも考えられる。
船越はアイヌ語で pu-na-kus-i(獲物の・多い・通り行く・所)と表し、獲物が多く通っていく所の意がある。確かに峠には「熊押峠」など罠を仕掛けていたと思われる地名が多い。
晩氷期に現れた第一八幡湖の水が、匹見川や周布川にまで流れ落ちるのを、縄文の民は見ていたのかもしれない。大雨が降れば、八幡湖の水は滝のような流れとなって日本海へ下り、周辺に洪水を起したことだろう。水越山は島のようになり、湖水を渡る丸木舟が浮かんでいたかもしれない。
たわいない作り話というより、八幡湖が出現した時代の歴史の一コマを、縄文人が伝説として伝えたかったのかもしれない。 |