6:50奥原出発 曇り 気温−2度
7:30 土橋
8:30 雨山
8:50 千人立峠
9:10 千人立(877ピーク)
9:20 雲月峠
9:30 遠見所山
9:45 高山
9:50 大休ミ
10:05 雲月山
11:20 小坂峠
12:20 コグレ峠
12:55 ヒキジ峠
13:40 ハザゴエ
13:55 ハザ越
15:10 柏原山
16:20 サルクイ峠
17:25 上奥原
バス亭 |
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土橋川と上奥原川の分岐付近に架かる今田屋橋を出発。カワムカイ谷を過ぎると、バス亭「河向ガ谷」がある。田んぼには2、3日前に降った雪がかぶり、氷が張っている。「農事組合法人うづつき」の看板がある。ウシロ谷分岐に「雲月キャンプ村」の道標がある。「仲の谷」バス亭を過ぎると「土橋」のバス亭。雲月山登山口の道標がある。
土橋バス亭付近に頌徳碑がある。由来によると、村民救済に尽くした医者「道益」(1726〜1799)「松益」(1756〜1826)親子の高徳を讃えた碑とある。『書出帳・土橋村』(1819年)に医者一人とあるのは松益のことと思われる。近くの薬師堂と楡の木は往古、親子を偲ぶ縁のようだ。
そこからハタガ谷に沿う道を進んだ。正面に見える雪山は遠見所山のようだ。ハタガ谷右岸の尾根を登った。しばらくブッシュ帯があるが、やがてヒノキ林に変わる。土橋から1時間ほどで土塁のある尾根に出た。雨山は広島県側も島根県側もそう呼ばれている。雨山から千人立峠へ下る途中に、島根県の西中国山地国定公園の看板がある。西中国山地は「東は阿佐山から南は冠高原に至る、島根、広島、山口の三県にまたがる脊梁山地が含まれる」とある。新雪が20cmほど積もっている。
雨山から20分ほどで千人立峠。島根県の道標がある。周辺は傾斜が緩く湿地のようなところだ。北側はカラマツ林でそこから20分ほどで877ピーク。877ピークは千人立と呼ばれている。
「雲月峠の東の877m独標の丘を千人立(センニンタチ)と呼ぶ。島根県側の呼称で、宇津々木多和決戦(1340年)の折、南より攻めてくる吉川の軍勢を防戦するため石州の軍勢が、県境ぞいにこの丘に展開したら千人必要であったという」(「西中国山地」桑原良敏)。
千人立からの展望は良いが、低気圧の接近で見通しが悪い。高杉山の左の天狗石山は霞んでいる。柏原山の後の掛津山と大佐山も霞んでいる。真っ白な遠見所山を見ながら雲月峠へ下った。舗装された車道は除雪されているが、雪を被っている。峠には浜田市の道路標識があり、南側にトイレと水場がある。雲月峠からは草地となる。10分ほどで遠見所山。千人立南面の樹木で作られた文字は○に「卯」の字のようだ。以前は卯月(ウズキ)と呼んでいたのだろうか。眼下の山間の平地に土橋の水田が白く浮き出ている。
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高山へ進んだ。草原に木の杭が点々と残っている。北側のヒノキ林は風が強いのか、枝が飛ばされて白骨林と化している。
高山から見ると、中の谷を取り囲むように稜線が続き、その稜線から中の谷に向かって、いく筋もの谷と尾根が枝状に降りている。
雲月峠から40分ほどで雲月山。霞んで見通しはあまりよくない。柏原山が大分大きくなってきた。雲月山には「浜田山の会」の趣きのある札が掛かっていた。雲月山は点名は雲月山で二等三角点、選点は明治26年。
雲月山から西向きに回り込んで859ピーク出て、小坂峠に下りる尾根に入ると、尾根沿いに径が続いているが、この径は途中で落谷へ向かっているようだ。「鉄穴流し跡」は雪でよく分からない。余り下り過ぎたので途中から尾根に戻った。ヒノキ林とブッシュの間を下ると、右手にオトシ谷川の集落が見える。前方に柏原の大きな山容がある。雲月山から1時間余りで小坂峠に下りた。峠の西面に、北から林道が下り南のヒノキ林に上がっている。
小坂峠から県境沿いに土塁が延びている。尾根をしばらく上がると林道と接続した。林道を進むと下り始めたので尾根に戻った。尾根に、巻きつけた鋼のロープが転がっていた。792ピークを通り小坂峠から1時間でコグレ峠。887ピークを通って30分ほどでヒキジ峠。
ヒキジ峠にムナクトオク(水口奥)が上がっている。「県境のヒキジ峠から939メートル峯付近の、島根側平坦地は、草刈場として広島県側の村人が利用していた」(「西中国山地」)。
大ブナが残ってないか、辺りを見回しながら尾根を進んできたが、丸裸にされたのか、若いブナしか見当たらない。939ピークを通り、ヒキジ峠から1時間でハザ越。いよいよ最後の登りである。
ハザ越から20分ほど登るとブナの多い谷に出た。すぐ下に大きなブナがあった。今日初めての計測は周囲4.1m。根元から枝状に伸びた立派なブナだった。この辺りから登りにかけて大ブナが残っているようだ。
カシワの葉 柏原山 |
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960ピークに上がるともう山頂へ続く尾根である。左手に雲月山が見えるが、白い遠見所山が目立つ。土塁に沿って少し下り山頂に近づくとカシワの葉が残っている。山頂周辺はカシワが多いようだ。掛津山と似ている。雲月山から5時間で柏原山山頂。大佐山が目の前にあり、雲月山から霞んでいた掛津山と苅尾山がはっきりと見える。高杉山は霞んでいる。
柏原山 |
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柏原山は点名は傍示で三等三角点。明治28年の選点。山頂の道標は「大潰山」となっている。
「国土地理院の二万五千分の一の図には大潰山と山名が記されているが、これも昭和四十九年版から記された山名である」(「西中国山地」)。
『書出帳・苅屋形村』(1819年)や『芸藩通志』(1825年)に柏原山とあり、昔からそう呼ばれてきたようだ。
雨模様の天気なので早々に下った。東面の植林されたカラマツ林を通り、少し下るとヒノキ林に変わる。40分ほど下った所でオオシゲ谷に4mは越えそうな大きなブナが見えた。谷へ下った計ると3.4m。見る角度によって大きく見える。最後の下りで3m超えのブナに会えて良かった。柏原山から1時間ほどで林道へ出た。この辺りは四叉路になっている。林道上奥原線を上がった。10分ほどでサルクイ峠。
「サルクイ峠は苅屋形側の呼称である。ムナクトオク周辺の山々をサルクイ山と呼んでいるのでサルクイへ向かって越す峠の意である」(「西中国山地」)。
下るに連れて林道の雪がやわらかく膝まで埋まる。カンジキを持ってくれば良かった。30分ほどで最奥の民家がある除雪地点に到着した。
少し下って、ムナクトオクが降りている上奥原橋に出た。ムナクトオクの入口は水田になっている。ビニールハウスで仕事をしていた60過ぎのおじさんにムナクトオクの由来を尋ねたが、知らないという。「水口の姓でムナクトと読む人が野々原に居る。サルクイ山はムナクトオクの反対側の向山の東側辺りの山塊のことで、昔はサルクライ山と言った。サルクイ山から降りる水路がある。カケスはカゲスと呼んでいる」などを伺った。雲耕でも「カゲース」と呼んでいるので、県境の山地沿いはおそらく「カゲス」と呼んでいると思われる。
出発点に帰着すると雨が降り始めた。
サルクイ山は『書出帳・奥原村』(1819年)には「さるくらい山」となっている。サルクライ→サルクイと変化したと思われる。
八幡原にも「ムナクト」がある。ムナクトは八幡原周辺の方言で「水口」のこと表わす(「八幡村史」)。
水口(みずぐち)は水を落とし込む口。また、水を出す口。水口(みなくち)は川から田へ引く水の入り口。みずぐち(『大辞林』)。
「田の水を落とすためには、ムナクトを切り、横手(田圃の周囲をめぐる鍬の幅程度の水路)がある田圃では、横手の泥を浚って水はけをよくする。ムナクトとは、田圃の畦に作られた排水口である。ムナクトは、田植え前に切り開き、そこにまた田土を入れて、田の水が流れ出ないようにする(「てつがく村HP」呉市)。
広島県には水口のことを「ムナクト」と呼んでいる地域が幾つかあるようだ。
「サルクライ」と言う、ありそうにない地名が長野県飯田市にある。「猿庫」と表して「サルクライ」と呼ぶ。全国名水百選にも選ばれていて「猿庫の泉」と言う。「猿倉」(サルクラ)の地名は東北だけである。「サルクイ」「サルクラ」の語源はおそらく「サルクライ」ではないかと思う。
「(岩手県胆沢町の)『おろしえ』の『おろべし神社』の例祭は、毎年4月29日だそうですが、その日に参拝に訪れる氏子の人たちは、神社所在の比高170mの断崖の上にある聖なる神の山「猿岩山」に自生しているサルヤマユキツバキの枝とササを手折って持ち帰り、自家の田んぼの水口に立てて、豊作祈願と虫除けのお祓い(おはらい)をする習わしが伝わっていたようです」(「随想アイヌ語地名考」HP)
この水口のお祓いは「古代アィヌ語族の人たちの信仰の習わし『ハシ・イナゥ(枝・幣)』」に起源があるという。
「サルクライ」はアイヌ語で「葦原の岩倉」の意がある。サルクライとムナクトは関係する呼び名ではないかと思う。古代上奥原ではサルクライ山で取ってきた枝を水口に立ててお祓いをしていたのではないだろうか。お祓いの場所がムナクトオクの入口辺りと思われる。ムナクトの奥へ進むとヒキジ峠に出る。八幡原のムナクトにも「サルクライ」があるのではないか。サルキ峠かサルダキ谷が「サルクライ」に関係あるかもしれない。
上奥原集落 |
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カシミールデータ
総沿面距離17.9km
標高差351m
区間沿面距離
上奥原
↓ 6.5km
雲月山
↓ 3.4km
コグレ峠
↓ 3.4km
柏原山
↓ 1.9km
サルクイ峠
↓ 2.7km
上奥原
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『国郡志御用ニ付下しらべ書出帳・土橋村』(1819年文政2年)によると、土橋村(ツチハシ)は藩政時代、37戸191人と医者1人が住んでいた。村の由来は、
「当村名 発申伝等も無御座相分リ不申候
村内土地古今相違之様子無御座候」
と村名の由来を示すものは残っていないようだ。雲月山の初見は『陰徳太平記』(1712年・正徳2年)にある。
「暦応三年(1340年)四月石州の凶徒退治のため代官景成八月初旬、奥原において功あり。同月宇津々木多和合戦に功あり之に依り河上の城主河上孫二郎入道の子五郎左衛門降参す」
『書出帳・土橋村』は、この項を引用し
「右津々木多和(ウツツキタワ)とこれある所は、当村雲月峠と申す所に相あたり、又此峠麓往年合戦の所と申し伝え候」
と注釈を付している。
「雲月山は『陰徳太平記』にあるごとく、当時はウツツキ山と呼んでいたと思われるが、『芸藩通志』にはウズキ山≠ニルビが振ってある。北麓の島根県金待谷ではウヅツキ≠ニ教えられた(「西中国山地」桑原良敏)。
「ウツツキ山」の変遷を並べてみる。
1340年 ウツツキ(と思われる)
1712年 宇津々木(ウツツキ)
1819年 雲月(ウズキ)
右津々木(ウツツキ 陰徳太平記の引用)
1825年 雲月(ウズキ)
ウツツキは1300年代に遡る古い呼び名である。
@ウツツキ→ウヅツキ(雲月)→ウズキ
Aウツツキ→ウヅキ(雲月)→ウズキ
@は雲(ウズ)でAは雲(ウ)の読み。Aが自然な感じであるが、金持谷はウヅツキと呼んでいる。
平安時代には促音をン、ツなどと表記するようになっていたが、「出雲弁の泉」HPに促音の脱落についての記述がある。
出雲弁の促音の脱落
「っ」 |
「 」 |
あった(合った・有った) |
あた |
かった(買った) |
かた |
「ウツツキ」は「ウッツキ」の可能性がある。『書出帳・土橋村』の筆者は『陰徳太平記』からの引用で「宇」を「右」に置き換えているが、書き写し間違いなのだろうか。「ウッツキ」と呼んでいたのかもしれない。
雲月は初見で「宇津々木」と表わしいる。
「宇津々木」はカシミール検索にはない。「うつつき」と読む地名は全国にないようだ。枕草子に「うつつきの森」がある。
「宇津々」は北海道の紋別市と大分県にある。
「うつつ」の検索では北海道、大分県のほかに、宇筒舞(高知県)、現川町(長崎県)、内津町(愛知県)などがある。
「宇津」の検索では紋別などのほかに、宇津木(和歌山・長野・熊本)、宇津野(福島・新潟・秋田・山形・岩手・栃木・高知)など「宇津」を含む地名が全国に多くある。「宇津野」は東北に多い。
カシミールの「うつつ」の検索結果は「宇津々」が大半で、「宇津々」は大分県の1件をのぞいてすべて北海道である。
北海道紋別市の「宇津々」に「ウツツ川」がある。語源はおそらく水源にある欝岳(ウッツダケ)と思われる。「ウツツ川」と表わしているが「ウツ・ナイ」(肋骨・川)の地形と思われる。天塩・遠別町にウッツ川がある。
「どこの宇津野へ行っても、共通した地形的特長がある。背骨に肋骨が交わるように、本流へ支流が直角に流れ込んでいる所だ。つまりアイヌ語でウッツ・ヌなのである」(「アイヌの残した渓」HP)。
「宇津野」はカシミール検索では東北に12ヶ所あり、「ウツ・ナイ」の地形を代表しており、「宇津野」のルーツは東北のようだ。
上記「宇津野」は新潟県だが、「ウッツ・ヌ」は「ウツ・ナイ」のことである。「ウツ・ナイ」は「ウッツ・ナイ」「ウッツ・ヌィ」などの変化があり、言わば方言と思われる。
「宇津野」は
ウッツ・ヌ(ut-nay)→ウツヌ→宇津野
と変化したと思われる。
「ウツツキ」は以下のように考えられる。
ut-tu-ke(枝状の・尾根の・所)
↓
ウッツ・キ
↓
宇津々木(ウッツキ)
右津々木(ウッツキ)
↓ 促音の脱落
ウツキ(雲月)
↓
ウズキ(雲月)(現在はウヅツキと呼んでいる)
雲月山周辺は特徴ある地形をしている。雨山、雲月峠、雲月山、コグレ峠へ続く円形の稜線が土橋集落を取り囲むように配置されている。円形の稜線の外側から8つの尾根が接続している。土橋集落からハタガ谷と中の谷が千人立峠と雲月山へ延びていて、その谷へ向かって円形の稜線から尾根が落ちている。円形の稜線の内も外も支尾根が無数に張り巡らされている。
「『旭町史』の雲月山の項に『雲月山というのは数峯の山塊の総称である』と書かれている。この山群を遠望するとき、個々のピークの同定は困難で、一括して雲月山塊としたくなるのは事実である」(「西中国山地」)。
アイヌの流れをひく土橋村の先住の民はこの雲月山塊を「ut-tu-ke(ウッツキ)」と呼んでいたのかもしれない。
八ッ木峠は南へ突き出ているが、アイヌ語では
ya-tuk-i(縁・突き出る・所)の意があり、八ッ木峠は古くから「ヤツギ」と呼ばれていた地名かもしれない。
雲月山周辺の村 青は900m超 |
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芸北の雲耕も移原も古名はウツノウ原のようだが、アイヌ語のut-nay-para(ウツ・ナイ・ハラ)は枝川が集まっている広場の意で、実際の地形と似ている。語尾が原の地名は古い呼び名を残している可能性がある。奥原から下流の、語尾が「原」地名をアイヌ語で当てはめてみた。
奥原オクバラ(ok-para) 奥の(背後の)・広場
野々原ノノハラ(nonno-para) とても良い
南門原ナモンバラ(na-mon-para)水辺・腕
大利原オオトシバラ(o-to-si-para)川口・沼・大きい
奥中原オクナカハラ(ok-na-ka-para)奥の・水辺・上
大仙原ダイセンバラ(tay-sen-para)林・日陰
滝山川を遡上すると一番奥の方が「奥原」で、アイヌ語の「ok」は「背後」、「奥」の意があり、日本語と似ている。逆かも知れない。「奥」はアイヌ語から日本語が派生したかも。
先日、才乙から大利原へ入ったが、ここは草安川、奥原川、苅屋形川が交わる広い川原になっており、原生林が残っていた時代は湿地帯のような地形をしていたと思われる。「o-to-si-para」は「川口の沼の大きい広場」を意味するが、ピッタリの地形と思える。カシミールでは「大利」の地名は「オオリ」の読みの方が多い。「大利原」は広島県のこの地だけである。
青は「古八幡湖」の水面標高800m以下 |
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八幡原(ヤワタバラ)は大佐山西の大原山から見ると地形のようすがよく分かる。
八幡原はアイヌ語では「ya-wa-ta-para」(陸・岸・所・広場)で「陸の岸の広場」の意がある。
「八幡盆地は標高750m〜800mで、西中国山地の中でも最も標高の高い盆地である。周囲は1000mを越す山々をめぐらし、かなり広い面積を占めている。…多雨域なので、盆地内の平坦地には湿地が多く、特異な景観をなしている。…湖成段丘が780m〜810m標高にあることより、古八幡湖の水面は、800mから810m標高であった…盆地内の泥炭層の花粉分析から…古八幡湖は二度に渡って出現した…氷期または晩氷期に出現していた第一古八幡湖…第二古八幡湖の水が柴木川へ流出して、現在の状態になった」(「西中国山地」)。
「旧期八幡湖成層の分布は、本坪谷・上西・菅原・大林・長者原周辺の丘陵部で、さらに木束原・樽床堰堤の東西両側の県道沿いにもみられる」(「広島の地質をめぐって」)。
池ヶ原の「陸岸」では黒曜石や安山岩の石鏃が発見されている。
アイヌ系の狩猟民が長者原の丘陵地へやってきた時、目前には樽床堰堤から八幡原本坪まで8kmに渡って、聖湖をはるかに凌ぐ広大な「古八幡湖」が広がっていた。彼らは周辺を「ya-wa-ta-para」と呼んだ。「陸の岸」と呼んだのは、けして大げさな表現ではないようだ。「八幡原」はおそらく古く遡る地名と思われる。
木束原(キツカバラ)はアイヌ語で ki-tu-ka-para で「葦の峯の上の広場」の意がある。
「八幡村史」に「吉乃さんと葦(よし)」の伝説がある。「木束原神社は後醍醐天皇の皇女吉乃姫と言い伝えられている。天皇が隠岐の島に御流罪になられた時に、天皇の御供をしておられた姫を、忠臣児島高徳が御供をして二川長橋より芋原を通られ、休みが峠より木束原に入られたと伝えられている。そのある日のこと姫は葦の葉先で目をつかれて大層苦しまれた。それ以来姫は葦を大変きらわれたという。そのためか現在でも鳥落郷の常栗川より上、木束原にかけての一帯は一本の葦の姿見ないという」
千町原(センチョウバラ)は sen-chir-para で、「日陰の鳥の広場」の意がある。
「臥龍山の西麓を東西に拡げた、横一キロメートル、長さ七キロメートルの曠野を、往古より千町原と呼んでいる。雪とけの季節、野鳥は一斉に啼きはじめ千町原の早春譜を奏でる。真夏は緑陰の樹間を跳び移る鶯の姿も見えて、さわやかな冷気が一帯にながれる」(「八幡村史」)。
古代人も現代人も感ずるところは同じであることに驚かされる。古代の千町原は鬱蒼としたブナ林で埋め尽くされていたことだろう。
八幡原の語尾が「原」の地名も、古く遡る地名のようだ。「原」の読みは「ハラ」でなく、野々原を除いて、皆「バラ」と読んでいる。これは同じ「para」を語源としていると思われる。谷を遡上してきた狩猟民は、広がりのある平坦地を皆「〜para」と呼んでいたのだろう。
周辺の村名の由来を見ると狩猟との関係が濃いようだ。
「当村名往昔ハ狩屋形村と書き申候則今に鉄砲受帳ニハ右狩屋形の文字書来り申候 扨て村名之起を尋ねるに石見国三ノ宮ノ神主某鹿狩に参り此処に狩場之屋形を建て毎年秋は参り数日鹿狩をなし候故終に地名となりたる山神主は終に此処に住居仕候由にて其子孫今に当村並に川小田村に有之候」(『書出帳・苅屋形村』1819年)
「當村名之事 當村氏神祭神三宝荒神と崇來リ申候此故ニ村名荒神原村と相成申候○○往古之鉄砲帖ニハ高神原村と書調御座候何レの頃高を荒に改め候哉相知不申候」(『書出帳・荒神原村』1819年)
小物成銀(こものなりぎん)は福島時代より課せられたいわば雑税で、鉄砲は一挺に付一四匁を課した(1600年)。
広島藩の「雉子鉄砲札運上」「鹿鉄砲札運上」(うんじょう)は猟銃の鑑札に対する税で、元和6年(1620年)から始まり、一挺につきそれぞれ、五匁、十四匁を課した(「広島藩における 近世用語の概説」)。
1600年頃から鉄砲受帳の記録があると思われるが、検地帳に地名の記録は残っていなかったのだろうか。
村名が鉄砲受帳(帖)に由来しているのは、他に移原村、米沢村、大利原村がある。この辺りの村の名が鉄砲受帳に残されていることは、集落が狩猟とともに生まれ発展してきたと思われる。
「本村の開元は何時の頃であったか、詳に其の年代を知ることができぬけれども古来の伝説と神祠及び古墳等を彼是考証するに、村の開発は遠く一千有余年の古であろう…先開地方の落武者など狩猟に来り、遇々肥沃地を発見して、此の処に居を定め遂に農に帰し、漸次平坦地の森林を伐採してこれを耕宅に拓き、以て村の基礎をなした」(「雄鹿原史」)。
柏原山の北西3kmに縄文や弥生の土器が発掘された七渡瀬遺跡がある。雲月山の北西4kmの柿ノ木遺跡から弥生の石器が発掘されている。周辺は大暮や掛津山で縄文の出土物があり、樽床遺跡群がある。村々は縄文の時代から狩猟を中心とした民が住みつき、それが、その後の村の土台を築いてきたと思われる。
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『陰徳太平記』(いんとくたいへいき)
全81巻と「陰徳記序および目録」1冊で、戦国時代の山陰、山陽を中心に、室町時代13代将軍足利義種の時代から、慶長の役まで(永正8年(1507年)頃-慶長3年(1598年)頃までの約90年間)を書く軍記物語。岩国藩の家老香川正矩によって編纂された。
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