7:55雲耕上出発 晴れ 気温−1度
8:40 土草峠
9:05 998ピーク
9:30 八幡洞門
10:30 八幡三方辻
11:20 大原山(1011ピーク)
12:20 大佐山
14:10 シカブシ谷(車道)
15:05 雲耕上
バス亭 |
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駐車場所を探しているとおじさんが出てきた。少し話をした。ウバゴゼン神社は雲耕にはないと言う、ゴゼンタキはあるが。カケスはこの辺りではなんと言うか聞いてみた。「カゲース」と返ってきた。予想したとおり、やっぱり濁っていた。土草峠はツチクサと言う。
雲耕上(バス亭)を出発し、ゴゼンタキ左岸の尾根を上がった。ゴゼンタキ左岸に古い墓所がある。残念ながら祠らしきものもなかった。雪の上にドングリが落ちている。15分ほどで工事中の林道に出た。少し林道を上がってから尾根を登った。ホダギがヒノキ林の中に並べてあり、大佐山が林間から見える。別の除雪されたアスファルトの車道に出た。しばらく林道を上がって、ワル谷水源部の右岸を登り土草峠に出た。車道は峠から八幡へ降りていた。
土草峠から踏み跡が続いている。径に雪はない。尾根径はアカマツが多い。高度が増す連れ、ブナの若木もチラホラ見え始める。後に掛津山が見える。峠から20分ほどで998ピーク。ヒノキ林の境に大きなブナがあった。伐採を免れたようだ。周囲3.8mでどっしりしている。主幹は途中で折れているが、下から枝が伸びている。中は空洞だった。ピークには「芸北町町有林」の赤いプレートが下がっていた。
ヒノキ林の尾根に伐採された古い大木の幹が転がっていた。大ブナがあったピークから20分ほどで八幡洞門。洞門の上に電線が走っている。洞門から東西に開け、西に大佐山が見える。洞門から10分ほど登るとアカマツに食痕があり、クマの古い爪痕が残っていた。アカマツの食痕は細見谷のクロダキ谷から黒ダキ山へ上がる尾根、ツガの食痕が立岩の小松原橋から黒ダキ山へ上がる尾根で見たことがある。クマは樹脂を好むようだ。タヌキの溜め糞が径にあった。
陸軍の石柱 |
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登るに連れ、ブナやミズナラの大きな木が目立ってくる。どこから始まっていたのだろうか、気が付くと径に土塁が続いている。土塁を登って八幡洞門から1時間ほどで八幡三方辻。名前通り三叉路になっている。大佐山と鷹ノ巣山への径がある。三方辻には陸軍と書かれたセメントの柱があった。
「(高岳東のハコビ山は)昭和十七年陸軍が八幡演習場設置のとき頂上の樹林を切り倒して眺望をよくして、砲弾が大佐山などに落ちる状況を手旗信号で知らせた」(「西中国山地」桑原良敏)。
シジュウカラ |
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その子ども |
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三方辻から東に大原山が見えるが、掛津山、苅尾山は林が邪魔している。土塁を下った。東に毛無山、阿佐山、天狗石山、高杉山の山塊が見える。掛津山も林の邪魔なく見えてくる。苅尾山も全容を現してきた。ウグイスが鳴いている。途中、コーヒーで一服とした。シジュウカラが7、8匹興味深そうに覗いてきた。もう子どもを連れている。シジュウカラは繁殖期が長いようだ。短いドラミングが近くで聞こえる。
三方辻から50分で大原山。林が無く開けて展望が良い。阿佐山塊が近づいてくる。掛津山の麓に雲耕の箱庭が見える。南に目をやると苅尾山、比尻山、高岳、嶽に囲まれた八幡が白く浮き出ている。西に鷹ノ巣山。
大原山から30分ほど進んだ1000m付近に大きなブナが3本集まっていた。周囲4.1m 3.3m 3.3m。大佐山は裸にされた山だと思っていたから、4m超えのブナに会えるとは思っても見なかった。
大佐山 |
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高度が上がると東と南への展望を満喫しながらの歩きとなる。雪はざら目だが沈まない。山頂へ近づくと雪はない。大原山から1時間で大佐山。快晴の大展望だった。柏原山の東に阿佐山塊がいっそう大きく迫ってきた。スキー場の下は荒神原の集落だろうか。大箒山から大平山の稜線の手前に掛津山、その右へ苅尾山への稜線。八幡側は山頂からは見えない。
リフトが頂上直下まであるが、もう動いていないし雪もない。シーズンは終わったようだ。トンビが上空を旋回している。
大佐山は二等三角点、点名は大佐山、選点は明治26年で芸北町の所有になっている。所在地は山県郡芸北町大字荒神原字棒路。
しばらく展望を楽しんだ後、雲耕に降りる尾根を下った。雲耕の集落がすぐ下に迫ってくる。10分ほど下ると右手の谷に大きなブナが見えた。抜け落ちそうな谷の雪の上を越えた。ゴーロ帯の中にあったブナは周囲3.2m、さらに谷の下へ大きなブナが見える。どっしりとした谷の主のようなブナは4.4mの巨木。よく生き残っていたものだ。さらに下方に見えたのは3.5mの空洞になったブナ。シカブシ谷上部の谷筋なので運び出せないので生き残ったのだろう。この付近はじっくり捜せばまだほかにブナの巨木がありそうなところである。
雲耕の標識 |
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追矢バス亭 |
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ブナの計測で谷を大分下ってしまった。トラバースして三つの谷を渡り元の尾根に戻った。山頂から1時間半ほどでシカブシ谷が降りる車道に出た。そこは雲耕集落の西端辺りだった。少し下るとオイヤ川に沿う八幡洞門へ抜ける道に出た。車道の温度計は11度を示していた。
今日は暑かった。草土峠を通る道は町道八幡雲耕線と言う。「追矢」のバス亭を過ぎ、新追矢橋を渡って出発点近くまで戻ると、ゴゼンタキの落口近くに祠があった。聞いてみると老婆御前ではないと言う。その辺りは大木があったが台風で倒れたと言う。
ゴゼンタキ落口付近の祠
この付近に大木があったが台風で倒れた |
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カシミールデータ
総沿面距離11.7km
標高差374m
区間沿面距離
雲耕上
↓ 2.0km
土草峠
↓ 3.0km
八幡三方辻
↓ 2.6km
大佐山
↓ 4.1km
雲耕上
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雲耕村は藩政時代(1819年)38戸216人が住んでいた。雲耕(ウズノウ)の地名は芸北だけだが、カシミール検索では雲をウズと読む地名は三次市の南に雲通(ウズイ)がある。
ネット検索では、弘治元年(1555年)三河国慈廣寺の雲耕が静岡県の森淵山梅林院を再興とある。「雲耕」の字が僧名として使われているが読みは不明。
雲珠(うず)は「唐鞍(からくら)の鞦(しりがい)につける宝珠の形をした飾り」(「大辞林」)とある。雲珠は馬を飾る装身具だが、「和名抄」(934年頃)に「雲珠」があり、古墳からよく発掘されている。
雲珠から雲(うず)の読みが派生しているのかもしれない。
「小鹿原史」に雲耕村の由来がある。
「雲耕村。村名うづなう、と訓む、義詳らなず按に続日本紀宜命、万葉集に、うつなひ、うつのひの詞あり厳敬の義なり、うつなう其義なりや、雲をうつと読み、耕をなうと読むは五音横道なればにや、広十三町袤三町東北の間少しひらく、其余は皆山なり、谷川一流大佐山より出荒神原村に流入る是又滝山川の一源なり。(雲耕はもと仮名にてウツノフの書けり、櫟の方言ウヅナ、一に移木又移名ともいう、ウヅノフは蓋櫟生なり。)」(「安芸国山県郡の彊域形勢」文政二年調・1819年)。
「彊域形勢」では「うづなう」の読みを続日本紀宜命や万葉集にある「うつなひ」「うつのひ」に照らしている。
「萬葉集を讀む」HPに
「うつなふ 萬葉十八に神あひ宇豆奈比(「ウヅナヒ」)、続日本紀宣命に相 宇豆奈比(「ウツナヒ」)奉などなほあり」とある。
「大伴家持全集本文編 水垣 久編」HPに万葉集の原文対照表がある。
原文
天地乃 神安比宇豆奈比 皇御祖乃 御霊多須氣弖
カタカナ訓読文
アメツチノ カミアヒウヅナヒ スメロキノ ミタマタスケテ
漢字仮名交じり訓読文
天地の 神相珍なひ 皇御祖の 御霊たすけて
ここでは「宇豆」(ウヅ)は珍しいの意で使われている。
「彊域形勢」はさらに「雲」「耕」に「うつ」「なう」と読むのは横道だとして、雲耕に櫟(クヌギ)の方言としてウヅナを当てている。
「樹木名称出典」のHPにコナラ属の方言として以下がある。
ウツナキ(広島) コナラの方言
ウツナ(愛媛) クヌギの方言
ウズナ(山口、愛媛) クヌギの方言
1819年当時、雲耕周辺はクヌギをウヅナと呼んでいたのだろう。「彊域形勢」の筆者は雲耕の語源を続日本紀宜命や万葉集、ウヅナに求めたが、納得したかどうか分からない。
「書出帖・雲耕村」(文政2年・1819)では、
「當村雲耕村と得ニ名事訳合相知不申候尤ニ往昔之帖ニうつのふ原と書候帳モ御座候様之訳ニ而雲耕村と相成候哉一向相知レ不申候」とある。
雲耕村は「雲耕」と表わすまえは「うつのふ原」「ウツノフ」と呼んでいたようだ。
1555年には雲耕(僧名)の字が見られるので、その頃には雲耕村と漢字で表わしていたのかもしれない。
雲耕に関連する言葉を並べてみる。
●759年以前 宇豆奈比(ウヅナヒ)(大伴家持)
宇豆奈比(ウツナヒ)(続日本紀宣命)
●1555年 雲耕(慈廣寺の僧名)
●雲耕村は昔「うつのふ原」と呼んでいた(書出帖)
●1819年 雲耕(うづなう)(書出帖)
続日本紀宜命や万葉集の宇豆奈比(ウヅナヒ)は雲耕とは関係ないと思われる。
ウツノフ(ウツノウ)は1819年以前から、あるいは1500年代以前から呼ばれた古い地名と思われる。
広島のコナラの方言はウツナキだが、文政2年頃はクヌギをウヅナと濁音で呼んでいたのだろう。享保20年(1735年)の「産物帳」によると、山陰ではカケスをカゲスと濁音だった。雲耕のおじさんも「カゲース」と言っていた。
掛津山はカゲス山(「政所村差出帳」・1679年)と呼ばれていたので、「カケスが居る山」の意ではないかと思っているが、ウヅナ、カゲスの呼び名から考えると、県境の山間は濁音地域の影響を受けていたのではないかと思われる。
東北弁はツ→ヅ(ズ)への転訛が多い。
●そいつ、ください→ほいず(づ)取ってけろ
●いつの間にか→いづのこまにが
おそらく山間地域は東北弁と似ている出雲弁の影響を受けていたと思われる。
広島弁は肯定も否定も語尾に「のう」「じゃのう」を付けるのが基本になっている。
●しょうがない→しょうがないのう
●知らない→知らんのう
否定のナイはノウに置き換わることが多い。
「方言の館」HPに邑智郡桜江町小田と山県郡芸北町才乙の方言比較がある。「『方言資料叢刊』第3、4、5、7巻」のなかの桜江町の方言に下記がある。
●暑くない アツーナーノー。
●たまらない タマランノー。
●あまり降らない アンマリフランノー。
桜江町と才乙の方言は似ており、古くから山陰との交流があったようだ。山陰側でもノウが普通に使われている。
以上から考えると
ウツ→ウズ(ヅ)→雲
ナイ→ノウ→耕(農)
と変化したのではないだろうか。
雲耕(ウズノウ)の昔の呼び名「ウツノウ」の語源は「ウツナイ」だったのではないだろうか。
カシミールで「ウツナイ」を検索すると「ウツナイ川」が北海道に5ヶ所ある。北海道にはウツナイ、ウチナイ、ウトナイという川名が多くある。
アイヌ語のウツナイは、ウツ(ut)=肋骨のように支流がある川(ナイ・nay)を意味する。
ut・nay(ウツ・ナイ)は支流が多くある川の意。
雲耕周辺の地形を見ると、北の大佐山から降りたシカブシ谷はオイヤ川と合流し大佐川となって雲耕から東の宮地へ流れている。南からは掛津山から下りたワル谷、ゴゼンタキ、コヤガ谷が雲耕集落に落ち、北からも小谷が幾つか下りている。アイヌの言う「ウツ」の地形に似ているようだ。
雲耕は往古「ウツノウ原」と呼んでいたから、ウツナイ原=支流が多くある原、川、谷の多い平坦地を表していたのだろう。
雲耕の語源はアイヌ語の「ut・nay」が始まりで、次のように変化したのではないだろうか。
ut-nay(アイヌ語 肋骨・川)
↓
ウツ・ナイ(呼び名の定着)
↓
ウツ・ノウ(ナイをノウに置き換える方言の影響
↓ 広島弁など ウツノウは昔の呼び名)
ウズ・ノウ(ツをヅ・ズに置き換える方言の影響
↓ 出雲弁など)
雲耕
耕をノウと読むのはよ分からないが、農耕に語源があるのではないだろうか。
大暮毛無山の南にある移原はウツノハラと読む。移原は外に15km南東の旧千代田町にある。全国に無い移原が近くで並んでいるのは注目される。
「書出帖・移原村」(文政2年・1819)に移原の由来がある。
「当村往古ハ当村大暮村高野村米沢村小原村溝口村六ヶ村を山野廻村と唱則鉄砲受帳ニハ今ニ右文字相用申候然ル処何の頃より款移原村と六ヶ村ニ相分レ又転字仕もの款両段共申伝も無御座候」
移原村の鉄砲受帳に書かれた「移原」が村名の由来になっていることは、移原村と狩猟を結びつけるものがあったと思われる。
ウツノハラの地形を見るとアイヌ語の「ウツナイ」とよく似ている。雲耕は往古「ウツノウ原」と呼ばれていたので、
ut-nay-para(肋骨・川・広場)
↓
ウツナイハラ
↓
ウツノウ原→ウツノ原→移原
と容易に推察できる。やはりアイヌのウツナイが語源と思われる。雲耕村も移原村も、かつて「ウツノウ原」と呼ばれていたのだろう。
カシミールでは「移」を含む地名は「移川」(ウツシガワ)が福島県に6ヶ所ある。後は広島県の移原と和歌山県の「移」(ウツリ)だけである。おそらく「移原」はアイヌの「ウツナイ」を語源としていると思われる。
雄鹿原村は最初、狩猟民が開拓したようだ。
「本村の開元は何時の頃であったか、詳に其の年代を知ることができぬけれども古来の伝説と神祠及び古墳等を彼是考証するに、村の開発は遠く一千有余年の古であろう…先開地方の落武者など狩猟に来り、遇々肥沃地を発見して、此の処に居を定め遂に農に帰し、漸次平坦地の森林を伐採してこれを耕宅に拓き、以て村の基礎をなした」(「雄鹿原史」)。
雲耕村に伝説がある。
「此の村むかし大深山にて、月星のかげもみえざる時、七郎右衛門と申者佐伯廿日市の犬山引にて御座候。当所へ鹿がりに参り、開けばよき所と思ひ、岡田左開のうえ、少し雲を拝する所御座候其所鹿のぬた御座候へ春三月に参り籾をまき置き候へば、能き稲出来候来る秋参り、これを見合能き所と思ひ岡田住所仕り候て、ひらき申候此のいんえんを以て雲を田がやすとは書なり(犬山引とは犬を用いて猟をする者をいう、左開とは早開ならん)」(「雄鹿原史」)。
石鏃の発掘地点4ヶ所 |
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掛津山の東側4ヶ所で石鏃が発見されている。掛津山南の@中峠、その東のAたたら原、雲耕南のB宮地、荒神原のC遠見峠。
石鏃は安山岩、フリント、黒曜石の三種類、158点で縄文時代に使用されたものである。
近くの樽床遺跡群の黒曜石は島根県隠岐産という分析結果がでている(「広島大学埋蔵文化財調査室」)ので、掛津山の黒曜石も隠岐産と思われる。
黒曜石は帝釈峡の遺跡など県下の遺跡から多く出土しており、広島県の山間と山陰・隠岐との交流が縄文の時代からあったようだ。隠岐島産の黒曜石は朝鮮半島や1000km離れたウラジオストックでも発見されており、古代人の行動範囲の広さは想像を超える。
若狭湾の浦入遺跡で長さ10mの縄文の丸木舟が発掘され、周辺の遺跡から隠岐島の黒曜石の塊や北陸地方の土器や奈良産のサヌカイトが出土している。若狭湾周辺を経由して隠岐島、北陸、中国山地の交流があったと思われる。
大暮毛無山は全国の毛無山の最も西南に位置する。毛無は禿山でなく、ケナシ=Kenash(アイヌの呼び名 木の生えている原)を語源としていることは間違いないと思われるが、ブナの鬱蒼とした森林帯を意味するケナシが大暮より西南側にないのは不思議な気がしていた。
阿佐山塊よりもっと大きな原生林が苅尾山から恐羅漢、十方山、五里山へ広がっている。毛無と表す地名はなくとも、「打梨」などアイヌを象徴する別の地名がまだ多く残されているように思われる。
シカブシ谷にブナの巨木を残す雲耕周辺の山々は、かつてブナなどの鬱蒼とした原生林が広がっていたと思われる。伝説の残る雲耕先住のアイヌ系の狩猟民は、大佐川に流入する多くの谷がある雲耕の平坦地を「ウツナイ」呼び、ゴゼンタキ付近で狩の安全を祈り、掛津山や大佐山周辺でクマやシカを追っていたのだろう。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
老婆御前神社がなかったのは残念だった。周辺の村の「書出帖」(文政2年・1819)よると5つのウバゴゼンがある。
雲耕村 老婆御前 社無し
政所村 姥御前 社未確認
西八幡村 姥御前 社未確認
大暮村 姥御前(宇婆御前) 社有り
才乙村 乳母御前 社有り
大暮では阿佐山に化物が出るという伝説があり、そのため峯筋七ヶ所へ御祭したのが七婆御前で、その内の一体が今の宇婆御前神社(大暮)と言い伝えられている。毛無山は宇婆御前山ともいう。
早水越(大暮)の北にバゴゼ谷があるので、六婆御前が実際にあったようだ。ウバゴゼンはアイヌに関係するものなのか。
「高祖聖人様六百回忌御法事仕リ諸事覚」(政所村、安政3年・1856年)に地名として「ばごぜ」があり、「常蔵」が六百回忌の食事の世話をしている。文久3年(1863)の元祖聖人六百五拾回忌にも「ばごぜ」の「常蔵」の名がある。
雲耕の地主神社 |
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