6:45大暮登山口出発 晴れ 気温−1度
8:20 毛無山
8:50 横吹峠
9:20 中の丸見山
9:35 二十丁峠
10:35 ドウゲン山(阿佐山南峯)
10:50 ツチダキ
11:10 同形山(阿佐山北峯)
12:05 早水越
12:45 三ツ石山
13:40 天狗石山
14:15 ホン峠
15:25 高杉山
17:25 大暮登山口
橋を渡ると大暮養魚場 |
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大暮養鱒場へ渡る橋を過ぎて、高杉山を正面に見ながら大暮川左岸を上がるとまもなく毛無山登山口。
大暮養鱒場は昭和10年、広島電気株式会社(中国電力)の王泊ダム建設で淡水魚の遡上を遮断したため、代償として資金5万7千円を提供して作られた。
大暮川の川岸の高台から新石器時代の石斧が藤田朝男氏によって発見され、紀元前2、3世紀頃には人間が住んでいたという。大暮には藩政時代78戸、418人が暮らしていた。(「美和村史」)。
登山口 |
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毛無山登山口は雪で覆われている。姥御前神社へ上がる道が分からず、それらしき谷を上がったが尾根に出てしまった。谷を間違えたようだ。尾根を登った。林間に高杉山から天狗石山の稜線が見えてくる。林道を横切って尾根を登ると雪面に木の皮がいっぱい散らばっていた。赤い腰巻の仕業だろう。何本かの木がやられていた。1時間半ほどで稜線の小鞍部に出た。株立したブナがあった。巣箱が掛けてある。ブナの若木が多い。伐採された後に生えてきたものだろう。鞍部から数分で毛無山。東側へ展望があるが、もう霞んでいる。
毛無山は三等三角点、点名は毛無山で所在地は大字大暮字毛無山、選点は明治28年。毛無山周辺はどういうわけか株立したブナが多い。カンジキの跡が横吹峠へ下っている。西側はヒノキ林。前方にドウゲン山が頭を出している。1013ピークを通り、30分ほどで横吹峠。峠から少し登ると大きなブナがあった。周囲3.5mで中が空洞になっている。横吹峠から中の丸見山にかけての斜面は大きなブナが多い。続いて3.4m、3.5mのブナだった。ヒノキ林の中にあるので余り高く伸びない。途中で枝分かれしたブナが多い。
峠から30分で中の丸見山。開けた山頂から通ってきた毛無山への展望がある。東は霞んでいる。ドウゲン山は林で頭だけ覗いている。二十丁峠へ下った。15分ほどで峠。峠上には20本ほどのヒノキが纏まって立っている。ドウゲン山が前方へ大きくなってきた。「二十丁、十一丁という峠名は大谷のカタラ谷に藩営の鈩場があり、木炭供給地であった頃つけられた地名で、二十丁はこの峠から鈩場までの距離を表わしている」(「西中国山地」)。
シジュウカラ |
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1116ピークから東の目前に畳山が見える。畳山の西面は木が無いのか、スキー場のような雪の斜面になっている。1116ピークからドウゲン山にかけてブナが多い。3.4mブナを計測した。立ち止まると必ずシジュウカラが寄って来る。カメラを向けるとすぐ逃げてしまう。
二十丁峠から1時間ほどでドウゲン山。小さな小屋がある。巣箱をかけてある山頂から前方の同形山にリフトが上がっているのが見える。東に見える里は大朝あたりだろうか。
ドウゲン山は一等三角点、点名は阿佐山で所在地は大字大暮字阿佐山、明治21年の選点。
ツチダキへ下った。カンジキの跡が稜線を横切っている。同形山から滑り降りる様子がよく見える。15分ほどでツチダキへ下り、スキーコース横の尾根を登る。振り返るとドウゲン山の山容がある。ここから見る畳山は小さく見える。同形山は山頂にリフトが上がっている。瑞穂ハイランドスキー場。三機リフトが上がっていて人が多い。
同形山のスキー案内図 |
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スキーリフトのすぐ西側は苔むしたブナが林立している。まるで古代と現代が同居しているようなところである。早々に古代のブナの森の中に退散した。それにしても同形山西面のブナは皆、コケが張り付いている。この森の中は湿度が高いようだ。大暮川の谷から上がってくる風が湿気をもたらしているのだろうか。ブナ林とヒノキ林の境まで下ると大展望が現れる。早水越、三ツ石山、天狗石山、高杉山の稜線が一望できる。ホットコーヒーで休憩とした。
「同形山より三ツ石山へ続く主稜は、明治、大正の初期までブナの原生林で覆われていたようだ。『市木村誌』(明治9年)に『三ツ石の山稜より東にそいて十数町歩にわたり、うつ蒼たる古代林なり、ブナ、カエデ、ナラの老樹にして、樹幹数人の手を連ねて抱くにたるもの珍しからず。千枝万梢天をおおい、点々杉をまじえて直ちに千古の神代を偲ばしむ』」(「西中国山地」)。
シジュウカラ |
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ヒノキ林を下った。ヒノキ林の中に大きめのブナがあるが、日当たりが悪いのか伸び切れていない。変形したブナもある。二又の大杉を通り、1090ピークにさしかかるとリフトが上がっている。旭テングストンスキー場、テングストンは天狗石山から名付けたのだろう。さらに進むと根元から三本に分かれた杉があった。早水越は鞍部に20本余り杉が纏まって立っている。川本営林署の錆びた看板が残っていた。
「早水越は深山側の呼称である。早水ではサンナイ(山内)と呼んでいる。…大正2年大暮に中国製鉄の洋式溶鉱炉ができ、そこで使用する木炭をこの付近の天然林を伐採して製造し、鉄索で空中輸送していた」(「西中国山地」)。
相変わらずシジュウカラが寄ってくる。ときどき鋭いドラミングが山間に響く。スキーの跡が上へ続いている。開けたところで振り返ると阿佐山の双耳峯が大きく見える。山頂に先客があった。テングストンのリフトが上がっている1090ピークから登ってこられたとのこと。山にもよく登っている方のようだった。山頂にも川本営林署の錆びた看板があった。
三ツ石山の由来は『那賀郡誌』にある。「絶頂に方ニ尺の石があって三つに裂開している。昔津和野、浜田、広島の三藩立会の上建設したもので、一部は津和野領、一部は浜田領に、一部は芸州領に属していた」(「西中国山地」より)。
三ツ石山から1145ピークにかけて平坦面がつづく。高いスギ林で暗い。湿地のようなところだ。ここはキナイ原と言い、木無原と書く。
1145ピークを過ぎると広い平原になっている。前方に天狗石山と通信塔が見え、山頂の大きな岩がはっきりと分かる。南側へ寄ると毛無山からドウゲン山の山並みを見渡せる。この付近は大暮から林道が上がっている。三つの大きなアンテナ塔が間隔を開けて並んでいる。真ん中はNTTのアンテナ。振り返ると阿佐山が再び姿を現していた。
三ツ石山から1時間ほどで岩の上にある天狗石山に到着。スキー跡が山頂まで続いており、三ツ石山でお会いしたスキーのお兄さんはここまで登られたようだ。山頂には木製の展望所がある。展望所から同形山、三ツ石山、一兵衛山、カブリ山、高杉山が見え、雲月山は霞んでいる。山頂の巨岩を天狗石と言い、山名になっている。天狗石山は三等三角点、点名は天狗山で所在地は大暮字天狗石、明治28年の選点。
ホン峠の道標 |
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急な岩山を降り、若いブナ林を通り、大岩を過ぎると高杉山の大きな山容が一段と近づく。カブリ山を見ながらホン峠へ下った。毛無山の裾野に広がる大暮の集落が見える。高杉山の東面に間隔を開けて林道が二本通っているのを確認した。30分ほどで峠へ降りた。ホン峠に天狗石山、高杉山の道標が雪の中から頭を出していた。
峠から西へ数十メートルほど下ると、杉の大木に守られるように乳母御前神社があった。「御神酒をどうぞ」と書かれた板があり、半分以上残った一升瓶が二本置いてあった。今でも村人が大切にしている神社のようだ。一杯頂きたいところだったが、まだ先があるので我慢した。村人はバゴゼ神社とかバゴゼさんと呼んでいるという。50m下まで林道が上がっている。しばらくここで休憩とした。本峠は「石見安芸の西から大朝村へ通ずる近道」だった。
乳母御前神社 ホン峠西 |
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乳母御前神社 |
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1014ピークの先 |
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最後の登りに入った。1014ピークを過ぎた先に「地下水ヶ所 400m」の道標がある。その横に見えにくいが「モデル水源林」の看板があった。鞍部から登りに入ると大きなブナが多い。ホン峠から50分ほどで山頂到着。ユートピアサイオトスキー場のリフトが山頂に上がっているが、山頂西面のゲレンデに雪はなく、リフトは動いているが上がってくる人はいない。高杉山の先に小マキ山、井屋山が続いている。大暮集落が眼下に見える。
高杉山は四等三角点、点名は槇平で所在地は大暮字槇平、昭和50年の選点。「芸藩通志」才乙村絵図には「火タイトリ山」とある(「西中国山地」)。昭和33年の広島県統計年鑑に火タイトリ山がある。ヒタイトリヤマ(額取山:1009m)が福島県猪苗代湖の東にある。
馬蹄形の稜線をぐるりと回ってみると、三つのスキー場が尾根に上がり、かつてあったブナの原生林は皆伐され、ところどころ点のようにその一部を残して、ヒノキやスギの植林帯に変わってしまった。この山稜をケナシと呼んでいた縄文の狩人がその様子を見たら腰を抜かすことだろう。
林道が通っている東の尾根を下った。尾根には若いブナの木の中に3m前後の大きなブナもある。開けたところで歩いてきた毛無山から天狗石山の稜線が大きく迫ってくる。ヒノキ林を通り、一番目の林道に出た。この林道はマキガ峠から降りている。林道を横切ってヒノキ林を下ると尾根の端に3.7mの大きなブナがあった(950m付近)。ほどなく二番目の林道に出た。山頂から50分ほどかかった。眼下に林道が幾つも走っているのが見える。林道を下ると「ここはモデル水源林です」の看板がある。「森は、山に降った雨を一度に流さないで地下に蓄え長い年月をかけて少しずつ下流へ流します」と書いてある。看板の主は「広島県緑と水の森公社」とある。この看板の背後には広大なヒノキ林が広がっている。
鉄柵のあるトリゴエ谷に沿う林道を降りた。前方にある毛無山の山容は見納めとなる。少し下るとバブコック日立の「21世紀の森」の看板がある。林道に出てから20分ほどで大暮川に架かる昭和58年竣工の深山新橋に出た。大暮川左岸を下った。雪解けで水量が多い。林間から高杉山が覗いている。スノーシューの跡が林道に続いていた。途中、御前滝の道標があった。深山新橋から30分ほどで登山口に帰着した。
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カシミールデータ
総沿面距離18.2km
標高差522m
大暮の御前滝道標 |
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区間沿面距離
大暮
↓ 1.9km
毛無山
↓ 3.9km
ドウゲン山
↓ 1.1km
同形山
↓ 3.0km
三ツ石山
↓ 1.7km
天狗石山
↓ 2.2km
高杉山
↓ 4.4km
大暮
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全国の毛無山(カシミール検索から)
県名・座数 |
標高(降順) |
北海道7 |
816 749 720 684 650 631 548 |
青森県3 |
982 792 693 |
秋田県1 |
677 |
新潟県1 |
1044 |
宮城県1 |
315 |
長野県3 |
1650 1130 1021 |
山梨県2 |
1934 1144 |
鳥取県2 |
1218 558 |
岡山県1 |
837 |
広島県5 |
1253 1155 1144 1083 999 |
全国26座 |
|
木無山(カシミール検索から)
県名・座数 |
標高(降順) |
北海道3 |
871 726 645 |
青森県2 |
686 587 (但し2座とも木無岳) |
山梨県1 |
1728 |
「毛無し山(けなしやま):草木の生えていない山。はげやま」と広辞苑にある。私も単純に木のない山と思い込んでいたが、どうやらまったく逆であったようだ。
「『芸藩通志』には、この山についての記述はないが、『国郡志御用に付下調書出帳・高野村』(1819年)に山林名として毛なし辻山≠ェある。『国郡志御用に付下調書出帖・大暮村』には、これも山林名として毛なし山≠ニあって、大暮側の呼称が山名として一般に用いられるようになったことがわかる。現在も山麓の村里では、この山名が使われている」(「西中国山地」桑原良敏)。
ほかに苅屋形村・書出帳にけなし山=A移原村・書出帳に毛無ケ辻≠ェある。
「山中襄太氏がケナシはアイヌ語のKenash Kenas-iであり、木の生えている原≠フ意であることを指摘してより、ケナシ山は木の生えている山、生えていない山と論議をよんだようだ」(「西中国山地」)。
万葉集に毛無≠ェあり、「不毛」の義でなく、アイヌ語のケナシとして称呼する方が適切と論じている(下記参照)。
天智天皇の第7皇子の志貴皇子が三室山を詠んだ万葉和歌、
『神奈備の 石瀬の杜の 霍公鳥(ほととぎす) 毛無の岡に いつか来鳴かむ』
ホトトギスが来て鳴くくらいだから、毛無の岡は不毛の地でなくて、森があった所だという解釈で、7世紀頃にはケナシという呼び名は定着していたと思われる。『毛無(けなし)乃岳の所在』(下記)によると、奈良県斑鳩町に12世紀まで遡る毛無の地名を確認できるという。
アイヌは日本とロシアにまたがる北方先住民族で、歴史的には本州東北部から北海道、千島列島、樺太を生活圏としていた。毛無山は全国26座の内、北海道・東北で13座あり、四国・九州に毛無山がないことから、地理的にはアイヌとの係りを窺わせるものがある。木無も同地域にあることから、木無は毛無の転訛と思われる。
北海道黒松内町(クロマツナイ)はブナ北限の町だが、実際はさらにその北の蘭越町(ランコシ)のツバメ沢がブナの北限のようだ。北海道の毛無山7座の内、5座がブナの北限より南にあり、残りの2座も北限から北東へ60kmほどの小樽市までにあることは注目される。木無山も2座は北限より南、残り1座は北限の北東30kmのところにある。
青森県にも毛無、木無が集中しており、青森県から北海道のブナ北限の周辺が「毛無山」のルーツではないかと思えるほどである。
ケナシはアイヌ語で木の生えている原≠セが、木の生えている原≠ニは、当時アイヌが生活していたブナを中心とした鬱蒼とした森を表しているのではないだろうか。毛無山の所在は中国山地からブナの北限近くの小樽市までで、大暮の毛無山は最も西南に位置する。広島県北では1000mを越える高山にあるのが毛無山の特徴と言える。
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「キャンピングカーをつかい山岳信仰の山2000に挑戦」のHPに、大暮の姥御前神社を管理している村の親父さんの話があるので紹介させてもらう。
「(姥御前神社の由来は)昔侍が都落ちするとき連れていた女房が子供を抱いたまま行倒れたところだ。侍の女房だから御前と呼んだ。いつか横の沢水を持ち帰り飲むと乳の出がよくなると、近郷からお詣りする人が絶えなかった。……阿佐山一帯は村有林で、昭和37、8年頃、村長が二抱えもあるブナの原生林を伐って山陽パルプに売ってしまった。ブナを伐って数年したら今までにないことに、大暮川が溢れて水害をもたらした。誰いうともなく阿佐山の山の神の怒りだと話し合った。ブナを伐ってから40年ほどになるがブナはなかなか成長せん。…姥御前神社は阿佐山の山の神を祀っていたのかもしれないね」
姥御前神社は毎年例祭が行われ、村人から大切にされている。阿佐山周辺はブナの原生林だったようだ。姥御前神社について「美和村史」では次のように記されている。
無格社 姥御前神社
鎮座地 山県郡美和村大字大暮字木地屋
祭神 大山津見神
由緒
「大暮、高野、移原、米沢、才乙以上五ケ村持合阿佐山ト云う大山有、峯高ク殊ニ深山幽谷也、人跡絶テ汒々タリ、村民大津見神ヲ祭リテ守護神トス、按スルニ往古此山ニ老桧古杉ノ類繁茂シ猪、山犬、狼、大蛇等の猛悪ナル獣類多ク人畜ニ害ヲ及スコト屡々ナリキ、慶長ノ初年ヨリ五ケ村人民此山ニ入ルコトヲ得タリ」(古文書記載)。
慶長の初年と言うから1596年頃の話である。さらに口碑(伝説)として源義明の宇婆(文治初年・1185年)や安徳天皇の宇婆御前を祀るとある。
「大暮村・書出帳」(1819年)では、姥御前神社は「宇婆御是森」とあり、「祭神山の神と申、此森浅山の内ニ御座候此浅山殊ニ大山なれば山霊を祭しものか又は大山津見神鎮りましますにやいつれよしありげに相見申候」とある(「浅山」は阿佐山のこと)。
「才乙村・書出帳」(1819年)では、天狗石山本峠の乳母御前神社は「安徳天皇と二位の尼」を祭っている(「西中国山地」)という。
大暮の親父さんの話では、安徳天皇の宇婆御前が侍の女房に代わっているが、村の人も侍の女房だと思っている人が多いだろう。安徳天皇や源義明の宇婆は後につくられた話だろう。御前様を祀るのに山間の峠は相応しくないのではないか。むしろ、由緒で言われている山の安全を祈って祭ったというのが現実的であり、そのため山の入口に祭ってあるのではないだろうか。
十方林道の七曲に祠がある。おそらく山林従事者が細見谷の原生林を伐採し始めた頃に作られたと思うが、山仕事の安全を祈って山の入口に祭ったと思われる。そのような性格のものでないか。祠は細見谷の上流部と下流部を見下ろす所にある。十方林道入口に近い判城橋の墓や長者原林道の角兵衛の墓は1700年代にさかのぼるので、祠は古くからあったのかもしれない。
秋田県男鹿半島の毛無山の北東20kmの八竜町芦崎に姥御前神社がある。大同年間(806〜809)の創建と思われている。伝説では一番鶏が鳴いた時、老夫婦が分かれ離れになる話があり、
助かった翁の方は対岸の翁御前神社に奉られている。
二つの毛無山と家無山(エナシヤマ)に挟まれた比婆山の熊野神社は、創建から713年までは比婆神社と称し、伊邪那美を奉っている。現在、「安産の神様」として多くの参拝者が訪れているが、婆≠ニの関わりがあるのではないか。
「美和村史」に伝説の項がある。宮島の明神様が木無原に来た時「タタラグイ」が一面に茂っておるので蹴飛ばすと大朝上原に落ちて木無原にはなくなったが上原にはおおくなった(タタラグイはサルトリイバラの方言)。
宮島明神様が木無原で道に迷い、木無原の八畳岩に子供と休み、子供が遊んだ足跡がその岩に残っている。
阿佐山に化物が出るという伝説があり、そのため峯筋七ヶ所へ御祭したのが七婆御前で、その内の一体が今の宇婆御前神社と言い伝えられている。毛無山は宇婆御前山ともいう。
早水越の北にバゴゼ谷があるので、早水越あたりに七婆御前の一つがありそうだ。
ほかの村の書出帳では下記のウバゴゼンがあるので、伝説でなく実際の話かもしれない。
雲耕村 大井屋社 祭神 老婆御前
政所村 上森奥之社 祭神 姥御前
西八幡村 木束原社 祭神 姥御前
「ケナシはアイヌ語で湿原や川端の木原を意味する」(北海道・樺太地名に出るアイヌ語「カムイミンタラ」HP)。
アイヌの神話に「湿地の姥(ニタツ・ウナルペ)という悪魔が生まれ、近くの林の奥には林の姥(ケナシ・ウナルベ)という悪魔が生まれ、湿地の中の沼には湿地の妖婆(トイ・ラサンペ)が罠を仕掛けていて、鹿などが側に近寄ろうものならたちまち泥の中に引き込まれ、妖婆の籠(サラニツプ)の中にすっぽり入れられてしまう」(「かんたん神話学」HP)という話がある。
ケナシ(毛無)とウナルペ(姥)は切り離せないもののようだ。毛無には姥が同居している。
美和村の伝説では峯筋に七婆御前が祭られていた。毛無山の守り神は姥御前(宇婆)であり、木無原(毛無原の転訛と思われる)の守り神は乳母御前ではないだろうか。乳母御前に近いホン峠の西に熊押≠ェある。熊を圧し潰して捕る仕掛けを熊圧し(クマオシ)と言い、古事記に押し罠押機≠ェあるので押し罠の歴史はかなり古いと思われる。乳母御前付近で狩の安全を祈り、熊押やキナイ原へ狩に出かける狩猟民が居たのではないだろうか。
姥を含む地名はカシミールで検索すると北海道・東北に多い。ウナとウバは似ている。ウナとブナも似ているが。毛無地名の近所には姥や婆に関連するものがあるかもしれない。
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ブナは橅(木+無)と書き、木材としてのブナは乾燥が難しい、狂いが生じやすい、変色が入りやすい、虫害にかかりやすいことなどから、役にたたない木、木では無いと言う説明が多い。
木地師が好む広葉樹は、トチ、ケヤキ、イタヤなどの外にブナも有用材であった。栃やブナなどに美しい杢目(もくめ)を見出した。ブナの歴史を振り返ってみるとブナは無用というよりはむしろ有用な歴史を示している。
ブナは、最終氷河期末期(1万2000〜1万年前)から低地を中心として増え始め、やがて温暖化で高地にブナの森が残った。
縄文時代の東北地方は鬱蒼としたブナ林帯で、ブナ、ミズナラ、トチ、クリ、クルミなどの木の実は豊富で、三内丸山遺跡には、大規模なクリやクルミの林が集落周辺に存在していた。縄文のブナの森は、まさに豊穣の森であった。
ブナの森が広がる東北地方や信州には、縄文時代の遺跡が集中し、ブナの遺物は建築材として出土、4〜5世紀頃からブナが多用されて、ブナとの関係が古くから始まっていたことがわかっている。
奈良・平安時代以降の遺跡では、ブナは漆器腕などとして出土、12世紀以降、山地のブナは漆器椀に加工されて、東北地方の会津では、1590年(天正18)以降、近江から木地屋が入り込み、新しく漆器産業が起きた(「グリーン通信第5号」)。
全国の毛無山≠Q6座のうち広島県の5座は多いと思う。比婆郡の狭い範囲に4座集中しているのは驚きと言うほかない。まるでアイヌと広島県北の山間は赤い糸で結ばれていたようだ。大万木山から比婆山にかけての山稜にケナシに係る何かがあったのではないかと思えてくる。比婆郡の4座も大暮も周辺にブナの森が多いところであった。
比婆郡の毛無山
●1253m峯(福田頭)
●1155m峯(猿政山西)
●1144m峯(烏帽子山東)
●999m峯(大万木山東)
※873m峯(家無山 エナシヤマ 熊野神社南東)
芸北の毛無山
●1083m峯(大暮)
東北・信州と同様、比婆郡には帝釈峡の縄文遺跡がある。比婆郡の毛無山群から20km南の帝釈峡にある馬渡岩陰遺跡など4つ遺跡群は、石灰岩の岩陰や洞窟を利用した縄文時代の遺跡である。
発掘調査では、旧石器時代から縄文時代前期に及ぶ文化層が発見され、槍先形尖頭器を製作する際にできる調整剥片やそれらを利用した削器や石錐が少量出土。無文土器、槍先形尖頭器(有茎尖頭器)、石鏃などが出土している。オオツノジカは大型の絶滅動物だが、縄文時代の初頭までこの地域では生き残っており、狩猟の対象となっていたことがわかっている。(「広島大学埋蔵文化調査室」)。
大暮川の川岸の高台から新石器時代の石斧が発見されているが、毛無山から南西に20kmのところに樽床遺跡がある。
樽床遺跡群は、人工湖である聖湖に面した丘陵を中心に立地している。旧石器〜縄文時代を中心とする遺物が採集され、旧石器時代の遺物は、縦長剥片素材の基部加工ナイフ形石器、掻器や整った形態の縦長剥片が多数採集されており、石材は黒曜石、安山岩などだが、黒曜石の割合が高く、理化学分析では島根県隠岐産という分析結果が出ている。
出土石器は後期旧石器時代後半期に位置づけられるものと思われ、隠岐からの距離は直線で約200kmあることや石器群の特徴が山陰・北陸地域と関連を持つことなどから、今後の調査・研究の進展が期待される。(「広島大学埋蔵文化調査室」)。
黒曜石は帝釈峡の遺跡から隠岐島産や大分県姫島産のものが出土しており、広島県の山間と山陰・九州・北陸地域との交流があったようだ。隠岐島産の黒曜石は朝鮮半島や1000km離れたウラジオストックでも発見されており、古代人の行動範囲の広さは想像を超える。
若狭湾の浦入遺跡で長さ10mの縄文の丸木舟が発掘され、周辺の遺跡から隠岐島の黒曜石の塊や北陸地方の土器や奈良産のサヌカイトが出土している。若狭湾周辺を経由して隠岐島、北陸、中国山地の交流があったと思われる。
かつて、北海道南部から西中国山地までブナの鬱蒼とした森をケナシと呼んでいたアイヌ系の狩猟民が居り、毛無山という形でその足跡を残していったことは驚きである。気づかないで見過ごしているケナシ≠ェまだまだ多くあると思われる。
Kenash(ケナシ)は次のように変化したのではないだろうか。
Kenash(アイヌの呼び名 木の生えている原)
↓
ケナシ(木の生えている原の呼び名が定着)
↓
毛無を当てた(万葉集 木の生えている原)
↓
木無(毛無の転訛 木の生えている原)
↓
橅(木+無)(読み:附奈乃木
『和漢三才図会』1715年)
「無」は「ぶ」と読む(広辞苑)。『和漢三才図会』は橅(木+無)の読みに「附奈乃木」=ブナノキを当てている。読みは「ケナシ」から「ブナノキ」に変化している。
「比和村(比婆郡)・書出帳」(1819年)に「ぶなの木」がある
「ケナシ」は「ケ・ナシ」でなく「ケナシ」で単語。アイヌのKenashという呼び名を毛無と表わし、一文字で表したのが橅(木+無)の字ではないだろうか。橅(木+無)は日本列島におけるケナシ(ブナ林帯)そのものの歴史をあらわしているのではないだろうか。
1万年前、ブナ林が日本列島に定着し、アイヌはその中で生きてきた。アイヌにとって木の生えている原≠ヘブナを中心とした鬱蒼とした森だった。アイヌはそれをいつしかケナシと呼ぶようになった。もしアイヌが居なかったら橅(木+無)の字は生まれなかったと思う。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
万葉集主要論文所収
歌句データベースHPから
『「毛無乃岳」の訓』
春日政治(かすがまさじ)1955/10
論文要旨
巻8・1466の第4句の「毛無」は、古訓にナラシとあって、今も定訓のようになっている。巻8・1506に「奈良思」という地名があり、そのナラシと同一地を指すものと考えられたらしいが、「毛無」を「不毛の」義の用字とする理由づけには苦しいものがあり、また京大本の赭訓にケナシとあること、『八雲御抄』が「ならしの岡」と共に「けなしの岡」を別地として挙げること、生駒郡三郷村に伝わる旧名にケナシ及びケナシの岡のあることから、「毛無」と「奈良思」とは異名であり、別地であるとする。さらに、ケナシが林をいうアイヌ語(kenash又はkenashi)の系統を引き、もと森林のあった地の称呼とする方が、踏みならした「不毛」の義とするよりも、霍公鳥の来鳴く地により適切であると論じる。
『毛無(けなし)乃岳の所在』
大井重二郎(おおいじゅうじろう)1985/3
論文要旨
1466番歌の4句目「毛無乃岳」の「毛無」については、従来義訓として「ナラシ」と訓む説があり、春日政治氏により「ケナシ」と訓むべきという説が提出されてからも定訓を得ているとはいえない。この問題について、著者は字面にしたがって「ケナシ」と訓むべきであると述べる。また、その場所についても従来確定がなされなかったが、斑鳩町大字法隆寺に「毛無」の地名が見られ、その地名が12世紀までさかのぼりうることを確認できたことからも、「毛無」を「ケナシ」と訓むべきであるという。
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橅(木+無)の字の初見はよく分からない。
諸橋轍二編『大漢和辞典』(大修館刊)に「ブナ」の訓として「橅(木+無)」がある。
「橅(木+無)」は、『和漢三才図会』山果類に、「音謨、附奈乃木」と記す。とあるので1700年代には橅(木+無)の字が使われ、ブナノキ≠ニ呼んだようだ。
『三才圖會』は中国明代(1368〜1644年)の類書(百科事典)。日本の百科事典にも大きな影響を与え、正徳5年(1715)刊の寺島尚順(良安)『和漢三才図会』は、同様の形式で出版された。
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橅(木+無)を含む地名に以下がある。
●青森県十和田市大字奥瀬
字青橅山(あおぶなやま)
●岩手県一関市舞川
字橅木(ぶなのき)
●福島県南会津郡檜枝岐村
字橅平(ぶなだいら)
●群馬県利根郡みなかみ町西峰須川
字橅坂(ぶなざか)
●新潟県胎内市下荒沢
橅平橋(ぶなたいらばし・橋名)
●新潟県魚沼市福山新田
三本橅山(さんぼんぶなやま)
●新潟県岩船郡関川村大字畑
若橅山(わかぶなやま)
●長野県松本市奈川
橅の木隧道(ぶなのきずいどう)
山毛欅を含む地名は福島県、山形県にある。
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ブナの語源・ブナの古名
「多知曾婆(たちそば)」 『古事記』中巻
「柧稜」 平安中期の百科事典『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』
「樗」 室町中期の漢和辞典『和玉篇』
橅(木+無) 江戸前期の図入り辞書『和漢三才図会』
「『滅びゆく森ブナ』思索社」から
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知里幸惠編訳−「アイヌ神謡集」より
yuksapaha neeno kenash kata
鹿の頭をそのまま山の木原に
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