7:05出発 晴後雨 気温3度
7:40ニソウ谷分岐
8:50堀割
9:40三坂谷鞍部
10:30大神ヶ岳
11:10大神ヶ岳登山口
12:40ナメラ谷
14:35千両山
15:45ヨソウ谷林道
16:10判城橋
ハウチワカエデ |
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御境から降りる谷とバンジョウ川が合流するところに架かる橋は判城橋となっている。御境から五里山へ上がると1124ピークがあるが、以前は万城山と呼んでいた。万城山の水源から南へ降りているヤマダチ谷は、十方林道入口から北へ降りたヤマメ橋下流でバンジョウ川と合流している。万丈川、万城山、判城橋は同じ呼び名と思われるが、この辺りの地籍名「万丈」からきているのだろう。
林道入口は鎖止めがある。万丈川右岸に沿うスギ林のヨソウ谷林道を上がった。谷も山も紅く染まっている。万丈川は昔、尺近いアマゴが魚篭に重くなるほど釣れた魚影の濃いところだったようだ。現在はアマゴを放流している。判城上橋を渡って左岸へ渡る。30分ほどでニソウ谷分岐。林道はヨソウ谷を上がっている。
ヨソウ谷奥に四艘船岩、ニソウ谷水源に二艘船岩の巨石がある。吉和にはこの船岩について「出船入船」の伝承が残っている。この辺りは石州街道の間道やハチロウスギの見廻り道として、人々の出入りが多かったのかもしれない。谷を塞ぐ巨石を船に見立てて、いつしか船岩として祭るようになったと思われる。
ニソウ谷左岸に径が開かれている。ピンクのテープが続いているので林道を建設するのかもしれない。ところどころ幅広の径や石積が残っている。谷の上部に馬が越えられない小滝があったが、右岸に幅広の巻径があった。1時間ほどで谷を抜けると林道へ出た。一瞬、馬道かと思った。八郎林道から上がる釣橋林道の終点のようだ。ニソウ谷は緩やかなので馬も通れるだろう。終点を少し上がって水源の鞍部へ入ると堀割に着いた。堀割は幅1.8m、長さ20mほどあり、ニソウ谷と赤谷を県境でつないでいる。深く掘り下げた堀割は村人総出で作ったものだろう。村から堀割に出向くだけでも半日仕事だ。
コマユミ |
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この堀割は馬も通った石州街道の間道だった。石州街道は匹見町野入と吉和村の大向を結んでいた。大向から大町谷を通り、角兵衛の墓、お関の墓を通ってオセキガ峠を下り、セキガ谷から長者原に出て、オモ川、バンジョウ川、御境を通って匹見へ抜けていた。
「保矢ケ原の老人より赤谷の奥より広島県側のバンジョウ川水源のニソウ谷へ越す馬道があったことを聞き出した。この道が県境を越える所が堀割になっており現在もその跡が残っているが、この堀割から三坂谷へ向かって馬道があったのではないかという。そうなれば石州街道の間道はハチロウ谷を通らずバンジョウ川―ニソウ谷―堀割―ミサカ谷のルートが考えられ、県境を越える堀割の地点が御坂とよばれていたのかも知れない」(「西中国山地」桑原良敏)。
尾根を切り開いて道を付けることを堀割、堀越と言い、ホリワリ峠、ホリコシ峠は新しい地名を示している。「西中国山地」では深入山北の堀割峠、虫木峠東の堀割、大平山南の堀割、十方山北のホリコシ谷、青笹山北のホリワリ谷などがある。
十方山と奥三つ倉の鞍部の論所に堀割があり、鞍部の水を大谷川側へ流している。大谷川から論所へ上がると鞍部を深く掘り下げた様子がよく分かる。
ガマズミ |
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堀割の先はシモコ谷本谷の水源部が上がっている。左岸に踏み跡らしきものがあるがすぐに途切れる。枝が覆う山腹をトラバースして進んだ。枝を掻き分け半分くらい進んだところで北側に遠く送電線と匹見の山根上付近の家屋が見えた。昔の旅人もこの辺りから匹見の村を望んでいたのだろうか。
三坂谷鞍部に近づくと踏み跡が広く、はっきりしてきた。鞍部手前で斜面が崩れて径が消えていたが、崩れたところの上部が鞍部だった。直線で400mほどだが堀割から1時間かかった。
三坂谷鞍部から見える大神ヶ岳は岩峯が見えず樹林で覆われている。北東の山腹は紅く染まり、紅葉の間から杉が抜き出ている。
鞍部まで三坂谷を林道が上がっている。林道は鞍部でUターンして東へ登っているが県境尾根を越える林道はなかったので、おそらく行き止まりだろう。
林道を下った。林道は大神ヶ岳の北の尾根のすぐ下まで通っており、北へ回り込んでいる谷を通って尾根に上がった。山頂手前で鈴の音が聞こえてきた。グループが立岩山へ向かって行くのが見えた。尾根に上がって10分ほどで大神ヶ岳に着いた。山頂に登山者が一人。山々は紅葉で覆われていた。先週歩いた県境尾根も山全体が紅く染まっている。天候が急変し厚い雲に覆われ始めた。今にも降りそうだ。
村里の人はこの山を「ダイジンガタキ」と呼んでいた。県境尾根からこの山を見ると、間近に迫る鋭い岩峯が切り立っている。カシミールに付いている5万地形図では北側の1126ピークに大神ヶ岳と印字されている。島根県データベースには山頂が祭祀跡として登録されている。
スギのアーチ橋 |
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早々に下山した。第37回くにびき国体炬火採火之地、潜り岩、平岩を通って杉のアーチ橋を過ぎるとほどなく大神ヶ岳登山口。山頂から30分ほど。駐車場に福岡ナンバーの車が止まっていた。大神ヶ岳は福岡県でも名を知られているようだ。
千両橋と左釣橋林道 |
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釣橋林道入口 |
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三坂谷林道を上がり、真っ暗の三坂八郎トンネルを通って八郎林道に出た。千両橋を渡ると林道釣橋線、この林道を上がってニソウ谷へ降りれば堀割に出る。この付近はスギの大木が多い。林道入口に「特別母樹林 八郎スギ」の看板がある。優良な林木の遺伝子を利用するため、「特別母樹林」として残しているようだ。
先週、県境尾根を歩いてみたが、スギの大木が多いのに驚かされる。冠山から万丈川のヨソウ谷にかけて天然スギのハチロウスギが分布していると言う。吉和では天然スギが特に多く分布している地域を千両山と呼んでいる。千両に値するスギ山として古くから呼ばれていたようで、その地域はヨソウ谷と八郎川の間を指している。
ハチロウスギの歴史は古く、記録によると、奈良の東大寺再建の折には、県境付近のスギが山口県側へ相当量切り出され、その中には、柱にして長さ21.5m、元口径1.7mという巨木が含まれていたという。明治の末期には、切り株の上に大人が大の字になっても、手足の先が外へ出ないような木が、何本もあったと言うことである(「広島県立林業試験場研究報告21号」)。
ハチロウスギは日照不足に強い、花や実をあまりつけない、生長期間が長く持続的に成長するなどの特徴がある。
中本造林株式会社のホームページを見ると1965年(昭和40年)に千両山の造林(単植造林)を始めている。八郎谷周辺でみられる天然スギの「ハチロウスギ」のスギ枝や林床に生えている稚樹を採取して苗木にしていると言う。
冠山の山林は広島県が買ったが、住建産業の山林は千両山で220ヘクタールあるそうだ。
ナメラ谷入口 |
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ナメラ谷上部のゴギ |
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大神ヶ岳登山口から1時間半でタジマ谷入口に着いた。田島橋を渡ると左に八郎川に沿う林道がある。さらに少し進むとタジマ谷に沿う林道とナメラ谷に入る林道に分かれる。間伐作業道田島線の標柱がある。ナメラ谷に沿う林道を上がった。雨が降り出した。林道終点に平成11年建設の堰堤がある。それを越えるとその先にもう一つ堰堤があった。堰堤を越えた下の水溜りに形の良いゴギが数匹いた。堰堤の先は谷が分岐し、左を進んだ。上の細流にもゴギがいた。ナメラ谷はスギの大木が多い。
谷の上部はナメラになっている。雨がひどくなった。この谷にあるという「オバケ杉」は見つからなかった。谷の上部分岐の右にあるのかもしれない。ガスが出たので尾根に上がり千両山まで登って方角を確かめた。山頂から北東の尾根を進み、植林帯と雑木林の境を進んでスギ林の尾根を降りた。山頂から1時間ほどで判城上橋の上部の林道へ出た。林道に出ると青空が覗いていた。20分ほどで判城橋へ帰着した。
判城橋近くの墓 |
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判城橋から488号線を100mほど上がって墓所に寄ってみた。墓は杉の大木の下に五基並んでいる。一番大きな墓石には「荘室妙巌信士」「寛政三亥年」とある。214年前の1791年の墓だ。他の墓にも寛政の字が読める。こうしてながめてみると、旅人の墓と言うより、この辺りに居を構えていた木地師あたりの墓のように思える。
この辺りからは押ヶ峠を通って良材の多い細見谷に近い。吉和の木地師はロクロ谷を通って細見谷へ入っている。
御境を越えて匹見に入ると谷筋に木地師の墓やタタラ遺跡が多く残っている。島根県遺跡データベースに詳しい。
釣橋林道入口 |
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下線路の稜線から万丈川を望む |
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タジマ林道付近 |
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オオナルコユリ |
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カシミールデータ
総沿面距離15.3km
標高差346m
区間沿面距離
判城橋
↓ 3.0km
堀割
↓ 0.4km
三坂谷鞍部
↓ 1.5km
大神ヶ岳
↓ 0.8km
大神ヶ岳登山口
↓ 5.1km
ナメラ谷
↓ 2.0km
千両山
↓ 2.5km
判城橋
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