6:25出発 晴れ 気温25度
8:15田代橋
8:35イキイシ谷
11:20アカゴウ出合
11:55ナガオ谷
13:00登山道
13:15夏焼峠
13:50牛小屋
シラヒゲソウ |
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広島山岳会の小屋の南側に、昭和24年に建てられた川本老介の碑がある。碑は恐羅漢山へ向けて立てられている。
「川本氏は広島県におけるスキー先覚者として、スキーの普及向上に絶大なる貢献をした。スキー発展の功労者として、川本氏の功績を称えて広島県山岳スキー連盟が広島県スキー発祥の地にこの碑を建てた」(「とごうち石の文化」戸河内町教育委員会・郷土歴史研究会、編集・発行)。
広島山岳会ホームページの歩みに川本老介の名がある。
1933年1月 吾妻山スキー講習会(文部省 出口林次郎、湯澤県知事、川本老介ほか)。
1933年6月 細見渓谷探査(第2登)第1登はS3年頃、川本老介氏等による。
1934年1月 戸河内〜内黒〜古屋敷〜十方山スキーツアー 川本老介、叶雄二郎。
牛小屋谷を下った。牛小屋高原は放牧場だった。「牛小屋高原は引揚者の方々が開拓に入って、和牛の放牧をしとりました」(「ブナの森」HP、田中幾太郎)。
私がはじめて奥山へ入ったのは、牛小屋谷だった。もう30年以上前になるが、当時200円の日地出版の地図を片手に、正月の三段峡を抜け、田代から牛小屋谷を通って、出たところに山小屋があった。今の広島山岳会の小屋なのだろうか。牛小屋谷の途中で思わぬ大雪になり、混雑していた山小屋で温かいうどんを食べた記憶がある。恐羅漢山へ登るつもりだったようだが、あきらめて帰る途中、道に迷い十文字峠付近の無人小屋で一泊し、樽床ダムを経由して、三段峡を帰った。
電気柵の説明 |
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この30年余りの間に、牛小屋谷の道は崩れ、橋は落ち、道標も壊れてしまった。
牛小屋高原のキャンプ場は電気柵で囲まれている。入口の門を開けて入り、アスファルトの道を下ると出口の電気柵がある所へ出る。電気柵は夜間だけ電気が通っているようだ。道は牛小屋谷を渡って左岸を降り、少し登ってゴロエノ谷を渡る。途中、堰堤上部へ寄ってみた。堰堤の池は牛小屋谷やニガセン谷、ゴロエノ谷の水を集めているが、少し澱んでいる。池の向こうに恐羅漢山が正面に見える。引き返して牛小屋谷左岸へ降りた。
堰堤付近に残る石垣 |
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牛小屋集落は堰堤上部付近にあったようだ。道沿いに、水田跡なのか古い石垣が残っている。「オオキビレを越している径は、牛小屋の農家の子どもの通学路であったが、今は通る人もない。牛小屋には四軒の農家があった。1700年代は牛木屋の字が使われていた」(「西中国山地」桑原良敏)。
牛小屋谷の古い道標 |
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堰堤下部から牛小屋谷を少し下ると古い朽ちた道標が残っている。そこから谷へ下る踏み跡があり、「ヤマボウシ」の説明板の先に使われていない木の橋が架かっている。橋はササで覆われていた。
牛小屋の子どもたちはこの橋を渡ってオオキビレを越え、横川小学校へ通っていたのかもしれない。
左岸に沿って石垣のある道が続く。木に名札が付けてあり、キャンプ場の散策道になっているようだ。マンサク、イヌブナ、ウリハダカエデ、ナツツバキ、ミズナラ、ホオノキ、エゴノキ、コハウチワカエデ、コシアブラ、ハウチワカエデ、タムシバ、サワグルミ……と道が右岸に渡るまで続いている。
丹念に組まれた石垣は生活道として作られたものだろう。途中、断層の説明板があった。牛小屋谷は餅ノ木断層の延長上にあるようだ。
「西中国山地の気候」 |
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右岸へ渡る橋があったようだが、両岸に石垣とコンクリートの基礎が残っているだけだった。
右岸に渡ると「西中国山地の気候」と題した朽ちた説明板が残っている。スギ林を下って行くと、少し道が消失している所があるが、道は右岸に続いている。牛小屋を示す古い道標が二ヶ所ある。
スギ林の中に石垣が現れると集落跡だ。現在、田代橋の北にあった集落を田代と呼んでいるが、田代橋の南側、牛小屋谷右岸の集落は添郷(添川、添河)と呼ばれていた。
「『国郡書出帳・戸河内村』に、小字名のついた集落として柴木、横川、古屋敷、田代、添郷、小板……と書き出してある。また奥山の蕨山として添川山があげられている。『戸河内森原家手鑑帳』の隣村道程の項に、田代の対岸、呼岩峠を降りた所にあったことが記されいる。田代には、かつて添郷屋という屋号の家があり、牛小屋谷をソエゴウ谷と呼んでいたことが判明した」(「西中国山地」)。
戸河内に「〜郷」の地名が幾つかある。古い地名も含めると、上本郷、下本郷、吉和郷、田吹郷、飛郷など。郷は地方行政区画の末端の単位で、少なくとも五十戸の集落を郷と呼んでいた(「西中国山地」)。添郷は末端の単位としての郷ではないようだ。
また西八幡村枝郷樽床、戸河内村枝郷横川(『国郡志御用に付下調べ書出帳』1819年)のように、村の中の小集落を枝郷〜と呼んでいた。
カシミールでは添郷、添河の地名はないが、添川は東北に多い。横川は広島市の横川出身、津島弥五郎が開拓したことから地名になっているが、添郷という地がどこかにあったのかもしれない。
奥山の蕨山の添川山は砥石川山のことだろうか、それとも中山ことか。砥石川山は昔は長石山と呼ばれていた。広島県統計年鑑によると、昭和29年は砥石山、昭和48年に砥石郷山に変遷している。砥石川山の点名は砥石山になっている。
ミヤマカラスアゲハ |
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コガタツバメエダシャク |
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カラスアゲハ |
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砥石川山分岐
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田代橋の銘板 |
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しばらくスギ林の石垣を下ると、牛小屋谷に架かる赤い鉄の橋に出る。砥石川山への分岐を通って田代橋に出た。田代橋は1992年竣工しているが、それまでは小さな橋だった記憶がある。田代集落跡の石垣に沿って上がると、林道は餅ノ木へU字にカーブするが、柵を越えて田代川左岸を進む。三段峡漁協の錆びた看板がある。林道終点がイキイシ谷入口。イキイシ谷を渡るとすぐに道が分岐する。上へ行く道は中ノ甲林道の笹小屋へ抜ける道のようだ。
クモ渕上部 |
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左岸沿いを進むとクモ渕手前で分岐する。クモ渕へ降りてみた。雨後は溢れんばかりの水流だが、今日は穏やかな流れだった。戻って左岸を巻いた。滑りやすいところはロープが渡してある。クモ渕上部に出ると「キャッチ&リリース」の看板がある。クモ渕上部のゴルジュを関門という。
3mの滝の過ぎると、谷が波を打ったようになっている。松尾の奇岩という。そこからしばらくして右岸が大規模に崩落していた。崩落した大岩を倒木につかまりながら乗り越す。
しばらく穏やかな谷が続き、小滝を越す。サワグルミの大木の下に実がたくさん落ちていた。雲岩を過ぎると畳ケ平。段々になった岩の廊下が続く。「西中国山地」では向山と最早山の間の鞍部を畳ケ平(タタミガナル)と呼んでいる。
「ナル・ナルイ」は平坦地を意味しているが、どちらのタタミガナルも平坦地にある。向山の畳ケ平は板ヶ谷の呼称、奥三段峡の谷の呼称は案内の村人が呼んでいた(「西中国山地」)。畳ケ平、畳ヶ平、たたみがなるという呼称はこの付近しかなく、カシミール地名検索にも、「西中国山地」にも外に見当たらない。
次は蛇渕、細長い渕になっており、右岸に踏み跡がある。渕の奥に8m滝。次はモヂキゴウラだが、段々の滝のことなのか、その先の砥石川山から落ちる谷のことなのかよく分からない。鉄のハシゴが谷に転がっていた。
しばらく歩くと出合谷。笹小屋から緩やかな流れが落ちている。ここから幾つかゴルジュを抜けると、最後のお岩渕。左岸に巻き道があるが、左岸谷沿いにへつりが可能だ。お岩渕を越えると、その先は堰堤である。ホオノキの大葉の下で休憩した。2時間半ほどで奥三段峡を抜けた。
「奥三段峡の呼称はおそらく熊南峰氏が命名したものだろう。大正十五年に彼が発行した『三段峡案内』には峡中にくも渕、松尾、蛇渕、お岩渕の名が見える。横川出会から赤川出合までを奥三段峡としていたが、戦後横川出会と田代の間に林道ができたので、現在では田代から赤川出合の間の三キロの峡谷を呼んでいる」(「西中国山地」)。
お岩が身投げした所がお岩渕だが、戸河内の民話「お岩淵」にその由来が詳しい。民話が残る赤川出会付近は、昔からタタラなどで人の出入りが多かった所のようだ。
「中之甲の集落は昭和二十年代までは、帝国製鉄の炭焼労務者の居住地で、小学校の分教場まであった。…中之甲には寛保二年(1742年)より寛延三年(1750年)まで、鈩が置かれていた」(「西中国山地」)。
オオカギバ |
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奈良県にモジキ谷がある。「甘藷岳山荘」のホームページによると、「モジキ谷」の由来は「もじける」=へそを曲げてることから転じて、支沢が入り組んでいることを意味しているという。「ごうら」は石がごろごろしている所(「西中国山地」)、「もぢきごうら」は支沢があるゴーロ帯という意味だろうか。この付近に砥石川山から枝谷が降りている。カシミールで「もじき」を検索すると、茂知木(山口県)、曲木(香川県)がある。
奥三段峡は危険な所もないので、増水してなければ通過できる。
堰堤に上がると川は土砂で溜まっている。左から中ノ川が、右から赤川が流入している。赤川谷の左岸を通って、赤川出合の橋に出た。
中ノ甲林道をしばらく上がり、中ノ川へ下りてナガオ谷を上がった。入口こそ大岩が連続するが、分岐を過ぎると小さな流れになる。数メートルの小滝を過ぎるとまもなく水源帯に入り、1028標高の東を通って尾根を登った。ブナの大きな木が一本あった。ほどなく夏焼峠から降りる登山道に出た。そこから15分ほどで夏焼峠。
石の道標 |
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夏焼峠から10分ほど下ると、石に「石→」と書かれた道標がある。前から気になっていたが、踏み跡を降りてみた。砥石を取っていた採石場が残っているのではと思っていたのだが、踏み跡はトイシ川で消えていた。
「砥石に使える石を初期には川の転石から見つけていたので、ナツヤケの谷を砥石川と呼んでいた。後期には砥石になるよい石を川の転石から見るけることが困難になったので、山を切りくずして採石していた。その場所は現在も横川の共有地として残してある」(「西中国山地」)。
ナメラダイモンジソウ |
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デワノタツナミソウ |
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キバナアキギリ |
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シラネセンキュウ |
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カシミールデータ
総沿面距離11.0km
標高差432m
オクモミジハグマ |
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区間沿面距離
牛小屋
↓ 3.7km
田代
↓ 0.7km
イキイシ谷
↓ 2.6km
赤川出合
↓ 1.0km
ナガオ谷
↓ 1.7km
夏焼峠
↓ 1.3km
牛小屋
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