6:20出発 晴れ 気温7度
7:15トリゴエキビレ
7:55イデガサコ鞍部
立岩ダムの北に立岩断層によってできた押ヶ垰のケルンバット(断層丘陵)の断層地形があり、1960年3月に国の天然記念物として指定された。立岩ダムから那須集落にかけて、断層線に沿って6つのケルンバットが確認されている。この断層線は北東の板ヶ谷断層へ延びており、延長20kmに及ぶものである。板ヶ谷の先の虫木峠から見ると、断層線の正面に市間山が位置している。立岩断層は那須からトリゴエ谷、ツリンボウノ谷、コゴヤ谷、カナヤマ谷、押ヶ垰を通って立岩の二の原付近まで続いている。
モンシロチョウ |
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オニタビラコ |
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那須小学校跡にある那須地区略図を見ると、「戸河内郷土誌考」にある木地師と同じ姓が残っている。小学校跡は現在、ギャラリーになっている。学校の板壁に後援会やコンサートのポスターが張ってある。断層線に沿って歩いてみた。打梨那須線を下った。集落には昨年は無かった電気柵が設置してある。クマの出没が多くなったのだろう。途中の畑に葉が大きいカキノキがあった。スギ林が開けると、797.5ピークが見える。ほどなく右手にトリゴエ谷の入口。谷の入口は涸れている。谷の両側に石垣がある。水田跡だろう。スギ林を少し登ると、水がチョロチョロと流れてきた。右岸に踏み跡が現れたので道を登った。測量のピンクのテープが続く。
鳥越キビレ |
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サツキ |
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踏み跡は左岸に渡り急な左の分岐を超えると、ほどなく鳥越キビレ。公社造林の朽ちた看板が落ちていた。看板には「正平谷」造林とある。キビレの東にある797.5ピークが最初のケルンバット。ピークへ踏み跡がある。鳥越キビレを少し下ると、1m先の茂みからヤマドリが突然飛び立った。まもなくヒヨコのようなヤマドリの子が八方へ一目散に駆け出した。追いかけたが逃げ足が早い。カメラを構える時間もなかった。五、六羽は居たか。親鳥の元へ帰れると良いが。山道を進むと、イデガ谷上部を渡ってイデガサコの鞍部に出た。
「イデガサコ」の地名は先週、坂根のS氏から聞いたもので、「西中国山地」にはない。イデガ谷の上部辺りのことをイデガサコと言う。
「西中国山地の山域に特有な地形方言として、タキ、リュウズ、クビレ・キビレ、ツジ、サコ・サク、エキ・エゴ、タオをあげることができる。エキ、エゴとサク、サコはいずれも凹状地形を表わす語で、広い意味で谷に包括される地形方言である」(「西中国山地」桑原良敏)。
8:00ツリンボウノ谷分岐
9:55 Bの西側鞍部
10:30白井谷分岐
10:50 669ピーク西鞍部
11:10押ヶ垰手前の鞍部
11:15押ヶ垰集落
イデガサコ鞍部の
境界石 |
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ツリンボウ分岐 |

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イデガサコの鞍部には境界石があった。片面は田尾と読める。もう片面は山としか分からない。鞍部を下るとツリンボウノ谷へ出る。分岐には境界石があるが、古くて読めない。やはり山の字がある。水田跡を下ると、炭焼き跡の石積が残っていた。二番目のケルンバット、658ピークの西の谷を通ってツリンボウノ谷を渡ると、まもなく坂根上部の林道へ出た。林道を上がると、畑にはカキノキが多い。カキノキは葉も大きいが芽を出し始めた花も大きい。実も大きいのだろうか。坂根谷上部の岩壁が見える。
古い墓を見ると、大正15年に82歳で亡くなっている。1845年生まれで江戸の時代から坂根で暮らしてきたことになる。昭和20年23歳で戦死の方もあった。
上部の堰堤手前に復旧記念の石碑がある。振り返ると市間山が正面にあった。坂根谷右岸を下るとコゴヤ谷へ出る。谷へ入ると早速ヘビの出迎え。黒いホースがあるので、水を引いているようだ。鞍部手前で踏み跡が左岸から右岸へ渡っている。坂根谷上部のスギ林から道が通っているようだ。山道を進んだ。道は三番目のケルンバットの西を通り、白井谷の上部へ向かっている。白井谷を横切るところで、谷が崩れ道が消えている。上部からときどき石が落ちてくる。
ミヤマシキミ |
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シラン |
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白井谷を100mほど下り、断層が横切っている辺りの枝谷を登った。左岸に踏み跡があり、石積が残っていた。途中で径が消えたところで右岸に渡り、スギ林のゴーロの中を鞍部へ登った。踏み跡が少し残っている。四番目のケルンバット669ピーク西の鞍部に出ると、西からの径があったので、白井谷の崩れた先に道が続いていたようだ。
鞍部の先はカナヤマ谷の右岸に径が続いている。小谷を回りこんで押ヶ垰手前の、五番目のケルンバット西の鞍部に出た。そこを下るとすぐに押ヶ垰集落の上部に出る。
押ヶ垰は戸河内観光協会HPでは「おしがとう」、国土地理院の2万5千地形図では「おしがたお」になっている。また押ヶ垰、押ケ垰、押が峠、押ヶ峠と書き方もいろいろある。
タニギキョウ |
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「タオ・タワ・トオ・トウは峠。西中国ではタオの用例が最も多い」(「西中国山地」)。
カシミールの地名検索で調べると、垰が含まれる地名は広島県と山口県がほとんどである。両県で約30ほどある。垰は広島、山口の地形方言のようだ。「西中国山地」で垰の地名がでてくるのは押ヶ垰ただ一つだけのようだ。
押ヶ垰断層帯を歩いてみると、意外に断層を横切って、那須から押ヶ垰へ抜ける山道があることが分かった。木地師は横川峠辺りから俯瞰して、断層に沿う鞍部の凹地を知っていたのかもしれない。木地師の行動範囲は広い。木地の先山師、戸河内横川の藤田半四郎はボーギノキビレを越えて広見へ入っている。吉和の木地師はロクロ谷から細見谷へ入っているようだ。那須の木地師はどの辺りの山へ入ったのだろうか。瀬戸滝の奥にキジヤ原があるが、那須からその辺りまで入っていたのかもしれない。
アヤメ |
キショウブ |
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12:05清水集落
13:40那須分岐
14:35那須集落
キンランソウ |
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ハタケニラ |
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押ヶ垰集落の上から日の平山、立岩山が見える。畑にはカキノキがある。葉と花が大きく、坂根のカキノキと同じだ。古い墓を見ると大正13年94歳で亡くなっている。県道にある広電バス時代の古い車庫の横を通って下へ降りると神社に出る。河内神社という。戸河内の民話に「光る石」があるが、光る石を祭ったのが神社の始まりという。400年前に建てられたという宝篋印塔(ほうきょういんとう)は見当たらなかった。ワサビ田を下った。石垣が下へ続いている。ダムができる前は太田川沿いに水田があったようだ。川沿いの林道へ出た。林道に沿って川を下ると清水橋に出る。サイレンが鳴った。ダムから放水するようだ。
まもなく清水集落。住んでいるのは一軒だけのようだ。洗濯物が干してあった。畑を覗いて見るとカキノキがある。
清水はセイズイと読む。愛媛県にセイズイがあるが、関係があるのだろうか。市間山はセイズイ山と呼ばれていた(「戸河内森原家手鑑帳」1715年)。
太田川はところどころ淀んで茶色に濁っていた。右岸の道を下った。平坦地には水田跡の石垣がある。坂根集落手前の橋に出た。橋名はないが、打梨橋だろう。県道沿いの坂根集落もカキノキが多い。集落前の涸れた太田川に巨岩が転がっている。ところどころ川沿いに、植えたものでないカキノキがある。小さな花芽がたくさん付いたカキノキがあった。集落で見たカキとは別の種類のようだ。那須分岐手前の集落で八十を越えたと思われるお婆さんが畑仕事をしていたので聞いた見ると、植えているカキは渋柿で、干し柿にし、祇園坊もあるという。墓を見ると明治40年建立とあった。裏の字は読めなかったが、一番古い墓のようだ。この辺りは鈴政姓が多い。
コナスビ |
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カキドオシ |
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那須分岐から太田川上流を見ると、草が生えて小川のように見える。那須川を上がった。昨年の台風で歯が抜けたように、スギ林がスッポリ崩れたところがある。その先に那須の滝がある。この道は町道打梨那須線という。さらに上に林間から滝が見えた。那須集落に入って、畑仕事をしていた若いおばさんに聞いてみた。カキノキは祇園坊で干し柿にしているという。しかし最近はクマが荒らすので余り作ってないが、今年から電気柵を取り付けたので、また作るかもしれないと。
那須、打梨、坂根、押ヶ垰は昔から祇園坊柿を栽培していたようだ。秋にはどの家の軒先にも柿が吊るしてあったのだろう。水田のあったツリンボウノ谷周辺にもカキノキがあったと思われる。那須の木地師は押ヶ垰断層に沿う山道を通って立岩へ抜けていたのかもしれない。滋賀県では吊るし柿のことをツリンボと言う。滋賀の木地師がツリンボウノ谷を行き来していたように思われる。
押ヶ垰集落 |

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カシミールデータ
総沿面距離10.7km
標高差294m
タチシオデ |
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区間沿面距離
那須集落
↓ 1.2km
鳥越キビレ
↓ 0.4km
イデガサコ
↓ 1.0km
坂根
↓ 2.1km
押ヶ垰
↓ 0.9km
清水
↓ 2.8km
那須分岐
↓ 2.3km
那須集落
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