6:55出発 晴れ 気温5度
7:45中之甲
8:05出会原
ノイバラ |
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キクバヤマボクチ |

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久しぶりに通行止め解除の恐羅漢公園線から入った。出発の準備をしていると、マイクロバスが牛小屋駐車場へ止まった。7、8名のパーティが一団となって、まだ薄暗い山毛欅乃木小屋の横を通って、恐羅漢山へ登って行った。
夏焼峠から砥石川山の分岐を経て中之甲へ出た。中之甲への径には古いクマの糞があった。中ノ川に沿う林道を下った。広い川原が現れると、出会原付近、奥三段峡終点の堰堤が見えた。ほどなくアカゴウ谷を渡る橋に到着。田代から赤川出会の間の三キロの峡谷を奥三段峡と呼んでいる。
「中之甲の集落は現在、無人である。昭和二十年代までは、帝国製鉄の炭焼労務者の居住地で、小学校の分教場まであった」(「西中国山地」桑原良敏)。
11:20鞍部
ツルリンドウ |

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林道がU字にカーブする所から振り返ると砥石川山が見えた。そこから谷へ降りる踏み跡があった。対岸に赤テープが一つあったが、ササが茂っている。岩伝いに谷を登った。緩やかな岩の廊下が続いた。岩は鉄分が沈着して赤褐色になっている。赤川谷の名はそこからきている。
「『国郡志御用につき下しらべ書出帳・戸河内村』(1819年)には赤川と書かれている。アカゴウと読むものと思われる。赤褐色の川床になっている川を眺めていると赤川と書くのが正しく、赤郷は当て字であるとおもわれてくる」(「西中国山地」)。
赤褐色のアカゴウ谷 |

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アカゴウ谷は奥三段峡をコンパクトにしたような谷だ。しばらく心地よい谷歩きが続いたが、川幅が狭くなって流れが緩やかになると五本寺原。川は蛇行して高低差が余りなく、湿地帯のような所だ。両側はササとイガがあり、小川のような谷を歩くしかない。仕方なく水に入ったが、さすがに冷たい。五本寺原は長靴が良いだろう。砂地に最近通った足跡が残っていた。鞍部に近くになって、やっと長い湿地帯から抜け出ることができた。小さな谷に3時間余りかかった。三角点のある1011峯手前の鞍部に出た。
野田原の頭の北尾根にある988峯あたりの縦走路へ出て、五本寺原を避ける手もある。
「赤川谷の奥の湿地帯の樹林が、皆伐されたのは淋しい。現在はだだっ広いササ原に変わりつつある」(「西中国山地」)。
12:00高岳
13:25比尻山
鞍部から高岳を目指した。まもなく1011峯付近に出た。1011峯の三角点は、登山道から少し入ったところにあるようだ。分水嶺の標示板がある尾根から野田原の方へ踏み跡があった。天杉山から高岳、比尻山へ周回できそうな径だ。右の林間から見える樽床貯水池を眺めながらアップダウンを繰り返し、鞍部から40分ほどで高岳に到着。二人の登山者がいた。すばらしい展望を眺めていると、続々と登山者がやってきた。樽床貯水池を隔てて、苅尾山、深入山が間近に見える。久しぶりの頂上での展望を満喫できた。苅尾山の左手前はハコビ山。
「『樽床誌』によると、かの草山(1670年)→かやの獄山(1822年)→獄山→高獄山→高岳と変わってきた」「(ハコビ山は)昭和十七年陸軍が八幡演習場設置のとき頂上の樹林を切り倒して眺望をよくして、砲弾が大佐山などに落ちる状況を手旗信号で知らせた」(「西中国山地」)。
写真を撮って比尻山へ向かった。アカゴウ谷から登って来た鞍部を過ぎて、しばらくして、「西中国山地クマ研究会」の標示板があった。1時間余りで比尻山に到着。こちらの山は人気がないのか寂しい。展望の良い高岳が好まれるのだろう。
「現在呼ばれているヒジリ山のヒジリは、最初は谷の呼称だったようだ。明治になって漢字化され比尻が地籍名として名づけられた。比尻山→聖山への改字は村民のあずかり知らない所でなされたという感を深くした。一つの山、一つの谷の名は、そこに住む人達の生活の歴史が刻まれており、第三者が勝手に変えることのできない程重いものである」(「西中国山地」)。
13:50十文字峠
狼岩山探索
14:45十文字峠
十文字峠 |

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十文字峠近くまで降りるとアカマツが多い。峠は四差路になっていた。北側は聖湖へ降りる道、南側は台所原、イキイシ谷、狼岩山方面の道に分かれていた。樽床から十文字峠の林道は昭和十四年に完成した。イキイシ谷、狼岩山方面は「森林施業用の道のため立入禁止(戸河内町)」になって鎖止めになっている。時間がなかったが、狼岩山を探してみた。狼岩山方向のスギの林道を歩き、尾根の踏み跡を登って見たが、三角点がなかったので間違えたようだ。調べてみると一つ手前の1006峯へ登ったようだ。狼岩山は少し先にあった。林道を回るより、十文字峠からイキイシ谷の源流を詰めた方がよかった。
「狼岩山の山名は『樽床誌』に記されている。二つに裂けた岩があり、狼が住んでいた伝承による」(「西中国山地」)。隣町の加計の空谷地区には、絶滅したと言われるニホンオオカミの130年ほど前の頭骨が残っている。狼がこの辺りを闊歩した時代があったのは間違いないだろう。
15:30田代出会
17:15牛小屋
アセビ
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イタヤカエデ |

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十文字峠へ引き返した。イキイシ谷へ降りる林道を下った。しばらく下ると、林道は橋の手前で分岐していた。中之甲林道の笹小屋へ上がる道だろうか。橋を渡って谷を下った。林道はイキイシ谷の真中あたりまで通じていた。林道終点から谷径にはいると、すぐに分岐し、山をトラバースする径に分かれる。谷径へ下った。径はところどころ崩れて消失している。途中に炭焼き釜の石積が残っていた。田代集落の人々が使っていたものだろうか。45分ほどで田代川に出た。そこは林道終点になっている。田代出会から奥三段峡入り口の蜘蛛淵が見える。20年ほど前、奥三段峡を釣り上がったことがあるが、一匹も釣れなかった。
「イキイシ谷から田代へ出る小径はヨビヤ峠と内黒峠を越えて戸河内本郷へ通じる藩政時代の主要な道」(「西中国山地」)だった。
「田代には、かつて添郷屋という家があり、古くは牛小屋谷をソエゴウ谷と呼んでいた。オオキビレを越している径は、牛小屋の農家の子供の通学路であったが、今は通る人もない。牛小屋には四軒の農家があった。」(「西中国山地」)。
牛小屋谷 断層の説明板 |

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漁協の看板 |
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アキノキリンソウ |

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クマの爪痕 |
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電気柵の説明 |

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林道を上がった。三段峡漁協の錆びた看板に、年鑑札2500円とあった。この辺りから牛小屋谷の入口にかけて、田代集落だった石積が多く残っている。赤い鉄の田代橋を渡った。砥石川山への分岐を過ぎ、牛小屋谷に架かる鉄の橋を渡ると、径は田代集落跡を通って牛小屋谷を登る。途中、クマの新しい糞があった。牛小屋谷の径はところどころ崩落していた。30年ほど前の正月、三段峡を通り抜けて、牛小屋谷を上がったことがあるが、そのころから谷径は整備されていないのだろう。堰堤を越えて牛小屋キャンプ場に着くと、もう薄暗くなっていた。キャンプ場手前のクリの木にクマ棚が残っていた。爪痕もあった。キャンプ場入口にはクマ除けの電気柵があったが、この辺りはクマの生活域にちがいない。
電気柵 |

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