山歩き  ロクロ谷

細見谷…ロクロ谷…ヒノ谷 2004/6/24
立野…オオリュウズ…ロクロ谷… ヒノ谷…立野

■ロクロ谷 広島県吉和

ロクロ谷落ち口付近

細見谷 ロクロ谷付近から

 ロクロ谷

  

 

 

 

 

  

へ上がる地点

お関の墓

沼ノ原・ヒノ谷分岐 
下は今年4月4日の同じ地点

6:10出発 曇り後雨 16℃

 十方林道の祠から1キロほど下るとロクロ谷がある。ロクロといえば陶器を作るときに使う回転盤のことだろう。何故、この谷は「ロクロ」なのだろう。以前から気になっていた。

 「木地屋とよばれている集団は滋賀県愛知郡小椋から出て全国の山地に分散居住し轆轤(ろくろ)を使って椀や盆を作っていたとされている。細見谷には中流部に<ロクロ谷>があり木地屋が入っていたのは事実らしい」(「西中国山地」桑原良敏)。
 
廿日市の木地屋
廿日市木地屋の初見は寛文年間(1661〜1672)の廿日市町絵図にみられ、全国の木地屋支配をしていた蛭谷の氏子駈帳をみていくと、延宝7年(1679)に3名で稼業していた木地屋の名前がみられる。これら以外に西中国山地の吉和村(廿日市市吉和)で挽造活動をしていた木地屋の一部が、廿日市に移住して町木地屋となって廿日市の木工細工隆盛の源流となったものと思われるのである。吉和村から移住した木地屋の菩提寺である洞雲寺には5基の墓碑が残されており、過去帳や位牌などにもこれらの木地屋の名をみることができる。(「いにしえのロマンの郷はつかいち」)

那須の木地師
旧木地師集落は東北地方から九州にかけて殆んど全国の山村に分布し、約千五百ヶ所に及び、その多くは深山幽谷にある。木地師達が用いる素材は、トチ・ブナ・ホウ・ケヤキ・クリ・ミズメ等である。これらはほぼ日本各地の標高7、8百m以上の山地に自生する。

那須の古老達の談によれば、その起源は江戸時代の末期頃に佐伯郡の水内(みのち)の方から来たらしいとの事である。規模は不明であるが、文政二年(1819年)の『国郡志御用に付下調べ書出帳』―山縣郡戸河内村―に
「重立(おもだち)候産業の一項に木地挽家数千七百九軒の内木地屋二軒惣人数四千六百八十一人の内木地屋二人、右掛り人七人」の記載があり、村内であるが作業地やその期間は不詳である。(「戸河内郷土誌考」戸河内町)

 "ロクロ谷"ろくろ谷"轆轤谷"ロクロダニ"などで検索すると数多くヒットする。木地師が全国で活躍した時代を物語っている。(木地師に由来すると思われる地名 六郎谷、六呂山、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路、雉谷、木地谷など) 近辺では広島県三次市の轆轤谷、鳥取県郡家町の六郎谷、島根県仁多町の木地谷などがある。

 ロクロ谷はいままで通り過ぎるだけだったが、今日はかつて木地屋が通ったロクロ谷を遡上してみよう。

キャンプ場水場

カーブミラー

7:15下山林道終点手前
 キャンプ場から10分ほどで林道にドラム缶が一つ転がっている。10年ほど前、ドラム缶二つが縦につながり、奥にエサを置いてクマが入ると入口が閉まる仕掛けになっていた。吉和のクマ研究所が設置したものだが、もう一つのドラム缶は谷へ落ちたのだろうか。立野から20分ほどで林道が右へ曲がる地点にカーブミラーがある。そこから谷へ降りると一ノ谷へ出る。
 1時間ほどで林道終点手前の大岩のある地点へ。そこからクロダキ谷へ降り少し下って溪を渡り、尾根の踏み跡を登り黒ダキ尾根を越え、イカダ滝上部をトラバースするとジグザク径に出る。そこを降りるとホトケ谷。ところどころ釣り人のテープが残っているので迷うことはないだろう。
8:05ホトケ谷
10:25ロクロ谷入口
 ホトケ谷落ち口で休憩し、150mほど先のV字滝、オオリュウズで写真を撮る。今日はロクロ谷がメインなので先を急いだ。ロクロ谷入口に到着すると雨がポツリと降り出した。

12:30峠
 ロクロ谷付近の標高が710m、ロクロ谷から峠へ抜ける地点が890m。ロクロ谷から峠手前まで1.6km。ロクロ谷は緩やかな谷になっている。
 しかしロクロ谷に入ると傾斜は急で、すぐに五つ、六つ滝が連続する。やがて谷は緩やかになり歩き易い溪がつづく。溪の左右だけでなく溪の中まで広葉樹やブナで埋まっている。ロクロ谷全体が自然林の森になっている。大きな樹木が多く、幾百年か木地師たちの往来を見てきたと思われるブナもあった。ロクロ谷は昔のおもかげを残している谷なのかもしれない。
 左側の山が開け、ロクロ谷が西へカーブする手前の地点に着くと、古い目印のテープがぶら下がっている。ここからロクロ谷へ入る人があるようだ。踏み跡を峠に上がると、地図にない新しい林道が通っており、送電線の鉄塔が目の前にあった。峠には新しいピンクの目印もあった。吉和の木地師は石州街道からこの峠を越えたのだろう。林道は沼長トロ山の方向へ伸びている。林道を下って長者原林道へ出た。

おせきの墓裏面

墓の側面

13:10お関の墓
13:30角兵衛の墓
 林道に出ると雨が本格的になった。オセキガ峠のおせきの墓の裏面を見ると「長者原林道開設工事の為 約三米後方に移転す」とあった。この辺りから林道の拡幅・舗装工事が始まっている。角兵衛の墓には墓石が幾つか建てられている。「淨玄童女」と刻まれた墓の側面を見ると「天明三卯天」と読める。天明三年卯の年に亡くなったようだ。

 「墓石には天明五年と刻まれたものが多く、幼女や女性が多い。天明の大飢饉に没した木地屋一族のものか、街道でたおれた旅人たちの墓なのかも知れない」(「西中国山地」) 天明の大飢饉=天明2年(1782)から8年。

 別の墓石には「花芳林月信女」とある。山深い街道の墓にしては気品ある女性の墓のように思える。木地師の墓は山間の住居近くの道のほとりや川べりに残すのが普通だった。角兵衛の墓の近くに木地師の住居があったのかもしれない。

13:50ヒノ谷分岐
 ヒノ谷への降り口へ近づくと、重機がうなり林道工事を行っていた。この4月、沼長トロ山からヒノ谷へ降りた時、写真のような分岐があったのだが、コンクリートで固められ、様変わりしている。工事の人に聞いてみると、7月にこの工事が完了し、予算が決まれば立野まで林道を伸ばす計画だそうだ。ヒノ谷を降りながら、測量のテープを確認してみると半分くらいまで進んでいるようだ。いよいよヒノ谷の径は見納めになるのか。
16:05立野
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角兵衛の墓にある墓石

 「ようやくにして峠の上に立った。(水越峠) そこからしばらく下り、また登るのである。(横川越) あたりは栃、楢、欅などの密林で、道は僅かに足をふみたてるほどのものである」(昭和14年11月30日 宮本常一著作集)
 「細見谷上流部は…昭和二十年代までは、イヌブナ、サワグルミ、トチを主体とした巨木の茂っていた無人境だった」
 「<トチ谷、トチノキ谷、トチ山>この呼称も多い。いうまでもなくトチノキであるが、木地屋は轆轤を廻して盆、椀を作っていたが、その原材料としてもっぱらこの木を使っていた」(「西中国山地」)。

 細見谷の源流にある焼杉山にトチ谷がある。木地師は最も良材とされるトチを求めて、吉和村からロクロ谷を通って細見谷上流や焼杉山辺りを行き来したのだろう。
 吉和から細見谷上流に抜ける幾つかの径がある。立野から細見谷を遡上するか、瀬戸滝からバーのキビレを越えるか、中ノ谷から峠を越えるか。いずれにしてもアプローチが長く険しい。
 女鹿平山上空から細見谷を俯瞰してみると分かりやすい。大町谷や中津谷から入るとすれば、ロクロ谷を通るのが一番近くて楽な径だろう。昔、ロクロ谷に沿って径があったのだろう。

 「沼長トロ山から女鹿平山にかけては、地図を見た限りでは人の入らない交通不便な場所と考えられるが、すぐ西側を石州街道(大町林道)が通っており案外開けている。現在の主川の谷を通る車道は昭和十三年頃できたが、それまでは奥山へ入るにはすべてこの道を利用していた。この付近は昔から木地屋の出入りが特に激しく、原生林と呼ばれる程の樹林も残っておらず明るい高原地帯といった方がよいようだ」(「西中国山地」)

 吉和の木地師は、女鹿平山や沼長トロ山の有用材を択伐し、「広大無辺」の原生林を求めて、何十年、何百年に亘って、石州街道から吉和と細見谷を結ぶロクロ谷を通ったのだろう。いつしか轆轤師が通る谷として村人に定着した。それほど細見谷の森は豊かだったに違いない。

「谷底から尾根まで 大変なブナの森じゃった」 田中幾太郎さん(益田市在住)の話
 わしがはじめて県境の深山(みやま)に入ったのは、昭和29年のことです。広見から、横川越を通って、細見谷へおりて、そして水越峠を越えて二軒小屋へ抜けました。
 あの当時のあの辺りは、そりゃあ本当に深ぁー深ぁーところじゃった。県境の一帯は、谷底から尾根まで大変なブナの森じゃった。西中国山地には、島根県側にも広島県側にも、1950年代まで、よほどの猟師でなけにゃあ、そこへ入る必然性がない、本当の奥山、深山というのがあったんです。今の林道のような格好で、奥山が人の影響を受けるようなことはなかった。ブナやアシオスギ、トチやサワグルミの原生的自然林が広大無辺に残っていた。今の人はそれを知らんけえ、吉和にも戸河内にも本当の奥山はなかったんじゃと言いますが、あったんですよ。(「細見谷と十方林道」森と水と土を考える会等発行)

ロクロ谷入口

手前ロクロ谷から見た細見谷

 

 

 

 

   

 

 

谷を覆う倒木

 

角兵衛の墓

峠から見た沼長トロ山

 

V字滝
オオリュウズ
ロクロ谷
千両山
沼の原 ヒノ谷分岐
 
女鹿平山上空3716mから撮影 カシミール3D(ランドサット衛星画像ETM<2002/5/25>+50mメッシュ 16mm画角93°カメラSTD)

登路(黒線は緯線経線 間隔30秒 WGS84)

カシミール3Dデータ
総沿面距離 15km
標高差 406m

区間沿面距離
立野
(5.3km)
ロクロ谷
(1.7km)

(1.4km)
お関の墓
(1km)
角兵衛の墓
(600m)
ヒノ谷分岐
(5km)
立野