山歩き

裏匹見…488号線…甲佐家跡…ハチガヒラ谷
2019/8/26

裏匹見入口…小河橋…鈴ヶ岳展望所…鈴ヶ嶽の清水…げんか橋…甲佐家跡…ハチガヒラ谷入口…裏匹見

488号線標識
小河橋を渡ると鉄柵で封鎖
鉄塔道の入口
国道に亀裂が入る
鈴ヶ岳が見えてくる
崩れた遊歩道
平田淵へ下りる遊歩道
鈴ヶ岳直下へ下りる遊歩道
鈴ヶ岳
鈴ヶ岳
鈴ヶ岳とカメガダニ
鈴ヶ嶽の清水
苔むした国道
広見川上流を望む
ハチガヒラ谷上流の滝
新山橋上の鉄柵
道沿いにマムシ
島根大林道の北端の峯を望む
広見小学校跡
甲佐家跡石碑
折り返し点
島根大演習林 ハチガヒラ谷
ワル谷付近の釣人
ムササビの食痕
赤谷川
7:20 裏匹見入口 晴れ 気温23.5度
 

7:35 小河橋(小郷橋)
8:25 鈴ヶ岳展望所
9:05 げんか橋
9:25 通行止め柵
9:45 広見小跡
9:50 甲佐家跡
10:20 新山谷上橋
10:35 ハチガヒラ谷
11:25 甲佐家跡
11:50 通行止め柵
13:05 鈴ヶ岳展望所
13:40 裏匹見入口

 
 裏匹見峡入口の駐車場を出発。コナラにドングリが生り、ヤブツバキに大きい実が下がる。道路沿いにブルーベリーの実が生る。一粒含むと甘酸っぱい。赤色の実の中に紫の実がある。「落石のため全面通行止」の標識がある。小郷橋(小河橋)から新山谷橋の間が当分の間通行止めになっている。通行止めになってから長い。
 
 林道赤谷線の入口までくると小河橋(小郷橋)から先は通行止めの鉄柵がある。迂回路として広島県側は191号線、島根県側は307号線が示してある。三坂八朗林道については書かれていない。鉄柵から488号線を進むと鉄塔への標柱がある。この山道は島根大林道を経て488号線に通じている。山道の途中に鉄穴流しの跡が見られる。

ブルーベリー
ヤブツバキ

 国道を進むと、車道が中ほどまでひび割れ谷側へずれていた。ビニールシートが被せてあった。裏匹見峡の亀の胴淵の上の当たりまで進むと、林の間から鈴ヶ岳の岩壁が見えてくる。湿った日陰にクサアジサイが多い。群岩瀬付近に下りる遊歩道が崩れていた。「488益田市匹見町匹見」の標識がある。

 平田淵へ下りる遊歩道の入口まで進む。谷を見下ろすと谷に向かって遊歩道がジグザグに下りているのが見える。眼下に平田淵の上に架かる橋が見える。鈴ヶ岳の真下に下りる遊歩道入口まで進む。その先が展望地になっている。岩壁の間を樹林が覆う。眼下に広見川が見える。

クサアジサイ
ミツバウツギ

 展望所から少し進むと、二つ目の展望地がある。岩壁の東側にカメガタニの樹林が見える。そこから少し進むと青路頭の峯が見える。山側にヘクソカズラが咲く。鈴ヶ嶽の清水で一休み。鈴ヶ岳の向かい側の岩盤の間から冷たい水が流れ出ている。車が通らない国道は苔むしている。眼下に白濁した激流が見える。

 赤い実を付けたヤブデマリが多い。林の中に白いヌルデの花が目立つ。オオモミジに緑の翼が下がる。広見川の上流側が開ける。げんか橋を渡る。ゲジガ谷には広見から御境へ上がる山道が通っていた。昔は虫ヶ谷から広見に出て横川や吉和へ抜ける道があった。ゲンカ橋から少し進むと堰堤がある。堰堤の上流はツルヨシが群生している。

ホタルブクロ
ツリフネソウ

 鉢ヶ平橋を渡る。そこから先に大きい滝がある。山側に道らしきものが通っていた。新山橋を渡ると通行止めの鉄柵。山側に石垣がある。しばらく進んで振り返ると島根大林道北端のピークが見える。日向にマムシが2匹出ていた。広見小学校跡を過ぎる。林下にホタルブクロが咲く。火の谷橋を渡ると488号線の折り返し点。甲佐家跡に石碑がある。

 道端にマムシが多い。ウドが咲く。オモ谷に架かる広見石橋を渡る。小屋谷橋、新山谷上橋を渡る。ホオノキの実が落ちている。甲佐家跡から40分ほどで島根大匹見演習林のあるハチガヒラ谷。気温22.5度。ケヤキの小木が伸びている。国道を引き返す。実を下げるキブシが多い。ノリウツギが残る。集落跡にはカラスウリが咲く。

 ツリフネソウが一輪だけあった。ミツバウツギが実を付ける。ワル谷落ち口付近に釣人が釣り上がっていた。大きいスギの木がマタタビの白い葉で覆われていた。国道に落葉が多い。マツボックリのエビフライが落ちていた。リスは生息していないようなのでムササビだろう。ハチガヒラ谷から3時間ほどで裏匹見に帰着。
  

ナツエビネ
ナツエビネ
コナラ
ヘクソカズラ
ヤブデマリ
クサアジサイ
ウド
カラスウリ



地名考

 奈良時代の石見

 「奈良時代には、現在の島根県の西半に石見国が置かれ、現在の益田市域は、ほぼ石見国美濃郡に相当します。当初、美濃郡には現在の鹿足郡も含まれていましたが、承和10(843) 年に分割されました…石見国府は、現在の浜田市に置かれました」

 「元慶5(881)年に、都茂郷丸山で採銅が始まったことが『日本三代実録』にみえます。延長5(927)年成立の「延喜式」には、この都茂鉱山の技術者たちが信仰したと思われる佐毘売山神社(乙子町)がみえ、他に、菅野天財若子 命神社(神社不明)、染羽天石勝命神社(染羽町の染羽天石勝神社)、櫛代賀姫命神社(久城町の櫛代賀姫神社)、小野天大神之多初阿豆委居命神社の4社が記されています」

 「平安時代末に益田の平野部では、益田荘と長野荘という大規模な荘園が成立し、両荘園は、天皇家、摂関家、門跡寺院といった有力な荘園領主の支配下にありました。また、山間部の国衙領・津毛別符、丸毛別符、疋見 別符が成立しました(以上益田市HP)。


 和名類聚抄(931年〜938年・巻八)の美濃郡
 
八郷が書かれている。

 都茂[都毛]
 苓気
 山田[也末太]
 山前[也末佐木]
 大農[於保乃]
 美濃
 小野[乎乃]
 益田[末須太]

 『石見匹見町史』では山田郷の属村として、広瀬、千原、道谷、蔦木、八尾、上道川、下道川、東村、広見河内、三葛、内谷、内石、澄川を挙げている。


 「広見河内」の地名
 『山田郷匹見八幡宮祭神帳』(1651年・慶安4年)

 「附言山田郷内東村、有加江乃川。源芸石広見河内奥、自十方山下流而到干此」(『石見匹見町史』)。


 広見河内村(近世)(『角川日本地名大辞典』)

 江戸期〜明治7年の村名
 石見国美濃郡のうちはじめ幕府領の益田領匹見組,元和5年から江戸期を通じて,浜田藩領のうち匹見組に属す

 村名の由来は山間の所々に広い所があることによるという(八重葎)

 検地は明暦2年・明和元年で,明暦2年の村高は36石余であり,生産高があまりに少ないため,法懸御免につき免税された

 その後村高は「石見国高郷村帳」に33石余,「天保郷帳」では36石余山村で,文政7年には安芸吉和村の組頭が細谷山の杉の木を買入れている
 また枌【そぎ】が天保7年に57貫410匁,安政3年に杉大枌17束・杉小枌835束を藩に献上した

 当地では,禿ノ谷・オウコウ・河崎原で藤井氏によって鈩が行われていた

 天保8年の飢饉には被害が大で,17戸のうち6〜7軒が逃散し,5反歩の田から三斗俵が5俵しかとれなかったという

 広見河内神社があり,この神社および村名については次のような伝承がある「安政元年1匹の鹿が広見部落へ迷い込んできたこれを河崎の部落民が捕えて殺し,肉を分けようとした時,鹿は急に起きあがって走り出したので人々は,鹿を埋葬し社を建て河内神社とした安政2年この話を聞いた藩主が,これまで広見村といっていた村名を広見河内と改称するように命じられた」という(石見匹見町史)

 地内を通る広見街道は途中で分岐し1つは安芸の佐伯郡を経由して芸州の山県郡の二軒小屋へ,1つは五里山の頂上を通って吉和村に向かっていた

 明治7年東村と合併して匹見村となる

 『石見八重葎』(1816年)の広見村

 『石見八重葎』東本郷(疋見)の項に以下の山名がある。
 三葛山 太神ヶ嶽 阿増地山 広見山 十方山 春日山 岩倉山 日晩山 平家嶽…

 東村郷八尾村の項に
 「高山 春日山 昔ヨリ此山ニ登リタル人アルヲ聞カズ 神出ヶ嶽トモ云」とある。

 広見村の項に
 「高山 十方山 魔所と言テ登ル人ナシ 広見山トモ云」とあり、広見川の奥に十方山がある。
 

 広見河内神社は慶安(1648年)以前の勧請

 「広見河内神社の祭神は水分神、保食神、大山祇神の三神で正体は幣である。勧請年月は不詳であるが、慶安以前の勧請と旧記に見えている。社のほとりには俗に鬼釜という岩穴がある。往昔渇水の時、村民が雨をこの岩穴に祈ると忽ち霊験があらたかであったというので、小社を建てて右の神霊を祀ったと伝えている」


 広見から旧羅漢山への山行記録
 『石見物語』(木村晩翠 昭和7年=1932年)

 「棒石の谿門を過ぐれば廣見の部落がある。井戸の底の様な山の中に、僅かの棚田があり四五軒の家が見える…これからは急勾配の登山道となって、改修道路にお別れする。薊、熊笹、山牛蒡などの柴草径を押分け繰押分け、次第に森の闇に踏み入る。右も左も、前も後も樹々木々、何人抱とも知れぬ巨木に、斑牛の肌の様な気味の悪い苔が蒸して、大蛇の様に曲がりくねった枝、狂女の髪の様に乱生した寄生木、そして枝と梢が蜘蛛の巣の様に錯綜し、濶葉樹の天井を作る、樵(ぶな)、楢、栃などの原生木が充ち満ちて、天日の光も漏れぬ常闇の世界なのだ…風蘭や山紫陽花の花が、山の精の様に木下闇に浮いて居る。息づまる様な凄愴な山気の中に、杜鵑と老鶯のみが霊夢の郷から蘇らせて呉れる

 幾度も苔清水に咽喉を潤して、時には胸を衝く様な峻険も攀ぢ、喘ぎ登る事二時間、漸く辿り着いた山の脊梁海抜四千尺の絶巓、眼界は忽ち豁然と開けて、登山者の誰もが味ふ最大の壮快味と、最大の愉悦に思はず万歳を三唱する。見渡す限り雄大なる峰巒の波濤、すぐ後に迫る陰陽の分水嶺を限界として、美濃一帯の連山が鳥瞰される。此の處石見、安藝群山の枢軸を形成し、五六町の尾根傳ひを行けば、廣島、島根の両縣界、一歩を印すれば廣島縣佐伯郡吉和村なのである」

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カシミール3Dデータ

総沿面距離23.6km
標高差433m

区間沿面距離
裏匹見入口
↓ 4.3km
鈴ヶ岳展望所
↓ 4.8km
甲佐家跡
↓ 3.0km
ハチガヒラ谷
↓ 11.5km
裏匹見入口
 

 
紙本著色石見国絵図の広見河内(江戸初期 浜田市)
石見国絵図の広見河内(江戸中期)

(国立国会図書館デジタルコレクション)
 
鈴ヶ岳
鈴ヶ岳
鈴ヶ岳
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)