5:30 柴木 曇り 気温22度
5:45 内黒山登山口
8:05 宮里山道標
8:20 内黒山
8:40 内黒峠
8:50‐9:20 展望所
10:40 二軒小屋
11:40 横川出合
12:10 猿飛
12:40 葭ヶ原
13:50 黒淵
14:55 柴木
駐車場から三段峡入口へ進む。入口手前から柴木林道に入る。林道沿いに電気柵が張られている。10分ほどで内黒山登山口。スギ林の山へ入る。スギ林の中にアカマツが入っている。葉が付いたオオウラジロノキの実が落ちていた。
650m付近まで進むと風が少し出てきた。旧内黒山登山口へ下りる明瞭な山道が降りている。西面は白くガスが覆っている。帽子の鍔から雫が落ちる。センター造林地宮里山の標識まで進む。主尾根に出た所で一休み。宮里山への道標が転がっていた。雪で倒されたものか。
内黒山の道標も倒れていた。刈られた笹の登山道を下る。南面に新しく作業道が入っていた。柴木から3時間ほどで内黒峠。峠から東面に作業道が入っていた。ノリウツギがたくさん咲いている。ノリウツギにアサギマダラが留まっていた。クサギが咲く。展望所へ進み、しばらく休憩。
オオウラジロノキの実 |
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クサギ |
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展望所から砥石川山、聖山が見える。恐羅漢公園線を下る。深入山が見える。緑のヤマブドウの実が生っていた。クマシデが果穂を下げる。サバノ頭の頭だけ見える。ネムノキが咲く。ヒヨドリバナにヒョウモンチョウが群れる。ウバユリが高く伸びる。キブシは数珠玉を下げる。
恐羅漢スキー場が見えてくる。エゴノキがたくさんの実を付ける。ヤマセ谷で一休み。谷に座り、天然のクーラーを浴びる。谷にウバユリが伸びている。藤本新道登山口を過ぎる。展望所から1時間ほどで二軒小屋。ヤブカンゾウ、オオハンゴンソウが咲く。ホオノキが実を付ける。キブシの実が鈴生り。
横川橋手前から旧道に入る。アサ谷から細い滝が落ち、涼しい風が吹き抜ける。横川の郷士津島弥五郎の碑の前を通る。幸橋の手前に動物が見えた。数歩近づくとこちらを振り返り草薮に飛んで入った。まだ子供のイノシシだった。
アサギマダラとノリウツギ |
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ヤマブドウ |
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二軒小屋から1時間ほどで横川出合。工事中の看板があり、10月31日まで歩道をなおす工事を行っている。出合から遊歩道の中央に軌道が敷設してある。ミカン畑にあるようなモノラックと呼ぶものらしい。日曜日で工事はしていないようだったので軌道が通る遊歩道を進む。
遊歩道を通る軌道は出合橋の手前から橋を通り、階段下の遊歩道に設置されている。出合左岸の川原に下りて休憩した。しばらく様子をみたが工事している気配はなかった。遊歩道を進む。軌道は猿飛のピークまで続いていた。軌道の終点に作業小屋があった。
小屋の先の遊歩道が一部崩落していた。崩落部分の崖に足場を組み、補強工事をしているようだった。崩落部分を越えて遊歩道を進む。猿飛渡船場に下り葭ヶ原へ進む。川原で休憩していると小雨が降りだした。
クマシデ |
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ネムノキ |
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ミズナシ川に水流が見える。大淵も水量が多い。橋を二つ渡り、尾根の先端部の直線道を通る。左岸から落ちる滝の前を通ると冷たい谷風が涼しい。鉦が瀬で一休み。仏岩を回って黒淵へ進んでいると上空が爆音で騒々しい。ヘリが行ったり来たりしていた。
黒淵の遊歩道のピークへ上がり、急坂を下っていると、遊歩道を塞ぐように人が倒れていた。数名の方が救護に当たられていた。聞いてみると上の遊歩道から落ちたとのことだった。報道によると1時過ぎの事故だったようだ。
ほどなく峡谷の間にヘリが降下し、黒淵渡船場の対岸に二人の隊員が降下した。対岸のツルヨシが風圧で押され、その中に隊員が降り立った。それから上流へ少し進んで左岸へ渡った。ヘリは広島市消防局のJA05HCの機体記号だった。
遊歩道を進んで行くと車椅子を運ぶ4人の一団が現場へ向かう。しばらくしてストレッチャーを運ぶ4人が向かう。三段峡入口に近づくと女性のお巡りさんが走って現場に向かって行った。
ヒヨドリバナとヒョウモンチョウ |
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ウバユリ |
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エゴノキ |
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ヤブカンゾウ |
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オオハンゴンソウ |
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ホオノキ |
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キブシ |
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イワタバコ |
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■地名考
十方山と旧羅漢山
匹見では1600年代、旧羅漢山を十方山と呼んでいた。
「匹見村では当時十方山と呼ばれていた山が現在の旧羅漢山(匹見羅漢)であることは『山田郷匹見八幡宮祭神帳』(1651年・慶安四年)を見ればはっきりする」(『西中国山地』)。
「附言山田郷内東村、有加江乃川。源芸石広見河内奥、自十方山下流而到干此」(山田郡匹見八幡宮祭神帳『石見匹見町史』)。
広見川は古代には「加江ノ川」(カエノカワ)と呼ばれており、「加江ノ川」の奥に十方山があった。
『石州古図』(石見国絵図) 1818年
道川村・下道川村に春日山・十方山 |
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十方山は魔所
石見の地誌、『石見八重葎』(1816年)の広見村の項に十方山について、
「高山 十方山 魔所と言テ登ル人ナシ 広見山トモ云」とあり、十方山を魔所としている。
同じく、東村郷八尾村の項に
「高山 春日山 昔ヨリ此山ニ登リタル人アルヲ聞カズ 神出ヶ嶽トモ云」とある。
この時代、十方山も春日山も、「魔所」「神出」として登る人が無かった。「神出ヶ嶽」は「カミイデガタケ」と読むのだろう。
恐羅漢山という山名
「恐羅漢山という山名は、広島県戸河内町の呼称である。『戸河内森原家手鑑帳』(1715年)の他村境覚書きにおそらかん山≠ニあるのが初見と思われる」(「西中国山地」桑原良敏)。
『戸河内森原家手鑑帳』には「おそらかん辻」とも書かれている(「西中国山地」)。
その後の古文書では、「おそらかん山」(1738年・『申定鈩山約之事』)、「オソラカン」(1819年『国郡志御用に付き下志らべ書出帳・戸河内村』)、「ヲソラカン」(『芸藩通志』戸河内村絵図)とあり、恐羅漢はいずれも仮名で書かれていた。
「おそらかん」に漢字が当てられたのは、今のところ、『山県地誌略』(1880年=明治13年・三宅彰編)の「尾曾良寒」が最初である。
「山県地誌略」によれば、十方山の西に「尾曾良寒」があり、北に那須の山々、東に立岩山、北に大箒山などを示しており、「尾曾良寒」は恐羅漢山であることが分かる。
「十方山ハ西南隅ニ聳ユル高山ニシテ其派延テ三方ニ分ル。西ニ赴ク者ハ尾曾良寒、赤川ノ二山ナリ。北ニ赴ク者ハ浦折、栂尾、津浪谷、代原、内黒、外黒、西平、東原、畳ケ鳴ノ連山ナリ。東ニ奔ル者ハ押ケ峠、立岩、奥ノ原、鷹巣及猪股、正木、天井ノ諸山ニシテ佐伯ノ境ヲ限レリ。深入、大箒、黒瀧ノ三山ハ北方ニ在リテ奥山ノ疆域ニ綿亘ス」(『山県地誌略』)。
その後、恐羅漢山の三角点が選点され(1895年=明治18年)、点名は「羅漢」となっている。陸軍局測量部の地形図(1888年)の大亀谷山が恐羅漢山に改められたのは1895年以降であると考えられる。
恐羅漢は最初、「おそらかん」と仮名で表されていたが、明治になって「尾曾良寒」の漢字を当て、その後、恐羅漢と表すようになった。
恐羅漢山とそかひ山
「『芸藩通志』(1825年)の戸河内村絵図にヲソラカン山≠ニあり、山林の項の十方山の所に『一に西十方をおそらかん山とよぶ、日本興地図に、石見界に高山そかひ山としるすは、おそらかんのことなるべし』とあるのはよく知られている」(「西中国山地」)。
「日本興地図の他に、1834年(天保5年)に刊行された山崎松居『大日本興地便覧』やそれより三年遅れて出版された地図帳、青生東谿『国郡全図』(1837年・天保8年)にもソカヒ山とある。これらの絵地図からは、『芸藩通志』の編者のように『おそらかんのことなるべし』と言い切ることはとてもできない…目下のところソカヒ山は調べようがなく、幻の山というほかない」(前同)。
『国郡全図』安芸国のソカヒ山
(1837年) |
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1775年の「新刻日本輿地路程全図」(長久保赤水)の日本図には石見と安芸の国境に「ソカイ山」が見え、八幡原の地名も見える。安芸国にある山名は「ソカイ山」だけである。
1768年の『改製扶桑分里図』(長久保赤水)にもソカヒ山があり、1700年代には日本図にソカヒ山が記されていたことになる。
『芸藩通志』(1825年)本文には恐羅漢山をソカヒ山としているが、『芸藩通志』戸河内村絵図にはヲソラカン山はあるがソカヒ山は無い。
その後の1800年代に日本図にはソカヒ山がある。
1874年(明治7年)の『日本地名箋』のヤマガタの項に「背向山」があり、「ソガヒ」とルビを振っている。これまでのところ、「そがひ」が漢字で表された最初の文献である。
『新刻日本輿地路程全図』のソカヒ山
石見と安芸の国境にある
長久保赤水(1775年) |
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『日本地名箋』のソガヒ山
1874年 |
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カシミール3Dデータ
総沿面距離22.6km
標高差753m
区間沿面距離
柴木
↓ 4.9km
内黒峠
↓ 8.3km
横川出合
↓ 2.3km
葭ヶ原
↓ 7.1km
柴木
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