6:45 樽床ダム 晴れ 気温16度
6:50 三ツ滝
7:15 出合滝
7:35 餅ノ木
8:20 三段滝
8:55 猿飛
9:15 横川出合
9:45 田代橋
9:55 添郷
10:45 牛小屋谷堰堤
11:10 牛小屋高原駐車場
11:40 夏焼峠
12:15 中ノ甲林道
12:35 出合原
13:15 出合キビレ
13:40 十文字キビレ
14:10 樽床ダム
樽床ダム右岸の遊歩道を下る。ヤブデマリが多い。三ツ滝の横に出る。滝の正面に回ると四段に落ちている谷が見える。貴船(キビネ)滝の下を通る。細いゴルジュの竜門を急流が下る。ウワバミソウが多い。竜門から下流は水が淀んでいる。ツタウルシが咲く。階段を登り赤い竜門橋を渡る。竜門橋の案内地図に餅ノ木までの間に繰糸滝、出合滝、娘滝の表示がある。
左岸遊歩道を進むと繰糸滝の落ち口が見える。ノイラバの白い咲く。コアジサイはツボミ。萼片が2枚のコツクバネウツギが咲く。右岸へ渡る橋から出合滝が見える。遊歩道から谷側へ出ると岩盤を滑る出合滝が正面に見える。鯉淵を過ぎると右岸に落ちる娘滝がある。
餅ノ木へ出る水場で顔を洗った。餅ノ木の車道に出る。田んぼは田植えを終えたばかりだった。西中国山地国定公園餅ノ木駐車場から谷へ降りる入口に小さいクマ糞があった。まだ新しいものだった。モチノキ谷の橋を渡るとツキノワグマ生息地の看板がある。ミズタビラコが咲く。大正14年の名勝三段峡石柱がある。昭和7年の境界柱もある。
右岸の遊歩道を進む。サワフタギが咲く。ヤグルマソウが大きい葉を伸ばし、花が咲く。小滝の横を通る。谷沿いにキシツツジが多い。猪上がらずの急流の先に右岸から玉緒滝が落ちる。カンコウイワを見上げると岩壁の間が侵食し崩れている。丸淵を回り遊歩道のピークから下ると三段滝に出る。エゴノキの花がたくさん落ちている。
クルマムグラ |
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ノイバラ |
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階段を上がり三段滝の展望所に進む。谷の奥に四つの滝が見える。奥行130mで滝は上流へ後退しているという。鉄骨の上の遊歩道を進む。サワギクが咲く。かじられた痕があるトチノキの実のようなものが落ちていた。横堰を過ぎて分岐を右へ進む。10分ほどで三段峡遊歩道に出ると楓林館跡、昭和初期に横川の住民が営業していたが、昭和33年に解体された。
五郎堰付近は遊歩道が壊れ、足場が組んである。猿飛の坂を登ると、遊歩道が崩れかけ、ビニールシートが覆ってある。二段滝、鵜の子の谷の木の歩道を過ぎると横川出合。階段で一休みして橋を渡る。三段峡入口には歩道工事中の看板がある。
トチノキの実?の食痕 |
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コツクバネウツギ |
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ミズタビラコ |
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田代川右岸を進む。ウバユリが大きい葉を広げる。青床の先に釣り人が入っていた。小滝を過ぎ楓橋を渡る。アカシデが花穂を下げる。大規模林道の橋下を過ぎると石垣が長く続く。スギ林下の奥に石垣が三段見える。クマシデが大きい花穂を下げる。
石垣が再び現れ、田代橋が見えてくる。左岸に田代水位・雨量観測所がある。キブシが丸い実を付ける。牛小屋谷の橋を渡り、添郷集落跡に入る。スギ林の石垣の間を進む。フタリシズカの花穂が出ている。ヨビヤ峠への分岐に出る。右岸のスギ林を進む。谷へ下りると涼しい風が吹いてきた。気温は21度。
サワフタギ |
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キシツツジ |
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左岸に石垣が見える。ミヤマハハソが花穂を出す。右岸を進むと両岸に橋跡の石垣が残る所に出る。木橋を渡り左岸へ。落葉の間からヤブコウジの赤い実が出ていた。古くなった断層図が残っている。餅ノ木断層の字が読める。山道が崩れた所は丸太が渡してある。田代橋から1時間ほどで堰堤下。
左岸を回りキャンプ場に入る電気柵を越える。日が照り付ける牛小屋駐車場に進むと気温は28度になっていた。夏焼峠へ上がる樹林の道へ逃げる。青空のカヤバテゲレンデを左に見て、日陰の散策路を進む。森林セラピーのデッキで一休み。デッキにあるトチノキの花が咲いていた。石の道標を通り、牛小屋から30分ほどで夏焼峠。
フタリシズカ |
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サワギク |
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大きいブナを過ぎると、砥石川山登山口。先週、恐羅漢トレイルがあったためかササが刈ってあった。壊れた木橋には丸太が渡してあり、登山道が整備されていた。峠から30分ほどで中ノ甲林道、気温27度。林道を進み左岸へ渡ると西側へ上がる分岐がある。西と北へ林道が上がっている。「中ノ甲林業専用道起点 平成25年度」の石柱がある。
20分ほどで出合原、アカゴウ谷左岸に「奥三段峡風景林」の看板がある。林道はアカゴウ谷をUターンして出合谷右岸を登る。出合原から40分ほどで出合キビレ。そこから少し進むと林道の分岐があり、イキイシ谷の途中まで道が下りている。そこから30分ほどで十文字キビレ。聖山入口の道標がある。
林道を下る。途中、学院遭難碑に寄る。峠から30分ほどで樽床ダムに帰着。
ヤブコウジ |
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キブシ |
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クマシデ |
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アカシデ |
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ウバユリ |
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コツクバネウツギ |
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ツタウルシ |
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コケイラン |
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ミヤマハハソ |
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ギンリョウソウ |
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トチノキ |
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シジバリ |
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コアジサイ |
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ヤグルマソウ |
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■地名考
『山県地誌略』の「尾曾良寒」の地名
「山県地誌略」に「尾曾良寒」の地名がある。十方山の西に「尾曾良寒」があり、北に那須の山々、東に立岩山、北に大箒山などを示しており、「尾曾良寒」は恐羅漢山であることが分かる。
「十方山ハ西南隅ニ聳ユル高山ニシテ其派延テ三方ニ分ル。西ニ赴ク者ハ尾曾良寒、赤川ノ二山ナリ。北ニ赴ク者ハ浦折、栂尾、津浪谷、代原、内黒、外黒、西平、東原、畳ケ鳴ノ連山ナリ。東ニ奔ル者ハ押ケ峠、立岩、奥ノ原、鷹巣及猪股、正木、天井ノ諸山ニシテ佐伯ノ境ヲ限レリ。深入、大箒、黒瀧ノ三山ハ北方ニ在リテ奥山ノ疆域ニ綿亘ス」(『山県地誌略』1880年=明治13年)。
恐羅漢山の三角点選点は1895年=明治18年で、点名は「羅漢」となっている。陸軍局測量部の地形図(1888年)の大亀谷山が恐羅漢山に改められたのは1895年以降であろう。
恐羅漢は「ヲソラカン」「おそらかん」と仮名で表されていたが、漢字を当てたのは「尾曾良寒」が最初であると思われる。その後、恐羅漢と表すようになった。
タタラ山としてのオソラカン
「中之甲の集落は現在、無人である。昭和二十年代までは、帝国製鉄の炭焼労務者の居住地で、小学校の分教場まであったが田畑の無い所を見ると定住地ではなく、出現したり消滅したりの歴史を繰り返していたようだ。中之甲という地名の初見は、加計の鉄山経営者の佐々木家へ戸河内横川の住人、六右衛門らから出された『申定鈩約束之事・元文三年(1738年)四月四日』という『加計万乗』に集録してある文書である。この中の
『横川惣山之内、餅木、田代、中之甲、台所原、牛木屋、おそらかん、水越まで…』という箇所である。中之甲にはその後、寛保二年(1742年)より寛延三年(1750年)までの八年間、鈩が置かれていた。向井義郎氏の鈩分布図によると、その場所はキツネ原とアマスギ谷の落ち口の五十本原のようである。筆者も中川と赤川との出合原に住み長い間帝国製鉄の森林監理人であった樽床の後藤氏よりこの場所であったことを確認した(「西中国山地」桑原良敏)。
『加計万乗』(1738年)に「横川惣山之内、餅木、田代、中之甲、台所原、牛木屋、おそらかん、水越まで…」とあるように、「おそらかん山」でなく、「おそらかん」と記されている。餅ノ木、田代、中之甲、牛木屋はいずれも鈩が置かれていた所である。オソラカンの山名の初見(1715年)と鈩操業の時期が重なる。「おそらかん」はタタラ山であったと思われる。
おそらかん周辺の鈩場
横川川 横川鑪跡、古屋敷鑪跡、二軒小屋鑪跡
牛小屋谷落口と田代川 田代山鑪跡
中ノ川川 中ノ甲山1号鑪跡、2号鑪跡、3号鑪跡、4号鑪跡、5号鑪跡
亀井谷 岩ヶ原鈩跡
広見川ハゲノ谷 禿ノ谷鈩跡
『たたら製鉄では、木炭を大量に使うので、たたら経営には広大な山林を必要とする。1回の操業に必要な木炭の量は約12トン、これを生産する森林面積は約1ヘクタールが必要とされた。
たたら炭に適した木の樹齢は30年以上とされ、一ヶ所でのたたら操業を継続するには約1800ヘクタールの森林面積を確保する必要があった。しかも木炭は輸送にかさばるので、その制約から、たたらの立地条件は「粉鉄七里に、炭三里」といわれ、砂鉄の採取範囲を七里(約21Km)としているのに対して、製炭範囲は三里(約12km)以内に限定したため、広大な山林を必要とした』(『和鋼博物館』HP)。
寒山の意味
かんざん【寒山】(大辞林) 「冬の、草木の枯れたものさびしい山」
かん‐ざん【寒山】(日本国語大辞典) 「冬の山。草木の葉が枯れ落ち、ものさびしげに見える山」
旧羅漢山の西にハゲノ谷があり、タタラ山として製炭の原材料として西面は伐採されたと考えられる。周囲をタタラで囲まれたオソラカンは伐りつくされた山と考えられる。
『山県地誌略』では「おそらかん」を「尾曾良寒」(オソラカン)と表している。編者の三宅彰はタタラ山としてのオソラカンの状況を「寒山」と表現したのではないか。
広島県史年表から
1628年(寛永5)
広島藩,太田川流域の鉄穴流しを禁止〔自得公済美録20〕。
1687年(貞享4年)
隅屋,広島戸河内村横川の藩営鑪1,鍛冶屋2
の払下げを受け経営を始める〔加計 万乗〕。
1711年(正徳1)
広島藩,山県郡のみに鉄座の廃止と在来鉄師による株仲間の結成を認可し,鑪2
か所, 割鉄鍛冶屋24 軒,釘地鍛冶屋5 軒と限定する。
1830年(天保1)
三次川筋普請につき,山県郡鉄穴流し差留められる〔加計家「御鑪方諸書附」〕。
広見河内村(近世)(『角川日本地名大辞典』)
江戸期〜明治7年の村名
石見国美濃【みの】郡のうちはじめ幕府領の益田【ますだ】領匹見【ひきみ】組,元和5年から江戸期を通じて,浜田藩領のうち匹見組に属す
村名の由来は山間の所々に広い所があることによるという(八重葎)
検地は明暦2年・明和元年で,明暦2年の村高は36石余であり,生産高があまりに少ないため,法懸御免につき免税された
その後村高は「石見国高郷村帳」に33石余,「天保郷帳」では36石余山村で,文政7年には安芸吉和【よしわ】村の組頭が細谷山の杉の木を買入れている
また枌【そぎ】が天保7年に57貫410匁,安政3年に杉大枌17束・杉小枌835束を藩に献上した
当地では,禿ノ谷・オウコウ・河崎原で藤井氏によって鈩【たたら】が行われていた
天保8年の飢饉には被害が大で,17戸のうち6〜7軒が逃散し,5反歩の田から三斗俵が5俵しかとれなかったという
広見河内神社があり,この神社および村名については次のような伝承がある「安政元年1匹の鹿が広見部落へ迷い込んできたこれを河崎の部落民が捕えて殺し,肉を分けようとした時,鹿は急に起きあがって走り出したので人々は,鹿を埋葬し社を建て河内神社とした安政2年この話を聞いた藩主が,これまで広見村といっていた村名を広見河内と改称するように命じられた」という(石見匹見町史)
地内を通る広見街道は途中で分岐し1つは安芸の佐伯【さえき】郡を経由して芸州の山県【やまがた】郡の二軒小屋へ,1つは五里山の頂上を通って吉和村に向かっていた
明治7年東村と合併して匹見村となる
上道川村(近世)(『角川日本地名大辞典』)
江戸期〜明治7年の村名
石見国美濃【みの】郡のうち村名は,川満つるより,山奥の地のため川を道としたことによるという(八重葎)道川村とも称した(石見国高郷村帳・天保郷帳)
江戸期ははじめ幕府領の益田【ますだ】領匹見【ひきみ】組,元和5年からは浜田藩領,匹見組に属す
検地は明暦2年・明和元年など明暦2年の村高193石余,戸数85
「石見国高郷村帳」では131石余,「天保郷帳」では212石余,
美濃地家が江戸の中期より末期まで庄屋職を世襲同家は藤井氏の鈩支配人を務めていたが,時には割元(大庄屋)も兼ねた
松琴山に鎮座する道川八幡宮は,宝暦8年に鈩を経営していた藤井又四郎貞応の創建によるもので,匹見八幡宮から男山八幡宮の分霊を勧請したものである
藤井氏は社領として後山2町余・田地2反余を寄進した(石見匹見町史)
赤谷にあった自得庵は室町期創建の禅宗の寺院であったが,藤井氏によって再建され法華宗に改宗下道川村と上道川村の境にある宝珠庵も藤井又四郎貞応によって創建された
焼畑によるソバ・コウゾの栽培,蜜の採取などが行われ,文久2年には苧がはじめて栽培された
宝暦年間当村は疲弊し,農民が村から逃散していったので,同6年に田畑・山林を残らず藩に没収されることもあったが,同8年に御改帳通りに田地付薪・草山を再下付された
道川村は山野面積がほとんどの山村で,藩領の内でも僻陬の地である藩では豊富な木材を利用して鈩【たたら】事業を起こすことにして藤井氏が鈩を創設した
天保年間から明治初年まで市ノ谷・二ノ谷・三ノ谷・吉原山・下臼木谷山・鱒淵【ますぶち】山・古椀山・押カ谷山・平なめら山などで鈩が経営されていた
藤井又四郎貞応の時代が最も発展し,赤谷【あかだに】・仏谷・杉山などでも鈩が経営されていた
また佐々木氏が臼木谷【うすきだに】で,笹利氏も打石と春日山で鈩を経営していたが,いずれも期間は長くなかった
鉄は益田の藤井元場へ運ばれ,その大部分が大坂淡路町瓦町の大坂鉄蔵へ送られた
鉄の運搬に必要なため他村と比較して牛馬の数が多く,村民は藤井氏に依存する株小作制度をとっていた鈩師は金屋子神を崇敬し,山内者は鈩場の小高い清浄な地に,鉄穴【かんな】師は鉄穴場に,山子は製炭窯にそれぞれ祀った
赤谷では黒矢淵銅山が慶長年間より採掘されたこの銅山は藩・益田屋茂左衛門・正田屋清作・吉田利兵衛らによって経営されたがすぐ廃坑になった
また白塩硝を藩に上納
安永7年・寛政4年・同8年・文化4年・同8年・文政11年・同12年・天保元年・同6年・同7年・同8年など水害が多かった
享保・天明・天保・その他の飢饉の年には,虫送りの行事を行った この行事は実盛祭ともいい,実盛虫とはイナゴ・ウンカのことを指したものである
天保の飢饉の被害は大きく,山内者など多数が餓死三界万霊塔はその時餓死した人のための供養碑である
天明5年の百姓一揆は集結したが未然に解散寛政10年にも一揆を起こしたが,臼木谷の秀浦孫三郎に説得されしずまった
文化10年の一揆は,佐々木氏が総山(共有林)の木谷山の毛土(木材)を売り払ったことにより起こったもので,澄川【すみかわ】代官所へ行き代官に直訴した道川街道・八幡街道・赤谷街道などあった
享和元年に郡奉行今井勘右衛門が佐々木氏の経営する鈩を検分に来村したまた天保14年には同平野与兵衛の巡村があった慶応2年〜明治2年は長州藩預り地明治7年下道川村となる
下道川村(近世)(『角川日本地名大辞典』)
『江戸期〜明治7年の村名
石見国美濃【みの】郡のうちはじめ幕府領の益田【ますだ】領匹見【ひきみ】組,元和5年から江戸期を通じて浜田藩領のうち匹見組に属す
上道川村の枝郷村名の由来は川満つるの意より,山奥の地であるため川を道にしたことによるという(八重葎)
検地は明暦2年・明和元年明暦2年の村高は139石余,戸数は36戸「石見国高郷村帳」に96石余,「天保郷帳」では145石余
亀井谷にある大元神社の祭神は国常立命で,江戸初期,開拓の祖が土地を開墾するにあたって宮の前に建立したものと伝えられている
当村では藤井氏による鈩【たたら】が経営されていた
また亀井谷川上流亀井谷には銅山の間歩があり,明和年間には大坂の住友氏によって銅の採掘がなされた
長者間歩の最盛期には間夫【まぶ】の数が200人にも達し,同7年に阿弥陀如来を本尊とする仙床禅寺が建立された
銅鉱は岩倉山の馬道を通って安芸国加計【かけ】に運び,ここで溶鉱した製銅は大坂へ送った
天保年間に経営がいきづまり,同7・8年の大飢饉には食糧難のため暴動が起こるなどしてついに廃坑となり,仙床禅寺も衰退
「石見鑑」によると慶長の頃には道川でも銀がとれたらしい
安永7年・寛政4年・文政8年・同12年・天保元年・同2年・同6年・同7年など洪水がたびたび起こり,同8年の飢饉による被害は甚大であった
安政6年の大地震の折は社倉囲籾50石余を借りてしのいだ
慶応2年〜明治2年は長州藩預り地明治7年上道川村と合併して道川村となる』
亀井谷の伐採
「昭和十五年三月、北海道釧路から移住した製炭王館田与次は、総戸数四十戸二百名の従業員を連れて、下道川の亀井谷に留まった。時あたかも太平洋戦争がたけなわの折、製炭報国の精神から恐羅漢の山麓、二里にわたる亀井谷の峡谷に、三十基の大型製炭窯を敷き、広さ六百五十町歩の原生林から毎月平均五千俵の木炭を焼いて、市場へ送り出す計画をたてた。
一行中には二十四才になる美貌のアイヌ婦人、石田ふみもいた。彼らの中には三十名の児童もいたが、一里もある下道川へ登校するのは不便を感じるので、亀井谷製炭村へ小学校を新設するとまで意気ごんだのである。節米の時代に二百名をまかなう毎月の米は五十俵を要する次第で、この兵站線を守る苦心も並大抵ではなかった。しかるに終戦とともに彼らは郷里の北海道へ引き上げた」(『石見匹見町史』)。
カシミール3Dデータ
総沿面距離23.6km
標高差545m
区間沿面距離
樽床ダム
↓ 7.9km
横川出合
↓ 5.7km
牛小屋
↓ 3.1km
中ノ甲林道
↓ 6.9km
樽床ダム
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