6:45 カメイ谷入口 曇り 気温21度
7:05 仙床寺跡
7:30 亀井谷奥橋
7:50 銅山跡
8:50 33曲り
9:30 台所原
10:20 ホタノコヤ
11:20 登山道
11:50 天杉山
12:40 岩倉山分岐
13:30 亀井谷林道
14:25 亀井谷奥橋
15:05 カメイ谷入口
倉渡瀬橋の先のカメイ谷左岸の入口を出発。7時前で気温は21度になっていた。道沿いにアヤメが咲き、ヤブデマリがの花が多い。ミツバウツギの花が残っていた。ヤマザクラが実を付けていた。オオバアサガラの花芽が出始めている。ヌクイ谷手前に仙床寺跡の広地がある。亀井谷銅山時代の寺である。
広場の先は鎖止めで進入禁止になっている。その先に亀井谷国有林、山地災害危険地区の標識がある。ヌクイ谷は崩壊土砂流出危険地区の表示がある。亀井谷橋を渡り左岸を進む。コウソゴ谷の先に大きい堰堤がある。ムラサキケマンが咲く。出発から45分で亀井谷奥橋。
ミツバウツギ |
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ヤマザクラ |
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亀井谷奥橋を渡り、右岸から山道に入る。沢沿いにヒメレンゲが群生する。左岸に渡る。右岸、左岸と渡る。オオバアサガラの花が落ちていた。クルマムグラが多い。右岸のタズガエキの谷の水量が少ない。イタヤカエデの実が落ちている。ジロタの堰堤を過ぎてジョシ谷を渡ると、広見入口の表示がある。
ジョシ谷右岸の入口まで進み、カメイ谷を渡り、銅山跡へ出る。石垣の上の平坦地に出る。デミセ谷右岸を登ると石垣の残っている。古道がデミセ谷へ降りていた。チャボガヤだろうか、触ると痛い。デミセ谷を渡り石垣の下に出る。その下には広い道跡が右岸に続いている。
ヤブデマリ |
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ムラサキケマン |
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道沿いに平坦地が続き、石垣が残る。銅山施設の跡かもしれない。一旦、道が消失するが右岸の山道を進む。アマスギ谷を渡り、さらに道を進む。ラショウモンカズラが咲く。右岸に長い石垣が続く。その先、左岸に石垣がある。両岸に石垣があるので橋跡かもしれない。左岸の石垣の上に出て少し進み右岸に渡る。
再び右岸に広い道が続く。ヤグルマソウが咲き、道に石垣が残る。782ピークの先の谷が33曲りの入口。道はカメイ谷右岸に続いている。33曲りへ上がる谷で一休み。涼しい谷風が吹き下ろす、気温は17度だった。ジグザグ道を上がる。ギンリョウソウが落ち葉から頭を出していた。モミジガサが葉を出す。
ヒメレンゲ |
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クルマムグラ |
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イタヤカエデの実が付いた葉が落ちていた。今日は風が強いので色々な葉が落下している。ジグザグ道を登り切り、山腹のトラバース道に入る。樹林が明るくなり、台所原へ回る尾根に出る。気温19度。台所原の道標に出ると、ゼッケンを付けた人が次々と恐羅漢山へ登って行く。木々に「Fields
Outdoor Sports Creation」の黄色いテープが取り付けてある。今日は恐羅漢トレイルの大会のようだ。
中ノ甲林道を下って行くと、次々と参加者が鈴を鳴らしながら登って行く。「登りはまだ続きますか」と女性から聞かれた。土場の広場に進むと参加者が林の中から出てくる。中ノ甲林道を下る。五十本原を過ぎた先のアマスギ谷落口には水が溜まっていた。キツネ原の登りに入ると薮の作業道が山へ上がっていた。
林道を下って行くと植林地の野田原の峯が見える。ホタノコヤの入口は薮になっている。引き返して薮の作業道へ入る。作業道はホタノコヤ右岸をジグザグに上がっている。分岐を谷側へ進むと終点。ホタノコヤへ下りると小滝の下だった。谷を上がると左岸にテープが続く。大岩の横を通る。
ヤマドリの卵 |
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ヤグルマソウ |
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しばらく踏み跡を登って行くとヤマドリが急に飛び立った。附近を見るとスギの葉でつくった巣に卵が三つ、巣の外に一つあった。飛び立った時に巣から落ちたらしい。落ちた卵を巣に戻しておいた。登山道に出る手前に朽ちたブナが幹を残して倒れていた。谷の入口から1時間ほどで登山道に出た。気温19度で風が強い。
天杉山へ進む。登山道はササ薮になりつつある。ウリハダカエデの花が葉とともにたくさん落ちていた。ミズナラ、ハウチワカエデの葉も落ちている。オオカメノキが実を付ける。東面の大スギを過ぎた所で山道が消失、ササ薮を登り西へ進んで登山道に出る。尾根に出てから30分ほどで天杉山。コマユミが咲いていた。ササ薮を少し進むとムラサキの濃いダイセンミツバツツジが咲いていた。足元にチゴユリが咲く。
ギンリョウソウ |
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イタヤカエデ |
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天杉山南面も登山道をササが覆う。途中にある大ブナは根本が空洞になっている。東側に砥石川山が見える。天杉山から1時間弱で岩倉山分岐、気温20度。西側の尾根に入ると風が静まる。主尾根で見なかったアカマツが多くなる。北側が開け、空山の風車群が見える。遠く大麻山が浮かぶ。途中、苔むした石柱があった。分岐から1時間弱で亀井谷林道へ下りる。
湿地にヘビイチゴの花と実、ミズタビラコの花が咲く。1086ピークから下りる谷の大堰堤を過ぎる。キリの花が落ちていた。キケマンが咲く。開地から春日山が見える。ニワトコが実を付ける。1時間ほどで亀井谷奥橋。カメイ谷入口近く、左岸へ渡る手前に用水堰があり、水田に水を流している。亀井谷奥橋から30分ほどで帰着。
アヤメ |
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ダイセンミツバツツジ |
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オオカメノキ |
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ラショウモンカズラ |
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サルメンエビネ |
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ウリハダカエデ |
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コマユミ |
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チゴユリ |
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ヘビイチゴ |
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ミズタビラコ |
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キリ |
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キケマン |
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ウワバミソウ |
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ニワトコ |
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オオバヤシャブシ |
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オオバアサガラ |
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ミツバウツギ |
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■地名考
大亀谷山、亀井谷、亀谷
『輯集二十万分の一図』(1888年・「西中国山地」)
『参謀本部陸軍局測量部の編集した輯集二十万分の一図「広島」(明治21年発行)には大亀谷山となっていたが、後に恐羅漢山に改められた。
大亀谷山は、島根県側道川の呼称であろう。亀井谷の奥の大きな山という意と思われる』(「西中国山地」)。
『新選島根県地誌略』(明治17年=1884年)
大亀谷山の地名。
『島根県地理覧要』(明治20年=1887年)
石見国地図に大亀谷山の地名。
『大日本帝國出雲石見隠岐土性圖』(1895年)
土性図に大亀谷山と亀谷の地名。
『濱田圖幅地質説明書』(1897年)
亀谷、大亀谷山の地名。
「道川村亀谷銅山 美濃郡下道川村ヨリ南方二里亀谷川ニ沿ひ陟ル 一里十町海抜千二百四十米突ヲ抽ンズル大亀谷山ノ西方一里ノ渓崖にアリ製錬セシ荒銅ハ横川ヲ経テ山縣郡戸河内村ニ出デ夫ヨリ太田川ノ便ヲ藉リ廣島ニ送レリ」
「鉱脈は向山 長者鋪 川端鋪 大鋪」
『雲石鉱山内容誌』(明治36年=1903年)
亀谷鉱山の呼称。明治期に亀井谷からの登山者があった。
「亀谷鉱山
本山は道川本流に合する一支流の小口から奥へ五十丁ある此間両岸悉く安山岩中に硫化鉄の酸化されたる鉱脈の露頭から大小幾條となく発見せらるるを見ては一見始て登山する者は殆ど一驚を吃せぬ者はなく
更に其坑内稼行の前後を見るに及んで再び驚かされ
壮大なる幾種建設か渓流に伴って其棟を並ふるに至っては三驚せさる得ない名物の一として遺留された
全山地質は安山岩にて第一を津和野間歩…次ぎを舞鶴坑…第三を得盛坑…第四を五号坑…第六を長者間歩」
『日本鉱山見物』(大正3年)
亀谷の地名。
「美濃郡に十七鉱区あり、道川村引割鉱山精銅三万斤を出し、全村内…有力の良山なり…同村の亀谷にして相当の歴史あるも、今は銅鉱僅かに一万貫を出すのみ」
『日本歴史地名体系第33巻島根県の地名』(平凡社1995年)
亀井谷銅山の呼称。
「美濃郡匹見町下道川村 下道川村は、匹見川の上流に位置し、東方の恐羅漢山を源流とする亀井谷川が西流して匹見川に合流する。亀井谷川沿いの亀井谷銅山は明和年間(1764〜72)から採掘され、鉱夫が200人にも達したといわれる」
『角川日本地名大辞典』の亀井谷
下道川村(近世)
『江戸期〜明治7年の村名
石見国美濃【みの】郡のうちはじめ幕府領の益田【ますだ】領匹見【ひきみ】組,元和5年から江戸期を通じて浜田藩領のうち匹見組に属す
上道川村の枝郷村名の由来は川満つるの意より,山奥の地であるため川を道にしたことによるという(八重葎)
検地は明暦2年・明和元年明暦2年の村高は139石余,戸数は36戸「石見国高郷村帳」に96石余,「天保郷帳」では145石余
亀井谷にある大元神社の祭神は国常立命で,江戸初期,開拓の祖が土地を開墾するにあたって宮の前に建立したものと伝えられている
当村では藤井氏による鈩【たたら】が経営されていた
また亀井谷川上流亀井谷には銅山の間歩があり,明和年間には大坂の住友氏によって銅の採掘がなされた
長者間歩の最盛期には間夫【まぶ】の数が200人にも達し,同7年に阿弥陀如来を本尊とする仙床禅寺が建立された
銅鉱は岩倉山の馬道を通って安芸国加計【かけ】に運び,ここで溶鉱した製銅は大坂へ送った
天保年間に経営がいきづまり,同7・8年の大飢饉には食糧難のため暴動が起こるなどしてついに廃坑となり,仙床禅寺も衰退
「石見鑑」によると慶長の頃には道川でも銀がとれたらしい
安永7年・寛政4年・文政8年・同12年・天保元年・同2年・同6年・同7年など洪水がたびたび起こり,同8年の飢饉による被害は甚大であった
安政6年の大地震の折は社倉囲籾50石余を借りてしのいだ
慶応2年〜明治2年は長州藩預り地明治7年上道川村と合併して道川村となる』
切上り長兵衛と津和野領亀井谷銅山
『朝日日本歴史人物事典』の解説
切上り長兵衛(生年:生没年不詳)
江戸前期,別子銅山の存在を住友の吉岡銅山に報知,元禄4(1691)年の稼行請負のきっかけを作った掘子(坑夫)。阿波(徳島県)出身。
切上りとは,坑道を上向きに掘削するのが得意であったことによる異名である。
住友家の記録「宝の山」によると,三河・津具金山,美濃・畑佐銅山,越前・面谷銅山で若いころ働き,石見・津和野領亀井谷銅山,播磨・桜銅山,豊後・大平銅山をかつて稼行し,出雲・佐詰銅山,豊前・香春銅山,薩摩・阿久根いらず山の様子を語ったとある。
単なる渡りの掘子ではなく,掘子を抱える親方である金子か,零細な山師であった時期もあるのではあるまいか。<参考文献>住友修史室編『泉屋叢考』13輯,「宝の山」(『住友史料叢書』)
亀井谷の長者間夫
「明和年間大阪の住友氏は、下道川の亀井谷川の上流亀井谷に銅山の採掘をした。亀井谷長者まぶの銅山の最盛期には間夫(鉱夫)の数が二百名にも達し、ために遊女が何十人もこの山奥に住みこんだという。この銅山には明和七年(1770)、阿弥陀如来を本尊とする仙床禅寺が建立された…
掘り取った銅鉱は岩倉山西側の馬道を通って安芸国加計に運び、ここで熔鉱した上、製銅は大阪へ送ったのである」(『石見匹見町史』)。
亀井谷の伐採
「昭和十五年三月、北海道釧路から移住した製炭王館田与次は、総戸数四十戸二百名の従業員を連れて、下道川の亀井谷に留まった。時あたかも太平洋戦争がたけなわの折、製炭報国の精神から恐羅漢の山麓、二里にわたる亀井谷の峡谷に、三十基の大型製炭窯を敷き、広さ六百五十町歩の原生林から毎月平均五千俵の木炭を焼いて、市場へ送り出す計画をたてた。
一行中には二十四才になる美貌のアイヌ婦人、石田ふみもいた。彼らの中には三十名の児童もいたが、一里もある下道川へ登校するのは不便を感じるので、亀井谷製炭村へ小学校を新設するとまで意気ごんだのである。節米の時代に二百名をまかなう毎月の米は五十俵を要する次第で、この兵站線を守る苦心も並大抵ではなかった。しかるに終戦とともに彼らは郷里の北海道へ引き上げた」(『石見匹見町史』)。
「亀のキビレ」=「カマのキビレ」
『大日本帝國出雲石見隱岐土性圖』(1895年=明治28年)に大亀谷山があり、カメイ谷に亀谷の谷名が見える。また亀谷鉱山、亀谷銅山の呼称がある。
カメイ谷は、亀谷、大亀谷、亀井谷などと呼ばれていたと思われる。
ジョシ谷の鞍部をジョシのキビレと呼んでいるが、亀谷の鞍部は「亀のキビレ」と呼ばれていたと思われ、「カマのキビレ」に転訛したと考えられる。
『山県地誌略』に「尾曾良寒」の地名
「山県地誌略」に「尾曾良寒」の地名がある。十方山の西に「尾曾良寒」があり、北に那須の山々、東に立岩山、北に大箒山などを示しており、「尾曾良寒」は恐羅漢山であることが分かる。「尾曾良寒」の位置は旧羅漢山であるかもしれない。
「十方山ハ西南隅ニ聳ユル高山ニシテ其派延テ三方ニ分ル。西ニ赴ク者ハ尾曾良寒、赤川ノ二山ナリ。北ニ赴ク者ハ浦折、栂尾、津浪谷、代原、内黒、外黒、西平、東原、畳ケ鳴ノ連山ナリ。東ニ奔ル者ハ押ケ峠、立岩、奥ノ原、鷹巣及猪股、正木、天井ノ諸山ニシテ佐伯ノ境ヲ限レリ。深入、大箒、黒瀧ノ三山ハ北方ニ在リテ奥山ノ疆域ニ綿亘ス」(『山県地誌略』1880年=明治13年)。
恐羅漢山の三角点選点は1895年=明治18年で、点名は「羅漢」となっている。陸軍局測量部の地形図(1888年)の大亀谷山が恐羅漢山に改められたのは1895年以降であろう。陸軍局測量部地形図の修正図を時代順に調べれば「恐羅漢」の初出が分かるだろう。それがオソラカンに「恐羅漢」の字が当てた最初の地図であろう。
カシミール3Dデータ
総沿面距離19.6km
標高差740m
区間沿面距離
カメイ谷
↓ 5.8km
台所原
↓ 4.6km
天杉山
↓ 1.6km
岩倉山分岐
↓ 1.6km
亀井谷林道
↓ 6.0km
カメイ谷入口
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