山歩き

中津谷…御境…五里山峯…押ヶ峠 2018/4/8

国道488入口…R488…御境…五里山峯…押ヶ峠…十方山林道入口…R488…中津谷

■五里山(ゴリヤマ)1130m:島根県と広島県県境の地形図上の峯(吉和・匹見)

R488入口
中津谷川
中津谷川
トロン谷落ち口上流
出合橋
出合橋から下流
長浜
カツラ
主川
主川
長者原
長者原の曲流
八郎橋
通行止めの大向長者原林道入口
十方山林道入口
判城橋
判城橋上流の墓石
御境
御境から尾根に上がる
御境の尾根に上がる
鉄塔から西側を望む
県境尾根を進む
雪の尾根
ミズナラのクマ棚
女鹿平山
クルソン岩と冠山
スギ林を下る
三叉路の舗装された広場
押ヶ峠へ繋がる薮の林道に下りる
林道の小屋
押ヶ峠
十方山林道 倒木が塞ぐ
十方山林道入口
7:35 中津谷 気温2度 雪後晴れ
 

8:25 出合橋
9:40 八郎橋
9:45 十方山林道入口
10:10 判城橋
10:30 御境
12:30 五里山展望地
13:10 三叉路広場
13:55 押ヶ峠への林道
15:20 押ヶ峠
15:50 十方山林道入口
16:50 出合橋
17:35 中津谷R488入口


 思わぬ雪になった。ノーマルに履き替えたばかりだったので、国道488号線から御境まで歩いてみることにした。小雪になったところで、雪景色の入口を出発。中津谷川は銀世界になっている。

 不栗付橋を渡り左岸へ。トロン谷落ち口の上流は水墨画を眺めているようだった。枝にくっついた雪からキブシの花がぶら下がっていた。1時間ほどでオガワ林道に入る出合橋。橋上に数センチの雪が積もっていた。

 長浜をU字に回って、ウサギ谷落ち口の先に大きいカツラがある。小滝の下に雪を被ったキケマンが咲いていた。開けた長者原に出ると、前方に送電線鉄塔が山の峯に並んでいるのが見える。

キブシ

 長者原をU字に回る。吉和村の看板が残っている。中津谷から2時間ほどで八郎橋。山に送電線鉄塔が見える。東側で重機の音が聞こえる。大向長者原林道入口に進むと、「この先法面崩落の為通行止め」の表示があった。

 十方山林道入口は雪道になっていた。ヤマダチ谷に架かるヤマメ橋を渡る。十方山林道から20分ほどで判城橋。橋から100mほど進むと、スギ林下に数基の墓石がある。判城橋から20分ほどで御境に出た。中津谷から丁度3時間だった。

 時間があったので五里山の峯へ登ってみた。雪を被りながら灌木の薮を抜け、ヒノキ林に逃げる。東から上がる鉄塔道に出る。送電線鉄塔の下に進むと、西側に小郷山に向かう送電線と鉄塔が見える。

キケマン

 10cm余り積もった雪の尾根を進む。ササが再び雪に覆われている。1100mを越えると、点々とミズナラにクマ棚が見られる。幹に爪痕が残る。林間に半四郎山が見える。御境から2時間ほどで五里山の展望地に出た。

 女鹿平山とその右後ろに大峯山、冠山、広高山、寂地山、手前に坊主山、右に千両山、大神ヶ岳の頭が見える。クルソン岩の形がくっきり見える。展望地から引き返す。途中から南へ下る。

 スギの植林地を通り、林道三叉路の舗装された広場に出た。木材集積地だろうか、かなり広い。広場から林道を進み、1071ピークを回り、南面の薮を抜ける。林越しに冠山が見える。植林地を下り、押ヶ垰へ繋がる林道に下りた。

ミズナラの爪痕

 灌木の薮がしばらく続く。アセビの白い花が咲いていた。植林地の山腹の間を林道が通っている。ササ薮やススキの倒れた林道を進む。フキノトウが伸びている。ヤマダチ谷水源を回り込んで小屋に出た。そこから間もなく押ヶ峠。林道に下りてから1時間半ほど掛かった。

 十方山林道は雪が無かった。倒木が林道を塞ぐ。アセビがあちこちで咲いていた。30分ほどで十方山林道入口。朝は雪が積もっていたが、すっかり融けていた。大向長者原林道は通行止めのままだった。まだ重機の音が聞こえた。十方山林道入口から2時間弱で中津谷へ帰着。 

キブシ
キブシ
アセビ
伸びたフキノトウ
ウリハダカエデ
ムラサキキケマン
コブシ


地名考

 『吉和村大向と匹見町野入を結ぶ石州街道は、匹見町側、吉和村側ともに昔から五里ナカエ≠ニ呼ばれており、この呼称は現在も使われている。「ナカア・ナカエ・ナカラ」は「…の間」を意味し、五里ナカエは五里の間、つまり石州街道自体の長さを表わしている』(「西中国山地」桑原良敏)。

 「匹見から五里山(1060m)の頂上まで二里、頂上から広島県佐伯郡吉和まで三里、合せて上り下りが五里あるので、世に五里山といい、山頂は中国山地の主軸に沿うて、南北二里半にわたっている…御坂には据え石の休み場があり、附近には厳冬に遭難凍死した人の墓が数期も散在しておる」(『石見匹見町史』矢富熊一郎)。

 「五里という呼称は、藩政時代に島根県匹見町野入と広島県吉和村の大向を結んでいた西中国山地の主稜を横断する石州街道の長さを表わしている」(「西中国山地」)とあるが、藩政時代の絵図によると、長さは五里よりも大分短い。

 『天保国絵図安芸国』、『天保国絵図石見国』(1835-38年)によると、吉和、匹見間の石州街道の長さが記されており、どちらの絵図も「三里七町六間」としている(下図)。

 「附言山田郷内東村、有加江乃川。源芸石広見河内奥、自十方山下流而到干此(山田郡匹見八幡宮祭神帳−慶安八年=1655年)」(『石見匹見町史』)とあり、「加江乃川」は広見川、「東村」は匹見のことである。


 『天保国絵図安芸国』(1835-38年)

 「此所峯通國境
 吉和村より石見国東村迄三里七町六間
 此所よりうつのふ原村出口道迄の間山國境不相知」

 『天保国絵図石見国』(1835-38年)

 「此所峯通國境
 東村より安芸国吉和村迄三里七町六間
 此所より三國境迄の間山國境不相知」

 (以上 国立公文書館デジタルアーカイブ)

天保国絵図安芸国(1835-38年)
(国立公文書館デジタルアーカイブ)
 
天保国絵図石見国
(1835-38年)
(国立公文書館デジタルアーカイブ)



 「五里ナカエ」は、吉和、匹見間の距離を表しているのだろうか。「五里ナカエ」は「五里山ナカエ」の意とも考えられる。


 『石見匹見町史』によると、五里山周辺には、昔から戸河内の那須や七村、三葛などの木地師が入っていたという。

 「匹見川の上流地方にかけては、石見と安芸の国境を画して、恐羅漢山(おそれらかんママ)・五里山・冠山の高山が、南北に連亘し、山中はブナ・トチなどの原始林で、昼なお暗く蔽われている。この山中に介在する七村・三葛・広見などの地には、木地屋が昔から巣食っていたので名高い」(『石見匹見町史』)。

 「安芸木地屋の根拠地は、山県郡の那須・横川・加計の三地である。これらの地からは、西の大朝へも移住し、中国山地の五里山を越えて当町を訪ね、杓子木地と椀木地とを、相当数移動交流させていあたようである」(『石見匹見町史』)。

 「今日木地の中心地は、隣境の那須である。ここは今も西中国山中の一の、中心衆落ををなしており、その定住も決して新しいものではない。ここを中心として、方々の山中に入って仕事をしておる。大朝の西の境というところに住む、二軒の木地屋も、那須から行っておるのであり、横川のも匹見の五里山へ入って、仕事をしておる」(『石見匹見町史』)。

 広見の半四郎父子の遭難死により、半四郎が山名となっているが、藤田父子は横川の木地の先山師であった。

 御境南の判城橋上流のスギ林下に五基の墓石が並んでいる。一番大きな墓石には「荘室妙巌信士」「寛政三亥年」とある。214年前の1791年の墓である。他の墓にも寛政の字が読める。この辺りに居を構えていた木地師の墓のように思われる。吉和の木地師はロクロ谷を通って細見谷へ入っている。御境を越えて匹見に入ると谷筋に木地師の墓やタタラ遺跡が多く残っている。


 「お関」の悲恋物語「おせきが峠」(『匹見川』春日野満)では、お関は御境の南の炭焼小屋で差し違えて相果てた。

 「下調書出帳」吉和村(1819年)に以下のようにある。

 「東西南北共高山連リ東郡ニ而者凡西ノ端防州石州御境ヘ隣登リ詰ニ而惣躰之土地至而高ク郷中池形西南高流水悉ク北江下流ス…寒所故薪多分ニ焼候ニ付手近之山所者伐り荒シ遠方自樵リ取リ候ニ付人手相懸リ…」

 寒所故、薪を多く焼き、手近の山は伐り荒らしたので、遠方よ樵り取りしていた。


 「コリ」の民俗語彙
 
(国立歴史民俗博物館データベース)

 コリキ 近畿 薪を伐ることをコルという語は近畿・中国に今もある。和歌山県日高郡などでコリキというのは、来年の燃料用に山で乾かして置く木だけを意味し、春木という語と対立している

 コリキナガシ 和歌山県南部 樵木流し コリキを川に流す

 コリゾメ 隠岐 樵り初め。木の伐初

 シバコリ 福島県磐城 柴刈りの古語

 デボコリ
 飛騨地方 熊が3月末ブナの木に登って若芽を食う

 アキゴリ 愛媛県北部 秋に伐る薪

 ノウテゴリ 島根県出雲市 築地松の刈り込み、枝は薪として利用
 
 ハルゴリ 愛媛県上浮穴郡 薪こりに春ゴリと秋ゴリがある。

 セゴリヤ 奈良県吉野郡 焼畑3年目の畑


 万葉集から 

 万葉集1403(奈良県桜井市三輪の山)
 (原文・訓読・仮名の順)

 燎木伐・薪伐り・たきぎこり

 万葉集3232(奈良県吉野川)

 木折来而・木伐り来て・きこりきて


 『現代日本語方言大辞典補巻』から

 「ナカ・ナガ」を見ると、「間・内・中・仲・仲間」の共通語訳が見られる。この中で特に注目されるのは、「ナカ」を「間」の意味にしか用いない地域と「仲」の意味にしか用いない地域の存在である。

 前者は、多良間・平良の2地点であり、後者は山形・青森の2地点である。また、「仲間」の意味で用いているのは千葉の1地点である。また、東京や東京に近接する神奈川・山梨・静岡・愛知・長野などでは「中」の意味に用いるだけで、「内」の意味には用いないことも分かる。

 西日本と東日本の残りの地点では、「中」「内」の二つの意味に用いている。もっとも、鳥取や島根では、時間的な「間」の意は「ナカイ・ナカエ」という語で表し、空間的な「中・内」の意は「ナカ」という語で表しているから、時間的な「間」の意を表す「ナカイ」はもともと「ナカニ」(中に)であって、時間を空間で表した具象化による意味の拡張かも知れない(平山輝男ほか編『現代日本語方言大辞典補巻』室山敏昭)。


 西中国山地のナカエ地名

 吉和ナカエ(石原峠)

 筒賀と吉和の境は石原峠だが、「吉和ナカエ」(「西中国山地」)と呼んでいる。この場合、「吉和ナカエ」は「吉和と筒賀の間」の意味であり、ナカエは、間の地点=石原峠を指している。

 才中得(サイナカエ 戸河内)
 中得峠(ナカエ 寺領の山字)

 「現在は、戸河内町寺領として独立した地域となっている当地は、川下の与一野(350m程度)から川上へ才中得を経て上部の寺領や長原(550〜600m弱程度)へ寺領川を上がるもので、その間は3Km粁足らずの距離に過ぎず、急な斜面である。その中間の才中得に寺領小学校がある」(『中世における開発と環境』)。

 才中得、中得峠は寺領地域の中間点にある。


 「五里」が御境周辺の地名と考えれば、「五里ナカエ」は「五里山の間」の意味と考えられる。五里山の位置は現在の位置より西側にあった。

 「五里山の初見は陸地測量部発行の『輯製二十万分の一図・広島』(明治二十一年)であろう。この地図に記入してある五里山は現在の地図の地点より更に西南に記されている」(「西中国山地」桑原良敏)。

 大日本帝國陸地測量部作成の5万地形図(本郷・1899年=明治32年)では、御境の東側を五里山としている(下図)。

 御境越えの道は五里山越えの道であった。

 「明治の中期、広島の連隊へ入営する美濃郡内の入隊兵は、等しくこの五里山を越えたものであるが、見送り人は、保矢原で最後の別れに、名残を惜しんだと言う

 今日広島県側には、林道を通じておるが、林道と言っても3m幅の立派な道が通じ、貨物自動車が疾走する点は、匹見側に比べて雲泥の差がある。明治36年、広見林道が通じてからは、五里山の山麓から広見へ向かって新しい道が出来た

 江田から半田をすぎ、橋を渡って山根下に出で、広見川に沿うて植地を通り、山根上に出る。ここには番所があった。かくて立野原を過ぎ、裏匹見峡の玄関口に当る夫婦渕の側を通り、夫婦渕の絶景を眺めながら保矢カ原を行き切るといよいよ五里山の登り口にかかる

 五里山の匹見側にあたる三合谷に関代谷があって、そこには一基の石碑が建てられ、女主人公の悲恋哀話を世に留めている」(三合谷はコゴウ谷か)

 長州征伐後石州に民政方を置いて支配するようになって、従来浜田領とあった標石を取除き、高札も全部掛けかえた。東村には芸州との領境五里山に長州領の建て石をした」(『石見匹見町史』)。


 ナカエ・ナガエ峠

 鳥取県と兵庫県の境に中江乢(ナカエタワ)がある。「乢」が使用されていることから古い地名のようである。「ナカエ」が峠名となっている。

 島根県と鳥取県の境に永江峠(ナガエダワ)がある。「ナカエ」の変化形と思われる。いずれも「ナカエ」は間を意味している。

 鳥取県の東伯地方で、建物と建物の間の小路をいう。なかあいであって、中間のことかと思われる。

 出雲方言、「〜なかい」は、「 〜うち、〜間」の意である。

 石見方言 「なかい、なかえ」は、「土間、たたき」


 杖立乢道(ツエタチタワミチ)

 聖心女子大学図書館デジタルギャラリーの「石見国図」には、杖立乢道(ツエタチタワミチ)の地名が見られる。御境の峠越えの道のことである。この絵図では匹見は「底見」と表している。

 峠を「乢」(タワ)としている。「西中国山地」に「タワ」の地名は「ウツツキタワ」があるが、1800年代には「タワ」が使われていた。

 聖心女子大学図書館デジタルギャラリーの「石見国図」の年代が不明であるが、『大日本與地便覧』(1834年)の安芸国、石見国に「底見」の地名があるので1800年代の地図と考えられる。


 五里(ゴリ・コリ)地名

 五里ヶ峯(ゴリガミネ) 長野県
 五里山(ゴリヤマ) 山梨県
 五里台(ゴリダイ) 秋田県
 五里峠(ゴリトウゲ) 石川県
 名残峠(ナゴリトウゲ) 秋田県
 鬼古里山(キコリヤマ) 宮城県

 キコリエキ(西中国山地・六日市)
 キコリバ(西中国山地・三段峡)
 キコリ谷(西中国山地・津田)


 『日本語とアイヌ語』(片山龍峯)
 アイヌ語日本語音韻対応表
 アイヌ語
 kar(切る・刈る打つ・火をおこす)
 日本語
 karu(刈) koru(伐)こる kiru(鑚)火を起こす kiru(切)

 『日本語とアイヌ語の起源』(鳴海日出志)
 kar カラ (木や草の実)を採る、摘む (狩・猟)鳥獣を狩る 

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カシミール3Dデータ

総沿面距離26.9km
標高差513m

区間沿面距離
中津谷
↓ 11.2km
御境
↓ 1.8km
五里山展望地
↓ 4.0km
押ヶ峠
↓ 1.7km
十方山林道入口
↓ 8.2km
中津谷
 

うつのふ原村の位置
天保国絵図安芸国(1835-38年)
(国立公文書館デジタルアーカイブ)
杖立乢道(ツエタチタワミチ)
底見の地名がみえる
(石見国図 聖心女子大学図書館デジタルギャラリー)
 
5万地形図(本郷)
1899年(明治32年)
作成機関名:大日本帝國陸地測量部
(国土地理院HPから)
五里山の「山の字」が御境付近にある、匹見上村の表示
5万地形図(本郷)全体図
 
中津谷川
主川
五里山の峯
女鹿平山
冠山
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)