山歩き

立岩ダム…十方山…下山林道鞍部…セト谷
2018/3/11

立岩ダム…キリイシのタキ…奥三ツ倉…十方山…下山林道鞍部…中ノ谷分岐…セト谷…県道…立岩ダム

■十方山(ジッポウザン)1319m:広島県佐伯郡吉和村吉和西(点の記) (廿日市市)

6時の立岩貯水池
雪の無い尾根
円座 直径2mほど
キリイシのタキが見える
1050m付近の尾根
キリイシのタキ手前
キリイシのタキから見た立岩山
1200m付近
1300m付近
十方山
奥三ツ倉
掘割
十方山
旧羅漢山と恐羅漢山
昭和59年遭難碑
クマ棚
南西尾根と黒ダキ山
バーのキビレ
下山林道鞍部の西側
1158P
下山林道鞍部
立岩山を望む
十方山雨量観測局
カーブミラーから尾根を下る
ツガの大木
中ノ谷、左谷分岐に下りる
タガタノ原
セト谷西尾根
古道に出る
セト谷の橋の手前の県道に出る
5:55 立岩ダム 気温2度 晴れ
 

6:15 カヤノガ峠
8:50 キリイシのタキ
9:45 1215P
10:35 奥三ツ倉
11:00 十方山
12:00 バーノキビレ
12:45 下山林道鞍部
12:55 カーブミラー
14:00 中ノ谷分岐
14:40 タガタノ谷
15:30 セト谷西尾根
17:05 県道
18:00 立岩ダム

 薄暗い県道を進む。雪は無い。立岩貯水池の西方向が明るくなりはじめた。カヤノガ峠に向かって、植林地を登る。薄暗い林下にセリバオウレンの白い花が輝いていた。雪の無い尾根を登る。ナワシログミの花が枯れたまま密集して残っていた。

 730m付近に、枝を集めて、その上で休んでいたような跡があった。クマの円座と思われる。ササ原でこのような円座を見たことがある。天気の良い日に日向ぼっこでもしていたのかもしれない。そこから少し登った所にも、同様の跡があった。750m付近の植林地を登る。

 820m付近の岩場で一休み。大谷川から冷たい風が吹きあがる。ミヤマシキミの赤い実が多い。860m付近に倒木の根の下を掘り下げた跡があった。ヤドリギの枝が落下している。882ピークを過ぎると、前方にキリイシのタキの岩壁が見える。

セリバオウレン

 植林地のゴーロを過ぎる。1000mを越える辺りから、尾根上に雪が覆うようになる。キリイシのタキの岩場の下に出る。タキの上部に登ると、視界が開ける。立岩山の上を灰色の空が覆う。岩場の尾根を抜け、ササ尾根に出る。北西方向の植林地の尾根を進む。

 1200m付近から締まった雪が覆うようになる。ノウサギの足跡が続く。北側の主尾根が近づいてくる。枝に凍った雪が張り付いている。奥三ツ倉南の大岩に出る。西側が開け、十方山の道標が見える。立岩ダムから4時間半ほどで奥三ツ倉。道標が雪の中に立っていた。

 ここまでカンジキを履かなかったが、尾根上の雪は締まっていて、登山靴で普通に歩ける。スキー跡を辿り、鞍部へ下る。掘割は雪で埋まっていた。奥三ツ倉から25分で十方山。山頂周辺に雪は無い。立岩山方向は霞む。山頂の道標が剥がれていた。

ナワシログミ

 雪の南西尾根を進む。五里山の峯は、雲で霞んでいる。10分ほどで積石地点。そこから恐羅漢山、旧羅漢山、焼杉山、広見山、五里山の峯が見える。女鹿平山は霞む。そこから少し進むと昭和59年遭難碑。遭難碑のある岩の回りの雪は融けていた。

 遭難碑の地点から登山道を離れ、南西尾根の雪原の灌木帯を進む。灌木帯から小木帯に変わり、ミズナラ林になる。小木帯からクマ棚が見られるようになる。ミズナラ、ブナにクマ棚が続く。大きいブナのある、日の当たる雪原で一休み。

 1200m付近を過ぎると展望地に出る。前方に南西尾根が続き、左に黒ダキ山が見える。右に五里山の峯が続く。点々とクマ棚が続く。12時にバーノキビレ着。十方山から1時間ほどであった。キビレから五里山の峯が見える。ノウサギの足跡が続く雪尾根を登る。ピーク付近のブナにもクマ棚があった。

ミヤマシキミ

 尾根の南面はササが出ている。キビレから45分ほどで、下山林道鞍部の西側の雪原に出た。林越しに1158ピークの峯が見える。この辺りの開地にはオオバヤシャブシが多い。下山林道の鞍部の東側に進む。東側に展望があり、三ツ倉の左右に市間山、立岩山が見える。

 雪の林道を北へ進み、雪で埋まる十方山雨量観測局に出る。分岐を南側の林道へ進む。法面の雪が融け、大きいツララが下がっている。林道を少し進んで、カーブミラーの地点から東の小尾根を下る。南側に黒ダキ山が大きく見える。

 下って行くと尾根の雪は消える。大きいツガの木の下にヤドリギが落ちていた。マツグミという針葉樹に寄生するヤドリギという。その付近にツガの大木が二本並んでいる。ミラーの地点から1時間ほどで中ノ谷と左谷の分岐に下りた。雪融けで水量が多い。

ブナの爪痕
ミズナラの爪痕

 中ノ谷左岸に渡り、左谷右岸に渡る。雪原の右岸を進み、左谷左岸に渡る。山道を進みサイガ原から植林地を進む。左谷と右谷の分岐手前まで進み、右岸へ渡り、タガタノ原の平坦地に出る。

 タガタノ谷を渡り、左岸の水車跡付近から右岸の小尾根を登る。40分ほどでセト谷西尾根に出る。この尾根は踏み跡が残っている。長い尾根道が続く。途中に古い境界石柱がある。主尾根から途中、急坂を下って行くと古道に出た。古道を下り、スギ林を通り、セト谷の橋の手前の県道に出た。

 県道に雪は無く、十方山登山口にも雪は無かった。ニノワラのリュウズは雪融けで水量が多かった。貯水池の水量も相当多い。流木が湖岸に浮いていた。湖岸の先に見える立岩山に日が射していた。大谷川は白濁していた。湖岸の崖上にアセビの白い花が咲いていた。 

南西尾根のブナ
ノウサギの足跡
アセビ
ヤドリギ
ツルアジサイ
オオバヤシャブシ
マツグミ

地名考

 十方山の記録は年代順に以下のようになっている。

@「匹見八幡宮祭神帳」(十方山 慶安4年=1651年 『石見匹見町史』)

A「庄屋萬帳」(十方山 1662年 『吉和村誌』)

B「芸備国郡志」(十方辻 1663年)

C「戸河内森原家手鑑帳」(十方山 1710年)

D「庄屋萬覚書帳」(十方山、西十方山峯 1712年 『吉和村誌』)
 十方山 往還より弐里弐町
 西十方山峯 往還より四里弐町 石州境 山県郡境

E「吉和村御建野山腰林帖」(十方山、西十方山 1725年)

F「日本書紀通証」(十方山 1762年)

G「松落葉集」(十方頂 1768年)

H「佐伯郡廿ケ村郷邑記」(東十方・西十方 1806年)

I「石見八重葎」(十方山 1816年)

J「石州古図」(石見国絵図 十方山 1818年)

K「芸藩通志」(十方山 シッハウサン 1825年)

 などに記録がある。

 @「匹見八幡宮祭神帳」によると、

 「山田郷内(匹見)の東村には、加江(かえ)ノ川が流れておる。その源泉は、芸石の境を限る広見河内の奥にそびえたつ十方山から流れ下っており、住民の飲料水として、人々ののどをうるおしておる…(『石見匹見町史』)。

 広見川は古代には「加江ノ川」(カエノカワ)と呼ばれており、広見川の奥に十方山があることから、旧羅漢山を十方山と呼んでいた。

 B「芸備国郡志」に、「其山突兀…見北海往来之船舶」とある。「突兀」は「山や岩などの険しくそびえているさま」の意で、旧羅漢山は、西面は巨石群で、その頂きが岩峯になっている。山頂からは日本海が見える。「芸備国郡志」の十方山は旧羅漢山そのものである。

 F「日本書紀通証」には「石窟」とあり、旧羅漢山の巨石群が石窟に当てはまる。

 J『石州古図』(下図)では、春日山と広見山の間に十方山があり、この山は旧羅漢山と思われる。

『石州古図』(石見国絵図) 1818年
道川村・下道川村に春日山・十方山

(島根大HP)

 @「匹見八幡宮祭神帳」(1651年)、B「芸備国郡志」(1663年)、F「日本書紀通証」(1762年)、J『石州古図』(1818年)から考えると、十方山の山名は、元々「十方の展望」がある山の意ではなく、旧羅漢山に山名の由来があると思われる。


 匹見町の東光山和田寺(浄土宗)に六十六部の供養塔といわれる石造の阿弥陀(あみだ)如来像がある。坐像の蓮華(れんげ)座の中央に六十六部供養と陰彫され、蓮華座の右側面に「宝永七年(1710)寅三月三日」とある。また左側面には「施主・教水」という刻銘がある…和田寺が、浄土宗の三祖といわれている記主(きしゅ)禅師が嘉禎年間(1235‐37)に開基したといわれる名刹(めいさつ)だったことから、納経地として足を向かわせたという背景があったのかもしれない(「まなびや通信」HP)。

 記主禅師は、天台・密教を学び、比叡(ひえい)山で受戒し、天台、倶舎(くしゃ)、法相(ほっそう)、禅、律などを学んだ。

 和田寺の南東100mの所に山伏墓と呼ぶ遺跡がある。その南東10mには和田古墳がある。山伏墓から縄文、弥生の土器、石器のほか、7世紀後半の須恵器、寛永通宝(1636年に創鋳)などが発掘された。

 「臼木谷に和田名という名田が残されておる…和田名は匹見東村、和田寺所有の名田を意味する」

 「和田寺は文化三年(1806)全山を焼失した…歴代住僧の墓が三基遺っておる。宝永七年(1710)三月三日六十六部供養、文化六年(1809)巳年明連社得誉上人、心良和尚五月二十日、文政十二年(1829)丑年明連社起誉上人秀岡三月十五日、安政元年(1854)寅閏七月十四日済誉和尚」

 「元禄のころ当山は、石見三十三ケ所の札所となり、御詠歌として、『高嶺より光に向ふ日の谷の山の峯より音も絶えせぬ』が遺されておる」

 「その間の消息は、次の文書で知られる 『留守居田中大道ト申ス者、信徒協議ノ末、十方ノ信施ヲ募リ、五間四面ノ本堂ヲ再建シ、本尊ヲ安置シ居リ候』 和田寺住職」(以上『石見匹見町史』)。

 六十六部は、法華経を六六部書き写し、日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行した。六部ともいう。1700年代の初めには匹見でも行われていた。


 吉和にも六部地蔵がある。吉和地域では文化4年(1807年江戸時代末期)に房五郎が行者となっている。(吉和公民館HP)

 吉和田中原の六部地蔵には次の字が刻まれている。

 天下泰平
 奉納大乗妙典経日本廻国
 日月清明

 十方施主

 行者 当村 房五郎

 文化四年卯年十一月(1807年)

 
 「十方旦那」と記された石塔があることから、「十方施主」とは、全ての人の寄進、一般庶民の寄進のことと思われる。

 
六部地蔵(吉和の田中原)

下段に十方施主

 お遍路さんの装束のひとつである菅笠に、「迷故三界苦・悟故十方空・本来無東西・何処有南北」と書かれている。

 「迷うが故に三界は城 悟るが故に十方は空 本来東西無く 何処にか南北あらん」

 私たち人間は、普段、迷いという名の城の中に生きている。しかし、仏のこころで生きるようになれば、ほんとうの意味での「自由」というものが見えてくる。本来、「いま」そして「ここ」には、東も西もなく、南も北もない。果てしない自由が広がっているだけである(「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」)。

 「十方」は、大宇宙のどこでもという意味がある。山名としての十方山は意外になく、山号としての霊場の十方山は多い。

 十方山は羅漢山ともいう。羅漢は阿羅漢(あらはんの略)で、サンスクリット語の「アルハット」が語源。「…するに値する人」「受ける資格のある人」という意味。これから発展して「修行を完成して尊敬するに値する人」「悟りを得た人」「悟りをひらいた高僧」を指す。

 「栃木県安蘇郡野上村(田沼町)の猟師の秘伝とされた呪文がある。「メイコサンガイジョ/ゴクウシッポウカイ/ムトウザイナンポク/アビラオンケン」という。

 大殺生のあとでワタヌキをする前に、山の神に対して唱える毛祭の詞である。これは山の神のお産を助けた小ナジンの唱えた呪文であるから、大ナジンの用いたスワノオンよりはこの方を山の神が喜ばれるというから、ここでも狩人に二流ありと伝承されていたのである。

 この資料はだいぶ頽れたままの伝えらしく、実は次のような一種の偈(げ)であったかと思う。すなわち迷故三界苦・悟故十方空・本来無東西・何処有南北とでも復原できるかと思われる」(「民俗語彙データベース」)。

 「悟故十方空」は上記にあるように、「仏のこころで生きるようになれば、ほんとうの意味での自由というものが見えてくる」の意である。三葛の猟師による熊祭りでもマタギや密教の影響を受けた呪文が残っている。南の五里山には「ヤマダチ」と呼ぶマタギが使う地名がある。

 十方山の地名は密教や猟師、マタギなどのとの交流から生まれたものかもしれない。

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カシミール3Dデータ

総沿面距離17.1km
標高差818m

区間沿面距離
立岩ダム
↓ 5.1km
十方山
↓ 3.7km
下山林道鞍部
↓ 2.6km
セト谷
↓ 2.3km
県道
↓ 3.4km
立岩ダム
 

十方山
旧羅漢山と恐羅漢山 積石から
黒ダキ山と十方山南西尾根
五里山を望む
1158P 下山林道から
                         市間山 三ツ倉              立岩山
黒ダキ山 カーブミラーから
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)