山歩き

那須集落…十方山…藤本新道…内黒峠
2017/10/14

那須集落…中三ツ倉…十方山…シシガ谷…二軒小屋…藤本新道…彦八の頭…内黒峠…那須集落

■十方山(ジッポウザン)1319m:広島県佐伯郡吉和村吉和西(点の記) (廿日市市)
■彦八の頭(ヒコハチノカシラ)1151m:広島県山県郡戸河内町(点の記) (安芸太田町)

那須小学校跡
799Pとトリゴエキビレ
タッチの墓
林道終点のヤマナシのクマ棚
登山道の下に林道が通る
藤十郎
中三ツ倉
ハウチワカエデの道
東側に雲海
ブナの落ち葉
奥三ツ倉
論所へ下る
十方山
十方山北のピーク
スギ林を下る
ホオノキの落ち葉
十方山登山口
工事中のシビト谷付近
サバノ頭
藤本新道入口
植林地を登る
尾根の分岐
カザゴヤキビレのブナ林
南面を望む 左が藤十郎の峯 右は登山道の峯
恐羅漢山スキー場 彦八の頭西から
彦八の頭
彦八の頭から市間山方向
リョウブの道
恐羅漢山が目前 1166P南から
ミズナラの大木
展望地から県道、上本郷を望む
内黒山を望む
花が手向けられた加藤武三の碑
県道下の石を敷き詰めた地点
植林地の中の石垣
イタホシ谷の堰堤
集落に出る
6:30 那須集落 曇り 気温18度

7:00 林道終点
8:25 藤十郎
8:55 中三ツ倉
9:10 奥三ツ倉
9:40 十方山
10:50 シシガ谷登山口
11:40 二軒小屋
11:50 藤本新道入口
12:30 カザゴヤキビレ
13:05 彦八の頭
13:30 1166P(彦八)
14:00 内黒峠
15:25 那須集落


 那須小学校跡(那須ギャラリー)を出発、気温18度。小学校跡の板壁に衆議院選挙の掲示板があり、4名の候補者のポスターが貼ってある。西側に押ヶ垰断層帯のケルンバットの799mピークとケルンコルのトリゴエキビレが見える。

 集落から那須川の林道に入る。ウラオレ橋から風小屋林道。林道周辺の一部が伐採され、「タッチの墓 2003.6.30」石碑が見えるようになった。道沿いにサラシナショウマが咲く。30分ほどで林道終点。十方山道標が立つ所にあるヤマンシの枝が折られ、クマ棚になっていた。この木は大きい実を付けるので、クマのデザートというところか。終点のウバユリが実を付ける。

 登山道に入ると、アケビが口を開く。山道の下のトウジュウロウ谷左岸に林道が通っている。ダイガハラの植林地を抜け、小尾根に登る。しばらく急登が続くが、鬱蒼とした樹林帯に入ると緩やかになる。那須から2時間ほどで藤十郎のミズナラ。気温11度で肌寒い。
 
ダイモンジソウ
ツリバナ

 藤十郎からブナ林の西尾根を進む。ユキザサに赤い実が残る。濡れたササを分けて登る。30分ほどで大岩のある中三ツ倉。気温11度、ガスが漂う。「前三ツ倉」の道標があるが「西中国山地」では中三ツ倉になっている。登山道を進み、ハウチワカエデ、ナナカマド、ウリハダカエデ、ブナなどの落ち葉の絨毯を踏む。

 東側が開け、眼下に雲海が見える。葉が付いたナナカマドの実が落ちていた。中三ツ倉から15分ほどで奥三ツ倉。ガスで展望はない。論所へ下るとガスが濃くなる。掘割を渡り、山頂に近づくと、カワラナデシコの花が濡れていた。那須から3時間ほどで十方山。周辺はガスに覆われていた。気温11度で風が吹き肌寒い。

 早々に北側の登山道を進む。「WE LOVE NATURE 広大WVブナの木会」の札が掛かっていた。ガスが漂うハウチワカエデの落ち葉の山道を進む。シシガ谷への分岐を左へ進み、岩のある十方山北のピークから登山道は下る。下るにつれてガスが無くなる。変わった形のキノコが生えていた。初めて見るものだった。

ツルリンドウ
カワラナデシコ

 スギ林下にコバノフユイチゴが実を付ける。カラマツが生えている。ホオノキの大きい葉の落ち葉を踏む。その中にホオノキの黒くなった実の空が落ちていた。ユキザサの赤い実が点々とあり、ツルリンドウが赤い実を付けていた。1時間ほどで十方山登山口。登山口の道標はシシガ谷の方向に矢印があるので、北尾根の登山道は気が付かないかもしれない。

 ウリハダカエデに実が付いている。スギに巻き付いたツルアジサイの枯れた花が残っている。ミヤマガマズミの赤み実、マムシグサ、ツルニンジン、クロタキカズラ、ノイバラの実。シビト谷付近は道路工事中だった。登山口から1時間ほどで二軒小屋。曇り空にサバノ頭が見える。

 県道を進み、10分ほどで藤本新道入口。入口の道標に十方山まで3時間とある。スギの植林地を登る。途中に「この道は、地主さんのご好意により新たに開いたルートです」とのプレートがある。ガマズミの真っ赤な実がある。ヒノキ林を通る。40分ほどで尾根の登山道に出る。

クロタキカズラ
ミヤマガマズミ

 カザゴヤキビレのブナ林を通る。南側が開けているが、藤十郎の尾根にガスが掛かる。ツルリンドウの花が咲く。振り返ると、南の尾根には雲が掛かる。北側が開け、恐羅漢山スキー場が見える。尾根は雲で覆われている。彦八の頭三角点へのササが刈られ、道が開かれていた。三角点から東側が開けている。市間山方向は雲が下りていた。

 引き返して登山道に戻る。東側が開け、恐羅漢山が近づいてくる。彦八の頭から30分ほどで1166mピーク。東側の木が伐採され、展望がある。山腹に恐羅漢公園線が見え、その先に本郷の里が見える。鍋山、市間山の峯の背後に山並みが続く。

 ピークから下ると、ミズナラの大木がある。展望地に出ると内黒山が近い。県道が眼下に縫う。ナナカマドの実がまだ枝に残っていた。カザゴヤキビレから1時間半ほどで内黒峠。西中国山地に足跡を残した加藤武三の碑に新しい花が手向けられていた。

オタカラコウ
アキチョウジ

 県道を少し進み、草薮になっているコンクリートの坂を下る。苔むして滑りやすい。ロープを持って下る。石を敷き詰めた地点から植林地の登山道に入る。途中、山道が崩れ、迂回する縄が張ってある。山道はソトグロ谷水源からイタホシ谷を下る。下って行くと、植林地の中に水田跡の石垣が残っている。キバナアキギリの花があった。

 しばらく下り、堰堤に出る。大岩を止める岩止め堰堤になっている。堰堤から林道を下る。ニガナが多い。津波橋を通り、ナカノ橋を渡る。途中、谷で顔を洗いウラオレ橋に出た。集落に出ると青空が覗いていた。内黒峠から1時間半ほどだった。

ナナカマド
アキノキリンソウ
サラシナショウマ
アケボノソウ
ウバユリ
コバノフユイチゴ
トガリアミガサタケの仲間
ツルリンドウ
ツルアジサイ
マムシグサ
ツルニンジン
ノイバラ

地名考

 十方山の記録は年代順に以下のようになっている。

@「匹見八幡宮祭神帳」(十方山 慶安8年=1655年 『石見匹見町史』)

A「庄屋萬帳」(十方山 1662年 『吉和村誌』)

B「芸備国郡志」(十方辻 1663年)

C「戸河内森原家手鑑帳」(十方山 1710年)

D「庄屋萬覚書帳」(十方山、西十方山峯 1712年 『吉和村誌』)
 十方山 往還より弐里弐町
 西十方山峯 往還より四里弐町 石州境 山県郡境

E「吉和村御建野山腰林帖」(十方山、西十方山 1725年)

F「日本書記通証」(十方山 1762年)

G「松落葉集」(十方頂 1768年)

H「佐伯郡廿ケ村郷邑記」(東十方・西十方 1806年)

I「石見八重葎」(十方山 1816年)

J「石州古図」(石見国絵図 十方山 1818年)

K「芸藩通志」(十方山 シッハウサン 1825年)

 などに記録がある。


 @「匹見八幡宮祭神帳」によると、

 「山田郷内(匹見)の東村には、加江(かえ)ノ川が流れておる。その源泉は、芸石の境を限る広見河内の奥にそびえたつ十方山から流れ下っており、住民の飲料水として、人々ののどをうるおしておる…(『石見匹見町史』)。

 広見川は古代には「加江ノ川」(カエノカワ)と呼ばれており、広見川の奥に十方山があることから、旧羅漢山を十方山と呼んでいた。

 B「芸備国郡志」に、「其山突兀…見北海往来之船舶」とある。「突兀」は「山や岩などの険しくそびえているさま」の意で、旧羅漢山は、西面は巨石群で、その頂きが岩峯になっている。山頂からは日本海が見える。「芸備国郡志」の十方山は旧羅漢山そのものである。

 F「日本書記通証」には「石窟」とあり、旧羅漢山の巨石群が石窟に当てはまる。

 J『石州古図』(下図)では、春日山と広見山の間に十方山があり、この山は旧羅漢山と思われる。

『石州古図』(石見国絵図) 1818年
道川村・下道川村に春日山・十方山

(島根大HP)


 十方山の山名が、「匹見八幡宮祭神帳」から始まったと仮定すると、「十方の展望」がある山の意ではなく、旧羅漢山に山名の由来があると思われる。

 匹見町の東光山和田寺(浄土宗)に六十六部の供養塔といわれる石造の阿弥陀(あみだ)如来像がある。坐像の蓮華(れんげ)座の中央に六十六部供養と陰彫され、蓮華座の右側面に「宝永七年(1710)寅三月三日」とある。また左側面には「施主・教水」という刻銘がある…和田寺が、浄土宗の三祖といわれている記主(きしゅ)禅師が嘉禎年間(1235‐37)に開基したといわれる名刹(めいさつ)だったことから、納経地として足を向かわせたという背景があったのかもしれない(「まなびや通信」HP)。

 記主禅師は、天台・密教を学び、比叡(ひえい)山で受戒し、天台、倶舎(くしゃ)、法相(ほっそう)、禅、律などを学んだ。


 和田寺の南東100mの所に山伏墓と呼ぶ遺跡がある。その南東10mには和田古墳がある。山伏墓から縄文、弥生の土器、石器のほか、7世紀後半の須恵器、寛永通宝(1636年に創鋳)などが発掘された。

 「臼木谷に和田名という名田が残されておる…和田名は匹見東村、和田寺所有の名田を意味する」

 「和田寺は文化三年(1806)全山を焼失した…歴代住僧の墓が三基遺っておる。宝永七年(1710)三月三日六十六部供養、文化六年(1809)巳年明連社得誉上人、心良和尚五月二十日、文政十二年(1829)丑年明連社起誉上人秀岡三月十五日、安政元年(1854)寅閏七月十四日済誉和尚」

 「元禄のころ当山は、石見三十三ケ所の札所となり、御詠歌として、『高嶺より光に向ふ日の谷の山の峯より音も絶えせぬ』が遺されておる」

 「その間の消息は、次の文書で知られる 『留守居田中大道ト申ス者、信徒協議ノ末、十方ノ信施ヲ募リ、五間四面ノ本堂ヲ再建シ、本尊ヲ安置シ居リ候』 和田寺住職」(以上『石見匹見町史』)。

 六十六部は、法華経を六六部書き写し、日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行した。六部ともいう。1700年代の初めには匹見でも行われていた。


 吉和にも六部地蔵がある。吉和地域では文化4年(1807年江戸時代末期)に房五郎が行者となっている。(吉和公民館HP)

 吉和田中原の六部地蔵には次の字が刻まれている。

 天下泰平
 奉納大乗妙典経日本廻国
 日月清明

 十方施主

 行者 当村 房五郎

 文化四年卯年十一月(1807年)

 
 「十方旦那」と記された石塔があることから、「十方施主」とは、全ての人の寄進、一般庶民の寄進のことと思われる。

 
六部地蔵(吉和の田中原)

下段に十方施主

 お遍路さんの装束のひとつである菅笠に、「迷故三界苦・悟故十方空・本来無東西・何処有南北」と書かれている。

 「迷うが故に三界は城 悟るが故に十方は空 本来東西無く 何処にか南北あらん」

 私たち人間は、普段、迷いという名の城の中に生きている。しかし、仏のこころで生きるようになれば、ほんとうの意味での「自由」というものが見えてくる。本来、「いま」そして「ここ」には、東も西もなく、南も北もない。果てしない自由が広がっているだけである(「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」)。

 「十方」は、大宇宙のどこでもという意味がある。山名としての十方山は意外になく、山号としての霊場の十方山は多い。

 十方山は羅漢山ともいう。羅漢は阿羅漢(あらはんの略)で、サンスクリット語の「アルハット」が語源。「…するに値する人」「受ける資格のある人」という意味。これから発展して「修行を完成して尊敬するに値する人」「悟りを得た人」「悟りをひらいた高僧」を指す。

 「栃木県安蘇郡野上村(田沼町)の猟師の秘伝とされた呪文がある。「メイコサンガイジョ/ゴクウシッポウカイ/ムトウザイナンポク/アビラオンケン」という。

 大殺生のあとでワタヌキをする前に、山の神に対して唱える毛祭の詞である。これは山の神のお産を助けた小ナジンの唱えた呪文であるから、大ナジンの用いたスワノオンよりはこの方を山の神が喜ばれるというから、ここでも狩人に二流ありと伝承されていたのである。

 この資料はだいぶ頽れたままの伝えらしく、実は次のような一種の偈(げ)であったかと思う。すなわち迷故三界苦・悟故十方空・本来無東西・何処有南北とでも復原できるかと思われる」(「民俗語彙データベース」)。

 「悟故十方空」は上記にあるように、「仏のこころで生きるようになれば、ほんとうの意味での自由というものが見えてくる」の意である。三葛の猟師による熊祭りでもマタギや密教の影響を受けた呪文が残っている。南の五里山には「ヤマダチ」と呼ぶマタギが使う地名がある。

 十方山の地名は密教や猟師、マタギなどのとの交流から生まれたものかもしれない。
 

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カシミール3Dデータ

総沿面距離18.4km
標高差736m

区間沿面距離
那須集落
↓ 6.2km
十方山
↓ 4.4km
二軒小屋
↓ 2.0km
カザゴヤキビレ
↓ 3.0km
内黒峠
↓ 2.8km
那須集落
 

 
 
 
1166ピーク南から
恐羅漢山スキー場
1166ピークから戸河内の里を望む
  
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)