山歩き

十方山林道…ボーギノキビレ…広見林道…R488
2016/5/14

長者原…押ヶ峠…祠…マゴクロウ谷…ボーギノキビレ…オオアカ谷…甲佐家跡…御境…判城橋…長者原

十方山林道に入る
伐採されたスギ 押ヶ峠
十方山林道の開地から見える十方山、黒ダキ山の峯々
祠 山の神
細見谷左岸ヘイフリ谷落口の巨石
カネヤン原下ノ谷の堰堤
タキワケ谷
細見谷
十方山林道を進む
ワサビ田上流の堰堤
マゴクロウ谷入口の道標
谷を進む
ボーギノキビレ 横川越
植林地をひたすら下る
植林地の中の大きいトチノキ
広見林道に出る
広見川のゴルジュ
ジョシ谷落口の橋桁
オソゴエ谷左岸の石垣
広見川左岸の山腹は植林地
山崎屋跡地
広見林道にシマヘビが多い
半四郎山登山口
甲佐家跡
甲佐家跡の石碑
広見林道入口
青路頭
島大林道入口
御境
判城橋
判城橋下流に倒木が続く
6:35 長者原 気温8度 晴れ
 

7:20 押ヶ峠
8:05 山の神(祠)
9:40 マゴクロウ谷
10:45 ボーギノキビレ・横川越
12:05 オオアカ谷入口
12:35 半四郎山登山口
12:40 甲佐家跡
14:30 島大林道入口
14:40 御境
15:00 判城橋
15:20 長者原


 大向長者原林道の終点から十方山林道に入る。ミヤマガマズミ、オトコヨウゾメ、ヤマフジなどが咲いている。コバノミツバツツジの花はもう終わり。林道にサワグルミの花穂がたくさん落ちている。40分ほどで押ヶ峠。峠は3月には倒木で覆われていたが、すべて伐採され、取り除かれていた。

 植林地の林道を下ると、開地から十方山と黒ダキ山の峯々が見える。五里山の1064ピーク西の鞍部に上がる谷には滝が見える。林道は谷を回りみ、カーブミラーの地点まで東へ進む。ここから十方山林道はスキヤドウの谷を大きく迂回して、オシガ谷へ戻ってくる。カーブミラーから林道をショートカットして、直ぐ下のオシガ谷の林道へ下りる。

オトコヨウゾメ
ミヤマガマズミ

 オシガ谷を下る十方林道も、3月にはあちこちで倒木に覆われていたが、やはり除去されていた。押ヶ峠から40分ほどで山の神の祠。日が射し始めた祠は、気温16度で少し暑かった。祠の前の林道の水溜りには、オタマジャクシが黒い塊になって集まっていた。

 林道は祠から一旦下る。谷へ下りると気温は14度で、林道は緩やかな登りになる。細見谷左岸のヘイフリ谷の落口には巨石がある。カネヤン原下ノ谷の堰堤を過ぎる。カネヤン原を過ぎると、右手にタキワケ谷の滝が見える。バイクが追い越して、細見谷の上流へ向かって行った。

 林道にミズキのツボミが落ちていた。サワグミの長い花穂も多く落ちている。ケヤキ原、オバコ谷のワサビ田は管理されているようだった。堰堤を過ぎる。この辺りにはオヒョウが見られる。祠から1時間半ほどでマゴクロウ谷。バイクが戻って来なかったので、ケンノジ谷から先の林道の倒木は取り除かれていると思われる。

マゴクロウ谷入口の道標 04/11/13
横川越 恐羅漢山
登山口

 休憩してマゴクロウ谷に入る。入口に古い道標が残っている。もう読めなくなっているが2004年に通った時の写真を見ると、「横川越 恐羅漢山 登山口」と書かれている。地形図には破線路が描かれている。この破線路はボーギノキビレから北の尾根に続くものと、オオアカ谷を下り広見林道に出るようになっている。昔はここが恐羅漢山の登山口の一つだったようだ。

 笹薮から谷へ下りる。谷筋を進み、水源から笹薮を分けて1時間ほどで鞍部のボーギノキビレに出た。尾根上は笹薮だが、島根県側はスギの植林地になっている。植林地に入ると、エンレイソウが実を付けていた。長い植林地を下る。所々、ヤマシャクヤクが咲いている。植林地によく見られる花である。ヤマシャクヤクはブナ林域の花と説明されているが、植林地で群生しているのをよく見たことがある。

ヤマシャクヤク
ウスギヨウラク

 どこまでも植林地が続く。チゴユリも多い。谷筋に扁平な果実がたくさん落ちていた。見上げるとオヒョウであった。イワクラ谷を過ぎて、大きいトチノキのところに出た。林道までもうすぐである。植林地の間に見える滝の水量が多かった。鞍部から1時間20分ほどで広見林道に出た。

 広見林道を進む。左岸のコアカ谷を過ぎると、広見川はゴルジュになっている。ゴルジュの上にアオダモが咲いていた。川中の岩場に下りると、ゴルジュが見渡せる。さらに林道を進むと、川中の岩に橋桁が残っていた。左岸はジョシ谷、右岸はオソゴエ谷だった。オソゴエ谷の左岸、右岸に水田跡の石垣が残っている。ジョシ谷にはワサビ田がある。「ひきみ川」(春日野満)によると、ジョシ谷は「地よし谷」と呼んだようだ。この辺りは「地良」なのかもしれない。

アオダモ
ヤマフジ
ミツバウツギ

 広見川左岸の山肌は濃い緑の植林地になっている。林道は小屋が残る山崎屋跡地を通る。林道に大きいシマヘビが多い。半四郎山登山口を通り、488号線折り返し点の甲佐家跡に出る。オオアカ谷から1時間半ほどであった。

 一休みして国道を進む。広見石橋を渡り、小屋谷橋、新山上橋を渡る。国道はハチガヒラ谷の奥へ入る。開地から青路頭が見える。小屋跡を過ぎ、松林の下にマツボックリの古い食痕が落ちていた。島大林道を過ぎると、国道は緩やかになる。甲佐家跡から2時間ほどで御境。

 御境にアオダモが咲いていた。バンジョウ川水源を下る。判城橋を過ぎると、スギが川を跨いで何本も倒れている。雪の重みによるものか。今年は林道を塞ぐ倒木が多かった。倒れたスギ、ヒノキが多かった。御境から40分ほどで出発点に帰着。

シロヤブケマン
ミヤマキケマン
ツリバナ
ウリハダカエデ
オククルマムグラ
細見谷のオヒョウ
オヒョウの果実 オオアカ谷
サワグルミの花穂
ニリンソウ
ニワトコ



地名考

 石見弁、出雲弁に「こる」がある。「木を切る」の意味がある。

 石見弁「こる」=木を切る(『石見方言(益田方言)』HP)
  用例「薪をこりに山へいきんさった」

 出雲弁「こる」=薪用の木を切る(『出雲弁の泉』HP)
  用例「そろそろ木ーこってこにゃーいけんのー」

 万葉集に「こる」「こり」がある。いずれも「木を切る」の意味で使用されている。

 万葉集の用例

番号
(地名)
訓読
(意味)
仮名 原文
1403
(奈良)
薪伐り
(たきぎ切り)
たきぎこり 燎木伐
3232
(奈良)
木伐り
(木を切り)
きこり 木折
3433
(神奈川県)
薪伐る
(たきぎ切る)
たきぎこる 多伎木許流



 マタギと焼畑
 (焼畑は山の草木を先ず切る)


 『彼ら(マタギ)が定住を始めると、焼畑を行って食料自給を図った。東小椋村の南畑、北畑という呼称が、それを示している。焼畑では、ソバ、ヒエ、アワ、大豆などを栽培していた…

 焼畑は、山の草木を切って枯らしてから焼き払い、その時できる灰を肥料として作物を作る畑のことである。一般に4年を一区切りにして、後は草木の伸びるままにして山に戻す。それは地力の衰えと雑草が生えて作物が育たなくなるからである。

 民俗学者の宮本常一は、「焼畑習俗を持つ村々には狩を行っているものが多い」と指摘している。下北半島のマタギ集落で有名な畑集落の名の由来は、焼畑を盛んに行っていたからである。また、マタギの本家・阿仁周辺でも焼畑が多く見られた。阿仁では「カノマキ」といい 一年目はソバ 二年目からは大豆、小豆、アワ、キビ、大根、赤カブを植えた。

 こうした焼畑耕作の普遍化が、狩猟採集民を山間地に定住させ、水田稲作に直接影響されない生活をうちたてたと言われている。この焼畑は、古くは縄文時代から行われてきた歴史を持っている』(『東北の基層文化を探るE』あきた森づくり活動サポートセンターHP)。



 匹見の山焼き

 五里山周辺は黒ボク土で縄文期、山焼き、野焼きが行われ、尾根はススキ原であったと考えられる。現在も尾根上にススキ原が点々とある。

 匹見の山には、山頂周辺に防火地帯があり、山焼きが近年まで行われていた。山焼きの後にはまずワラビが生えてくる。

 「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものであるが、近時焼山を行わないので生産量は減じた。蕨はそのまま乾したが、ぜんまいはあくがあって虫がつくので、一旦灰汁で煮た上乾かして貯蔵する。七村・矢尾・三葛・石谷等が名産で美味。両方とも煮〆にして常用する」

 「わらび掘りのあとへは、必ずシズラの苗を補植し、毎年山を焼くことが肝要であった。こうして漸く七〜八年を経過すると、再び掘り取ることが出来、放任して置くと十四〜五年も経過してやっと蕨が生えはびこるのである…

 わらびの根を掘るには一つの骨があった。大体わらびの根は地下一メートルの深部を這っているから、勢い深く掘り下げねばならぬ困難さがある。従って平面を掘るような無駄をしないで、傾斜面を選んで能率的に操作をはじめなければならない」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。

 ワラビを掘るには掘る道具が必要だが、それが打製石斧である。

 「上ノ原遺跡(匹見町萩原)で顕著なもう一つの型式は打製石斧である。上ノ原遺跡の打製石斧は、薄手であり分厚くない。打製石斧は、ジネンジョなどの根茎類を採掘する掘り棒の先に付けた刃先なのか、落とし穴猟掘削具なのかよくわからないが、一般には掘り棒としての用途が想定されており、縄文早期の生業にかかわる遺物である」(『島根県匹見町上ノ原遺跡の発掘調査』匹見町教育委員会)。

 西中国山地の黒ボク土は尾根上に多い。大神ヶ岳から五里山、横川越の尾根に黒ボク土が広がっている。縄文期のワラビの根掘りは、掘りやすい山の斜面で行っていたと考えられる。縄文土器にワラビ文があり、ワラビを掘るトンガと似た打製石斧が出土していることは、縄文時代、ワラビは匹見地域において重要な食料の一つであったと考えられる。

三葛の「熊祭り」

昭和57年(1982)ごろ行われた熊祭り
座しているのが大谷瀧次郎氏

(『匹見町誌・遺跡編』より)

 三葛では東北マタギに似た風習の熊祭りが行われていた。

 「三葛地区には『熊祭り』が行われていた…昭和57年(1982)ごろ大谷瀧次郎(故人)は…熊を捕った場合、その狩猟具の槍などを用いて熊の周りを囲むように七本立て…『アブラウンケソー』と三回唱えた」(『匹見町誌・遺跡編』)。

 「アブランケソワカ」「アビランケインソワカ」は阿仁・仙北・鳥海・雄勝のマタギ言葉で、「阿毘羅吽欠蘇婆訶」と表わし、マタギたちが山で唱える呪文で、地水火風空を意味するサンスクリット語。大日如来の真言の呪文である(『マタギ 消えゆく山人の記録』)。

 三葛の「熊祭り」の風習は、大神ヶ嶽に女神である三坂大明神が祀られていることとも関連があるのではないか。マタギが信仰する山の神は女神であり、獲物をしとめたときなどに特別の呪文を唱え、儀式を執り行った。

 マタギにはいろいろな呼び名がある。ヤママタギ、マタハギ、キマタギ、マタオニ、ヤマダチ、マトギなどである。
 五里山周辺にあるヤマダチ谷、マド谷などはマタギ言葉とも考えられる。

 マタギは山神をサンジンとも呼ぶ。三葛の奥にある大神ヶ嶽のダイジンもマタギ言葉かもしれない。大神ヶ嶽の東にある五里山、ノブスマ谷、ケンノジ谷などもマタギ言葉である可能性がある。

 山焼きの山は、木を「こる」山でもある。
 五里山のゴリ=コリは、「木を伐る」山の意であると考えられる。



 鬼古里山(キコリヤマ)周辺は縄文の宝庫

 岩手山県鬼古里山の麓の滝沢村から縄文全期の土器が出土している。早期・前期・中期・後期・晩期に分けられている。石器もまた同じように、極く粗末なものから時代の下った精巧な磨製まで出土し、色とりどりである。しかも弥生式のものまで発見されているので、縄文式八千年・弥生式二千年・計一万年もの長い年月の多様な土・石器などの遺物が出土している(『滝沢村誌』HP)。

 岩手県には沢内村、花巻市、大槌町にマタギ集落があった。マタギ宿は鬼古里山の西の沢内村、雫石にあった。

 鬼古里山周辺は黒ボク土であり、縄文期から山焼きが行われた。
 鬼古里山は、文字通り「木伐り」山の意と考えられる。

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カシミール3Dデータ

総沿面距離23.9km
標高差396m

区間沿面距離

長者原
↓ 2.1km
押ヶ峠
↓ 2.4km
山の神
↓ 5.7km
ボーギノキビレ
↓ 4.0km
甲佐家跡
↓ 9.7km
長者原
 

 
五里山島根県側の黒ボク土 Azo−2=茶色 Azo−1=薄茶網目 
小郷山からボーギノキビレまで県境尾根に黒ボク土が続いている。

(国土交通省土地分類基本調査土壌図)
 
五里山広島県側の黒ボク土 Ysi−1=赤茶色
 
鬼古里山(キコリヤマ)の黒ボク土 印 Amh−1、Amh−2、Amh−3、Tak、Yat、Ous、Yga
鬼古里山周辺は、Ane、Nan土壌を除いて、すべて黒ボク土
(国土交通省土地分類基本調査土壌図)
 
林道から見た十方山と黒ダキ山の尾根
オオアカ谷のトチノキ
R488号線から見た青路頭
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)