山歩き

日の平山…立岩山…市間山…立岩ダム
2015/12/20

駄荷…大井原山三角点…日の平山…立岩山…市間山…大休ミの丘…立岩ダム…駄荷

■大井原山(オオイハラヤマ)860.5m:広島県廿日市市吉和字駄荷(点の記 点名:石原=イシワラ)
■日の平山(ヒノヒラヤマ)1091.4m:広島県佐伯郡吉和村字吉和東(点の記) 廿日市市
■立岩山(タテイワヤマ)1135.0m:広島県山県郡筒賀村大字上筒賀字立岩山(点の記) 安芸太田町
■市間山(イチマヤマ)1108.8m:広島県山県郡筒賀村大字上筒賀字市間山(点の記) 安芸太田町

雪化粧の駄荷集落
霜とモヤによる女鹿平山の薄化粧
県道から林道に入る
植林地を進む
大井原山三角点
尾根と林道が接する
雪の尾根を進む
日の平山三角点
分岐の道標
雪の深入山が見える
ノウサギの足跡が続く尾根を進む
岩尾根に出る
立岩観音=ミノジ観音(実乗)
立岩貯水池と十方山
日の平山と冠山
立岩山
市間山と雪の深入山
押ヶ垰集落
急坂を下る
根元が腐り東側に倒れたブナ
ブナの尾根
ブナのクマ棚
市間山
尾根から急な斜面を下る
植林地の横を通る
上部が折れたブナ
境谷に降りる山道
大休ミの丘に出る
立岩ダムに下るジグザグ道
立岩ダム右岸に下りる
立岩貯水池と水天宮
ケルンコル、ケルンバットと押ヶ垰集落
立岩ダム右岸からジグザグに上がる山道
立岩貯水池と女鹿平山
ニノワラノリュウズ
土石止め堰堤の上の剥き出しの崖
土石止めの堰堤壁
ヒノ谷落口
7:05 駄荷集会所 気温-8度 晴れ後曇り
 

8:10 大井原山三角点
10:20 日の平山
11:15 立岩山
12:20 市間山
12:30 下降地点
14:00 大休ミの丘
14:20 立岩ダム
15:15 十方山登山口
16:10 駄荷集会所


 気温マイナス8度の凍える駄荷集会所を出発。駄荷集落は薄く雪化粧している。駄荷橋を渡り、県道296号線を進む。女鹿平山は低温のためか、薄いモヤが舞っているように白く霞む。吉和川と山々は墨絵の世界であった。道路脇に小さいお地蔵さんが祀ってある。

 県道から大井原山へ上がる林道に入る。林道は植林地をジグザグに上がっている。林間から覗く女鹿平山スキー場に日が射し始めていた。林道は曲流点で新しく分岐しているところがある。

 雪道にノウサギの足跡が続く。林道傍に大井原山の三角点があった。四叉路を右へ下り、次の分岐の新道を左に上がる。林道が下り始めた所で植林地の尾根に上がる。尾根を進むと林道と接したが、そのまま尾根を進んだ。

県道沿いの地蔵さん
コナラのクマ棚
クマ棚のコナラの木の下とそれに向かう足跡
近くのクマ糞

 コナラにクマ棚があった。その木の下が掘り返されている。周辺にクマのような足跡がある。近くに古いクマ糞があった。西面から南面の尾根に出ると、ササが立っている。山の上部は笹薮である。折れたクリノキに実が付いていた。

 林越しに十方山と白い深入山が見える。3時間ほどで日の平山に出た。尾根を北へ進む。10分ほどでタテイワ谷から上がる登山道の道標。立岩山まで50分とある。日が照るにつれ、スギやヒノキの葉に留る雪が落ちてくる。

 内黒峠へ上がる山腹の道路の上に、真っ白い深入山と苅尾山が頭を出している。ノウサギの足跡が続く雪道の尾根を進む。岩尾根に入ると展望が開けてくる。背後に日の平山の尾根が続く。尾根の左手に鬼ヶ城山、板敷山、青笹山の峯が見え、眼下には坂原の集落が見える。

ヤマグルマ

 岩峯を進み、立岩観音の前に出る。以前はここに祠があったが、今は積石があるだけである。立岩観音の裏に回り、崖を登ると展望が開ける。眼下の立岩貯水池は凍っていない。十方山は薄化粧している。日の平山の先に冠山の峯が続く。さらに岩峯を進むと山頂に出る。日の平山から1時間ほどであった。

 市間山の左手に白い深入山が見える。十方山の下、押ヶ垰断層帯の上に押ヶ垰の集落がある。南側は薄くぼやけるが瀬戸内の島が見えた。山頂から北の峯を進む。シケの谷水源の峯上はキハダの群生地になっている。そこから滑る雪の急坂を下る。

 この辺り、大きいブナの多い峯である。大きいブナが東側に倒れていた。根元が朽ちていた。ブナのクマ棚があった。爪痕は小さい。先週登った十方山西のブナの爪痕も小さかった。立岩山から1時間ほどで市間山。林越しに深入山が見えるが、展望はない。

小さいブナの爪痕

 10分ほど引き返して立岩ダムへ下る。境界線に黄色のテープが続くが、途中から境界に沿って境谷へ降りていた。境界線を離れて西の尾根を下る。ヤマドリが二羽、直ぐ傍を鳴きながら飛び立つ。

 途中、ツガが多い尾根を通る。植林地を通り、929ピークを下ると上部が折れた大きいブナがあった。林の間に立岩山が見える。イノシシが幹の回りを丸く掘下げた跡があった。境谷から上がる山道に合流。

 山道は湿地帯の大休ミの丘(地元ではユズリハとも呼ぶ)に出る。湿地帯を横切り、西の尾根端に出ると、立岩ダムに下りるトラバース道に出る。この道は送電線鉄塔に入る道である。尾根の降下地点から2時間ほどで立岩ダムに出た。

イノシシが掘った円状の跡

 ダムを渡ると貯水池に浮かぶ水天宮が見える。ダムの水は全く落ちていなかった。押ヶ垰断層帯の説明版の先のケルンコルに押ヶ垰集落が見え、その先にケルンバットが見える。立岩ダムの右岸に、先ほど通ったジグザグ道が上がっているのが見える。

 県道を進む。日当たりの良い所にはフユイチゴがたくさん実っている。貯水池の上流に女鹿平山が見える。大谷川右岸に錫杖を持ったお地蔵さんが祀られている。台座に三名の世話人の名が見える。途中、崖が崩れている所があった。

 ヤブツバキの花がもう散り落ちていた。ニノワラノリュウズの滝を見る。一ノ原の佐原屋家の墓の前を通る。十方山登山口を過ぎた所に土石止めの堰堤壁が作られていた。山の上部は岩が剥き出しになっている。小松原橋を渡り、立野キャンプ場入口を過ぎた先に崩れかけた祠がある。吉和川左岸のヒノ谷落口を見て、立岩ダムから2時間ほどで駄荷集会所に帰着。

一ノ原の佐原屋家の墓
壊れた祠 立野キャンプ場東の県道沿い
 
 
ヤブツバキ
ツルマサキ
フユイチゴ
アセビ
ヒヨドリジョウゴ
ヤマボクチ
ミヤマガマズミ
ヤブコウジ



地名考

 十方山は昔から有名な山であったようだ。

◎匹見八幡宮祭神帳(十方山 慶安年間=1648−52年 石見匹見町史)
◎「庄屋萬帳」(十方山 1662年)
◎「芸備国郡志」(十方辻 1663年)
◎「戸河内森原家手鑑帳」(十方山 1710年)
◎「庄屋萬覚書帳」(十方山 1712年)
◎「吉和村御建野山腰林帖」(十方山・西十方山 1725年)
◎「日本書紀通証」(十方山 1762年)
◎「松落葉集」(十方頂 1768年)
◎「佐伯郡廿ケ村郷邑記」(東十方・西十方 1806年)
◎「石州古図」(石見国絵図 十方山 1818年)
◎「芸藩通志」(十方山シッハウサン 1825年)

 などに記録がある。

 「十方」について、浄土真宗の解説を見ると、「十方とは、四方(東西南北)、四維(北東、北西、南東、南西)の八方に、上・下を合わせた十の方角ということで、大宇宙どこでも、という意味」。

 山名としての十方山は意外になく、京都にあるが山の持ち主が後から付けた名のようである。しかし、霊場の十方山は多い。

●第五番札所浄土宗 十方山大徳寺
●十方山 無碍光寺(北海道北広島市)
●第21番十方山同聚院 臨済宗東福寺派 京都市東山区
●第十六番十方山 浄橋寺
●十方山光照寺 西津軽郡
など。

 「松落葉集」に十方頂(じゅっぽうちょう)と題した宝雲(ほううん)の詩がある。

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 東天は仙嶽(せんがく)の雪
 西海は馬関(ばかん)の潮(うしお)
 山頂にして頂なるを知らず
 杳然(ようぜん) 九霄(きゅうしん)に坐す
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 ここ十方山の頂に立てば、遠く東の空には仙人でも住むかと思われる高い山が雪をいただいているのが見え、西方ははるかに下関あたりの海原(うなばら)まで見渡せる。このように十方のながめがきくので身は山頂にありながら、山頂にあるとは思われず、はるか天の最も高い所にいるような気がする。(広島大学デジタルミュージアムから)

 下関の海原が見えるとは思えないが、この詩には十方山の展望の良さだけに留まらず、「十方」に込められた仏教の意を詠っているように思われる。

 吉和には六部地蔵がある。天下泰平、子孫繁栄の極楽往生の祈願をしながら全国の霊場を廻国した巡礼者を祀っている。吉和地域では文化4年(1807年江戸時代末期)に房五郎が行者となっている。(吉和公民館HP)

 吉和田中原の六部地蔵には次の字が刻まれている。

 天下泰平
 奉納大乗妙典経日本廻国
 日月清明

 十方施主

 行者 当村 房五郎

 文化四年卯年十一月(1807年)

 昔は霊場の願いを込めて「十方山」と呼ばれていたのかもしれない。

六部地蔵=吉和田中原
中段・下段に以下の字が見える

天下泰平
奉納大乗妙典経日本廻国
日月清明

十方施主
六部地蔵左側
行者 当村 房五郎
六部地蔵右側
文化四年卯年十一月
(1807年)

 大谷川右岸に錫杖を持つ地蔵がある。錫杖(しゃくじょう)は、巡礼僧や巡礼者が携帯する道具の一つであった。

 「古代の日本の地方の国名(例えば讃岐国)が六十六国あることより各国の有名寺社を参詣し,観音経を奉納する巡礼があった。日本廻国六十六部という。略して六十六部とか六部と呼ばれていた。図1に安藤広重が浮世絵東海道五十三次の蒲原に描いた六十六部の図像を示した。背の高い笈を負い,中に仏具や仏像を安置していた。六十六部は平安時代から続くと考えられており,明治4年(1871)に当時の政府によりその宗教のあり方が否定されることにより,宗教の系譜としては絶えてしまった」(『日本廻国六十六部と四国遍路』稲田道彦)。

 大谷川右岸の地蔵は吉和田中原の六部地蔵に関連ある地蔵と考えられる。何故この場所に祀られたのであろうか。大谷川にヒキジノオカがある。ヒキジノオカの延長線上の尾根に古い積石がある。これは地蔵尊に関連するものではないだろうか。

 十方山と同様、霊場としての引地山が全国にいくつかある。

錫杖を持つ地蔵 大谷川右岸
 
日本廻国六十六部の図 錫杖を持つ巡礼者
 
十方山尾根の積石 2011/2/19

 十方山の初見は匹見八幡宮祭神帳(慶安年間=1648−52年)にあり、匹見村では旧羅漢山を十方山と呼んでいた。

 次に、『芸備国郡志』に十方辻がみられる。以下のように、前後の文脈をみると、伴蔵原の後に十方辻、その後に吉和の女鹿平山が記されている。

「〇波牟佐宇原 在佐西郡而隣周防大河流出…

〇十方辻 倭俗道路四通以日辻 十方辻在 佐西郡、南連 吉和、東北還 山縣郡筒賀村、西北接 石州境比喜美村、南西隣 周防境宇佐、其山突兀 四時常有雪、夏六月之中暫消、自 山頭 臨 見北海往来之船舶云々

〇佐井之塔村…自吉和村赴石州之道有大山日米加比良山往来…」(『芸備国郡志』国文学研究資料館HP)。

 辻は道路が四方に通じていることとして、次に十方辻の境界を記している。国境の説明は十方辻の境界というより、吉和村の境界を説明しているようにも思われる。

 「其山突兀」「見北海」は高く突き出た様を表して北に海が見えるとしている。そのような山は十方山よりも、冠山か旧羅漢山の方が相応しく思われる。

 匹見町の東光山和田寺(浄土宗)に六十六部の供養塔といわれる石造の阿弥陀(あみだ)如来像がある。坐像の蓮華(れんげ)座の中央に六十六部供養と陰彫され、蓮華座の右側面に「宝永七年(1710)寅三月三日」とある。また左側面には「施主・教水」という刻銘がある…和田寺が、浄土宗の三祖といわれている記主(きしゅ)禅師が嘉禎年間(1235‐37)に開基したといわれる名刹(めいさつ)だったことから、納経地として足を向かわせたという背景があったのかもしれない(「まなびや通信」HP)。

 記主禅師は石見、安芸(広島県)地方にて、10年間教化活動を行った。

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カシミール3Dデータ

総沿面距離20.2km
標高差657m

区間沿面距離

駄荷集会所
↓ 6.2km
日の平山
↓ 1.5km
立岩山
↓ 1.8km
市間山
↓ 3.2km
立岩ダム
↓ 7.5km
駄荷集会所
 

「芸備国郡志」(国文学研究資料館HP)
 
ヒキジノオカと積石
 
匹見町の東光山和田寺の六十六部供養塔(「まなびや通信」HP)
 
女鹿平山と吉和川
立岩貯水池と十方山
冠山と日の平山
深入山と市間山
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)