7:20 甲佐家跡 気温7度 晴れ
7:35 半四郎山登山口
8:55 向半四郎
9:45 クマノアナ谷鞍部
11:55 ワサビの谷入口
13:50 ワサビの谷の鞍部
15:05 ウシアオ
15:10 ウスヒラガ谷
15:40 広見川の橋跡
16:00 R488
16:10 甲佐家跡
甲佐家跡付近の国道を出発。甲佐家石碑の前を通り、R488折り返し点から広見林道に入る。入口に広見三本栃の道標がある。広見川の小滝を過ぎて、林道は右岸に渡る。植林地の石垣を通りぬけると半四郎山登山口。
登山道はシロワラビ谷の右岸に続いている。植林地の中に水田跡の石垣がある山道を進む。シロワラビ谷の滝が見えてくる。植林地を進み、山道がクマノアナ谷の左岸に渡るところに鳥の羽が散乱していた。
散乱する鳥の羽 |
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タゴガエル |
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登山道はクマノアナ谷の左岸に続く。植林地の中にイノシシのヌタ場があった。茶色いカエルが跳ねる。やがて植林地を抜け、広葉樹の林に入る。林の間から焼杉山、十方山が見える。振り返ると五里山の峯が見える。林を抜けると展望が広がる。
恐羅漢山、焼杉山、十方山、京ツカ山、五里山、冠山、小郷山、大神ヶ岳、安蔵寺山などが見渡せるようになる。登山口から1時間余りで向半四郎のピーク。半四郎山、広見山の峯は紅く染まりつつある。
林の上に春日山の頭が出ている。西側に安蔵寺山、燕岳の峯、その左に立岩山、大神ヶ岳峯、冠山の峯、匹見の里の建物が見える。引き返して登山道を下る。冠山の左手にクルソン岩のシルエットが見える。
アキノキリンソウ |
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イノシシが掘り返した跡 ジヘイ右谷水源 |
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イノシシが幹に擦りつけた跡 |
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青路頭へ峯が続いているのが見える。ヒノキの植林地に入ると、登山道を外れクマノアナ谷鞍部に向かって下る。鞍部は笹薮で、南西の峯は植林地である。谷へ下ると、イノシシが掘り返した跡が続く。木に体を擦りつけた跡もあった。
谷は深く抉られて崩れている。イノシシの跡がどこまでも続く。ジヘイの左谷と合流する手前にワサビがあった。この谷はワサビ田だったようだが、石積みは崩壊して跡形もなかった。地形図の右岸の破線道はスギ林になっている。植林地の中にワサビの葉がたくさん出ていた。
炭焼跡の石積みのところで植林地が終わり、山道は左岸に渡る。ジヘイの谷左岸を下り、ウチミチの谷の一つ上流の無名谷に出る。地形図に破線道のあるこの谷に入ると、ワサビ田の石垣が続いている。この谷はワサビ田の石積みの残る谷であった。
ツルリンドウ |
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ワサビの谷に落ちていた茶碗 |
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ワサビの谷のドラムカン |
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イノシシがワサビを掘り返した跡 |
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谷に瀬戸物の茶碗が落ちていた。地形図の破線道はワサビ田を結ぶ道であったようだ。岩壁のある谷に長い石積みが残っていた。さらに進むとドラムカンが転がっていた。谷の上部に長い石積みが残っていた。石積みが100mほど続いていた。そこにもドラムカンがあった。
本流から分かれて右岸の涸れ谷に入ると、また石積みが続いていた。水は涸れているが、野生化したワサビが葉を出している。まるでワサビ畑のような谷だった。ワサビ畑の谷を登ると、やがてワサビはなくなり水源の谷となる。
2時間ほどでムカイノ谷の鞍部に出た。笹薮の尾根を進み、地形図の破線道を辿った。尾根から下り始めると、山道らしき跡があったが、谷へ下る急な坂道であった。植林地のムカイノ谷水源の急な谷道を下る。イノシシの蹄跡がくっきり残っている。谷の倒木を避けて植林地を下る。
イノシシの蹄跡 |
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ミツマタが花芽をつけていた。尾根から2時間余りかかって、ようやくウシアオに出た。ウシアオの谷の入口はワサビ田跡の石垣が組まれていた。そこから少し下るとウスヒラガ谷で、谷の入口は倒木と崩れてきた土砂で埋まっている。
ツエガ谷を過ぎると石垣が現れる。長い段々になった石垣が続いている。この辺りは鍛冶屋敷跡である。植林地を下り、川の末端に出た。そこは崖になっており、川原へ下りる道の石垣が崩れていた。太い蔓にぶら下がって崖を下りた。流失した橋跡のコンクリートの橋脚が二つ残っていた。
飛び石伝いに広見川の左岸に渡る。川原で一休みして、石垣の残る道を国道に出た。火の谷橋、セイコ谷を渡り、出発点の帰着。
ムカイノ谷のワサビ |
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ナメラダイモンジソウ |
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ミツマタの花芽 |
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モミジガサ |
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ウバユリ |
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シラネセンキュウ |
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ノコンギク |
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タンナサワフタギ |
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■地名考
半四郎山は所有者が甲佐氏なので甲佐山とも呼ばれていたようだ(『西中国山地』)。
大正3年3月、半四郎親子の遭難に、広見の救援隊がシロワラビ谷を登っている(『西中国山地』)。
江戸期、虫ヶ谷から広見に抜ける広見街道があった。
「広見は全く四周から隔絶された別天地である。従って江戸期の通路は、不便きわまるものであった。江田・半田・萩原から虫ヶ谷に通ずる道は、ここから東南に向かって、山中に入り小虫に出る。
ここから東南に向かうと、広見小学校の上に出る。ここから道を東北にしばらく取り、さらに東に歩を運ぶと、芸石の国境を越えて、芸州の佐伯郡に入り、道を東北に向かうと、傍示峠を越えて山県郡の二軒小屋に出る。
さらに広見下から南上すると、五里山の頂上、御坂の国境に出で、芸州の吉和に下ることが出来る」(『石見匹見町史』)。
裏匹見峡によって隔絶された広見は、江戸期には虫ヶ谷、ムカイノ谷が交通路であった。
十方山(恐羅漢山)から広見に「加江ノ川」が流れていた。
「山田郷内(匹見)の東村には、加江(かえ)ノ川が流れておる。その源泉は、芸石の境を限る広見河内の奥にそびえたつ十方山から流れ下っており、住民の飲料水として、人々ののどをうるおしておる…
附言山田郷内東村、有加江乃川。源芸石広見河内奥、自十方山下流而到干此(山田郡匹見八幡宮祭神帳−慶安四年=1651年)」(『石見匹見町史』)。
広見川は古代には「加江ノ川」(カエノカワ)と呼ばれていたようだ。ヒキミの呼名も平安末期に遡る古い地名である。
匹見町には旧石器、縄文、弥生、平安、中世、近世と続く遺跡がある。古代に呼ばれた地名が現代に引き継がれた可能性がある。
水田ノ上遺跡(縄文・弥生)の土偶、ヨレ遺跡(縄文・弥生)の鳥形土製品、円盤状土製品、沖ノ原遺跡の石冠様石器、大神ヶ岳の山岳信仰、三葛地区のマタギの風習に似た熊祭り、内石地区の藁蛇神事など、古く遡る遺物や祀りがある。
「加江ノ川」=カエノカワと呼ぶ地名は、古代から引き継がれてきた地名であるかもしれない。
広見川の象徴は裏匹見峡であろう。ここに広見川の古名が形成されたように思われる。
「オサカエ」「五里ナカエ」は「カエノカワ」と関連があるのかもしれない。
広見川古名
●加江ノ川(カエノカワ)
裏匹見峡を流れる広見川は、曲流する川である。
カシミール3Dデータ
総沿面距離9.3km
標高差556m
区間沿面距離
甲佐家跡
↓ 2.4km
向半四郎
↓ 0.9km
クマノアナ谷鞍部
↓ 2.0km
ワサビの谷
↓ 4.0km
甲佐家跡
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