6:00 柴木 曇り後雨 気温18度
8:10 葭ヶ原
9:30 餅ノ木
10:20 樽床ダム
11:10 十文字キビレ
12:45 田代集落跡
13:00 横川出合
13:55 葭ヶ原
15:40 柴木
柴木橋東の駐車場を出発。柴木集落の山腹に河内神社が見え、その後ろに鬱蒼とした社叢が広がる。三段峡入口の上にサバノ頭が見える。左岸土手にササユリが咲いていた。柴木川第一発電所の横に、白いウツギの花が咲き乱れている。左岸のスギ林を通って、三段峡入口の長淵橋に出る。
三段峡入口付近に板ヶ谷断層が通っている。入口の南側は花崗岩、北側は峡谷を形成する硬い石英斑岩。断層は板ヶ谷から柴木を通り那須集落へ延びている。
長淵からセイカク谷から落ちる姉妹滝に出る。西善寺の坊さんセイカクさんが迷い込んだ谷である。ここから本流は龍ノ口と呼ぶ深く刻まれた谷になる。龍ノ口の出口の右岸にかつての甌穴の跡が見られる。姉妹滝落口より少し低い位置にある。
ササユリ |
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川沿いのウツギ |
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かつて、セイカク谷落口と本流は同一水面上にあった。本流の侵食力が大きいとその川床低下に支流の川床低下が追いつかず、合流点で川床高度に大きな差が生じ急崖を形成し、姉妹滝となった。
硬い岩盤を削った龍ノ口は100mほど続く。両岸の段丘に甌穴跡がある。龍ノ口を抜けると、本流の中に兜石が見えてくる。その上に五立の立岩が見える。赤滝を通り、庄兵衛岩の下のトンネルを抜ける。
皆実高校生徒7名が亡くなった遭難碑の向側に女夫淵がある。女夫淵の水面上10mのところにも甌穴がある。上流右岸にツエオクエキの谷が落ち、そこから200mほど、花崗岩盤を侵食した石樋が続く。
スイカズラ |
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シライトソウ |
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塔岩と二谷の対岸、左岸の関付付近の曲がり角は崩れて、山肌がむき出しになっていた。地形図をみると、関付付近の上部は、かなり大きな崖になっている。崩壊した斜面の先に天狗岩が見える。コアジサイが咲いている。
天狗岩の下の巨石=蓬莱岩を見て、渡船場を通り、黒淵への坂を登る。黒淵は土砂が溜まり、浅くなっている。黒淵を過ぎて、進んでいくと、斜面が崩れた跡があった。
仏岩を回りこみ、800mほどの直線谷を進む。蛇杉橋の北は節理のある硬い岩盤になっており、水平に亀裂が入っている。この岩盤に打ち込んだ支点につり橋が架けられている。この直線谷は断層に沿って侵食したように見える。
「樽床ダムから柴木川第1発電所に通ずる送水路第3 隧道掘鑿工事中、南口(三段峡黒淵東方)に近いところで北西系の大きな断層にぶつかった。断層と隧道方向がわずかに斜交したため、隧道内で特に長く破砕帯が続き、激しい湧水になやまされて工事の著しく難行したことがある。しかしこのような北西系断層は、地形には全く表現されていないものである」(『三段峡と八幡高原 総合学術調査研究報告』)。
コアジサイ |
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オホノキ |
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昭和63年7月21日の戸河内町の記録的な集中豪雨によって、「岩屑なだれ」が発生した。流紋岩に密に発達する節理面が口を開けていて、岩屑なだれによる崩落を避けて、迂回する蛇杉橋と南峰橋が新設された。
直線谷からU字地形に進む。トンネルを抜け谷を回りこむ。対岸に岩壁のある耶源に釣り人が3人入っていた。ちょうど、一番目の釣り人がバラして残念がっているところだった。谷は広い川原になる。涸れたミズナシ谷を過ぎると葭ヶ原。
柴木川の本流で入口から葭ヶ原まで滝はないが、ここから上流、横川川に二段滝、柴木川に三段滝がある。この二つの滝の下流に横川断層が通っている。下流の龍の口、石樋は滝跡と考えられている。
葭ヶ原から柴木川を北へ進む。ホオノキの花が咲いていた。三段滝は東西方向に三つの滝が並ぶ。遊歩道は出崎を回りこんで丸淵に出る。玉緒滝、猪上がらずを通って餅ノ木に出た。昭和7年3月建設の碑がある。
サワギク |
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タツナミソウ |
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餅ノ木の民家に小さい碑があった。「一献 かたむければ 君を思い出す」。
右岸の山道に入り、娘滝を過ぎると大正14年史蹟指定の石碑がある。餅ノ木断層が通る出合滝を過ぎると道は左岸に渡る。川沿いにヤブデマリが咲く。対岸に繰糸滝が見えると、道は右岸に渡る。
急流水路の竜門を過ぎると右岸から落ちる貴船(キビネ)滝。そこからすぐダム直下の三ツ滝。山道を登り樽床ダムに出ると、小雨だった。ダム下をのぞくと、草刈が行われていた。ダム湖の先に苅尾山が見える。
中ノ甲林道に入ると、広島学院の遭難碑がある。十文字峠に比尻山登山口の道標がある。イキイシ谷を下りる林道は薮と化していた。11年前には薮はなかった。中ノ甲林道から下りる道の分岐付近まで進むと、薮が無くなった。林道終点まで下った。
終点から山道を下ると、山腹へ続く分岐道がある。この道は921三角点を通って、餅ノ木峠の北へ下りている。十文字キビレから1時間半ほどで田代川に出た。イキイシ谷落口上流は奥三段峡入口の蜘蛛淵、下流は深い谷になり、田代付近を餅ノ木断層が通っている。
石垣の残る田代集落跡を通過すると、牛小屋高原、砥石川山へ連絡する田代橋。横川トンネルに架かる橋下を通り、横川出合に進む。そこから猿飛を通り、葭ヶ原まで1時間ほどであった。小雨降る三段峡を下った。
ミズタビラコ |
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ヤブデマリ |
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ミヤマガマズミ |
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ヤグルマソウ |
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コケイラン |
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エゴノキ |
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コガクウツギ |
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マムシグサ |
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クルマバソウ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
「日本語とアイヌ語、このふたつの言語がともに共通の祖先から流れ出た姉妹語である」(『日本語とアイヌ語』片山龍峯)。
「かなり規則的に和語の語根に対応することを見れば、アイヌ語と和語は、太古、同源であるか、強い借用関係にあったとも推定される」(『日本語とアイヌ語の起源』(鳴海日出志)。
「言葉、文法など、日本語、アイヌ語、朝鮮語の間に似ている点が多いことには驚きます。そのことは、氷河時代における東北アジア人の日本海両側廻りでの流入。縄文草創期における鹿児島からの拡散。縄文全期を通じた列島・半島間の往来。縄文晩期における半島経由の渡来。黒潮や対馬海流が、列島と半島南部とに等しく南からの人や物を運んだこと。などが要因となっていた」(『縄文語の発掘』鈴木健)。
「日本語、アイヌ語、さらには朝鮮語には、音韻上、文法上の特徴において、あるまとまりがあるみれれるといってよいであろう。あるまとまりがみられるということは、これらの言語には、共通の基盤があることを思わせる。
…日本語、朝鮮語、アイヌ語の共通の基盤を、『古極東アジア語と名づけることにする』」(『日本民族の誕生』安本美典)。
周日本海気候の温暖性は、日本海の周りに生物を繁栄させ、日本海周辺に細石器文化が生まれる。そこに「日本海を取り巻く人の交流により古極東アジア語が成立した」。
『日本海の周囲に分布する「周日本海型」の生物がいる。ウラジロミドリシジミ、メスアカミドリシジミなどのチョウ類、ヒメザゼンソウ、ツバメオモトなどの植物である。
周日本海型を示す生物は洪積世の氷河期、少なくともウルム氷期(約7万年〜1万年前まで)を生き延びた種で、周日本海地域は氷河期における避難的な場所であった
ウルム氷期には日本海は外海から隔離された内陸海となっており、周辺の陸地より温暖だったため、ここで多くの生物が氷河期を生き延びたといわれる』
「およそ1万〜2万年前には『古極東アジア語』の行われた地域は、日本海を内海としたかこみ、地つづきであった。日本海も結氷のため、渡りやすい部分が多かったであろう。そのことは、『古極東アジア語』は、環日本海語として、あるていどの統一性をもっていた可能性も大きい。音韻体系、文法体系、基礎語彙における共通性をもっていたとみられる。
その後、日本列島が大陸から離れるにつれ、古日本語(日本基語)、古朝鮮語、古アイヌ語は、船による移動などで、たがいに接触をつづけながらも、しだいに方言化し、さらには、異なる言語となっていった。この三つの言語のいずれかから、いずれかが派生したという関係では、なさそうである
古日本語(日本基語)の系統をひく言語は、その後稲作などの渡来とともに、長江(揚子江)下流域からのビルマ系言語などの影響をうけ、倭人語(日本祖語)が成立する」(『研究史 日本語の起源』安本美典)。
■西中国山地の縄文語
西中国山地地形方言が縄文語(アイヌ語)に対応するものがいくつかある。
西中国山地地形方言 |
縄文語(アイヌ語) |
ノタ・ノダ
湿地 |
nutap ヌタプ
川の湾曲内の土地
川ぞいの平地 |
ウツ
狭い谷 |
ut ウツ
枝谷 |
クラ
断崖・岩場 |
kura クラ
崖 |
ゴーロ・ゴロウ・ゴウラ
石原 |
ukaw-ur カウル
岩の重なる・丘 |
ヒラ
尾根の側面
山の傾斜面 |
pira ピラ
崖 |
タオ・タワ・トオ・トウ
峠 |
taor タオル
高岸 |
キビレ
峠 |
kipir キピリ
丘・崖 |
ナル・ナルイ
平坦地 |
ninaru ニナル
丘 |
ツエ・クエ
山崩れ |
tuye ツィエ・トィエ
崩す・切る |
セキオビラ(丸瀬山西)やオオビラメノ滝(瀬戸滝上流・三ツ倉西)は崖地形であるが、西中国山地「ヒラ」よりもアイヌ語「ピラ」に近い。
山崩れの「ツエ」は、アイヌ語では「トィエ」「ツィエ」と呼ぶが、三段峡の石樋(イシドイ)は、アイヌ語では
pis-tuye
ピシトィエで「岩を切る」の意である。「イシドイ」の地名は西中国山地にいくつかある。
●貴船滝(キビネ・カカリキビネ)
「戸河内町史」に次のようにある。
「一、八幡原村境、横川分横谷頭より三つ子岩懸り木峯水走り限り、尻は横川分もちの木山の内きびね谷限り、向へ渡り小板ケ原分三つ瀧山は大松の尾限り次第にうへ、下城山上城山どうせい垰次第に尾限り(『戸河内森原家手鑑帳』1715年)。
八幡原村境のうち、三つ子岩は比尻山(聖山)であり、『懸り木』は横川の地名であるが、『もちの木垰懸り木道わかれより小板ヶ原の原道分れ迄一里拾弐町拾五間』という道路の説明を考慮すれば、懸り木峯とは狼岩山である可能性が高い。たま『きびね谷』は柴木川の上流・出合滝の西側の谷であることは間違いない。そして小板の方へ渡り尾根に沿って下城山(論山)をへて『どうせい垰』=道戦峠までが境である」(「戸河内町史」)。
整理すると以下のようになる。
比尻山=三つ子岩
狼岩山=懸り木峯=カカリ貴船=カカリキビネ
貴船滝=きびね谷
論山=下城山
道戦峠=どうせい垰
論山南西の山=三つ瀧山
鷹の巣山=上城山
貴船は「西中国山地」地図では「キセンダキ」となっているが、「きびね谷」と呼び、後に「貴船」「木船」などの字が当てられたようだ。「きびね谷」は狼岩山へ上がる谷である。
●三つ子岩・三ツ滝(ミツダキ)
聖山は古名「三つ子岩」と呼ぶ。聖山が「シシリ谷」の山の意であるように、「三つ子岩」は「三ツ滝」の山の意であると考えられる。三ツ滝の東側の山は「三つ瀧山」と呼ぶ。
●聖山(ヒジリヤマ)
聖山=比尻山はヒジリ谷の山の意である。検地帳にシシリ谷とあるので、ヒジリの古名は「シシリ」である。
シシリ谷は樽床ダムができる前、三ツ滝に下りる谷であった。
●樽床(タルトコ)
旧期八幡湖湖成層は樽床ダムの北東1km(765m標高)と同ダム西200m(762m標高)にある。この時代、樽床ダム付近の谷は閉じられ、水面が765m標高の湖であった。聖湖水面は750m標高なので、聖湖より大きい湖であった。
この時、上流の八幡原には水面が795m標高の湖があった。この湖の出口は虫送峠北の795m標高の県境尾根であり、匹見川に流れていた。
八幡原の天変地異により、古代八幡湖は柴木川に流れるようになった。これにより閉じられていた樽床付近は決壊した。
樽床は湖が決壊してできた湿地帯であった。樽床の出口は「たぎつせ」の三ツ滝である。
聖湖右岸のナガ谷水源に灰床(ハイトコ)がある。
西中国山地に以下の地名がある
タタルトコ(安蔵寺山・カレイ谷水源)
タルガコ(盛太ヶ岳・抜月川水源)
寺床(テラトコ)
●柴木(シワギ)
カシミール3Dデータ
総沿面距離30.5km
標高差593m
区間沿面距離
柴木
↓ 13.9km
樽床ダム
↓ 5.2km
田代
↓ 4.2km
葭ヶ原
↓ 7.2km
柴木
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