山歩き

押ヶ峠…虫送峠…城ヶ谷…池ガ原
2014/11/16

押ヶ峠…虫送峠…城ヶ谷…池ガ原…長者原上橋…押ヶ峠

■城ヶ谷(ジョウガタニ)911m:山県郡芸北町大字西八幡原字城ヶ谷(点の記) 北広島町

虫送峠から南の尾根に入る
植林地の山道を進む
県境尾根に山道が続く
植林地の鞍部
急な911P西の鞍部
城ヶ谷三角点
深入山と聖湖
掛津山と苅尾山
八幡盆地
ブナの爪痕
コナラのクマ棚
コナラの爪痕
ミズナラのクマ棚
ミズナラの爪痕
散乱するコナラの帽子
スギ林下の糞
スギの谷を下る
池ガ原付近の曲流部
淀む柴木川 池ガ原付近
笹原の間にスゲ類が占める
右岸の水路トンネル
国道を横切る山道 長者原上橋東
長者原上橋の下の柴木川
八幡橋上流 柴木川
7:20 押ヶ峠 晴れ 気温3度
 

7:35 虫送峠
8:55 城ヶ谷
10:05 池ガ原 
10:45 長者原上橋 
11:05 押ヶ峠 


 スキー場横の空き地を出発。八幡原の朝は寒い。虫送峠から南の尾根に上がる。掘り下げた山道を進むと、植林地に入る。小尾根に山道がある。道のある県境尾根を進む。

 右手に、虫送峠北に上がる作業道が見える。尾根の先に嶽が見える。県境尾根の鞍部は植林地になっている。山道は鞍部から南側の谷に下りている。

 鞍部から西の県境尾根を上がる。植林地を抜けると、笹薮になる。後ろに191スキー場が見える。西のピークに出ると、林越しに聖湖、深入山が見える。南側に県境尾根が高岳に続いている。

 東のピークとの間の鞍部は、意外と急坂になっている。鞍部に下りると、右手に聖湖が見える。ササ尾根を上がり、城ヶ谷三角点に到着。

ソヨゴ

 林の向こうに苅尾山、深入山、聖湖、八幡盆地が見える。北尾根を下る。ブナに古いクマの爪痕が残る。コナラ、ミズナラにクマ棚があった。散乱した枝にドングリの帽子が残っている。樹皮に残る爪痕は小さい。

 下の谷まで下りると、谷沿いに大きいスギが多くなる。下っていくと、左岸は植林地になる。平坦な笹原を下り、池ガ原の対岸に出た。柴木川曲流部の水流は、ほとんど止まっているようだった。

 笹原を東に進む。所々、ササの間にスゲ類が占めている。川傍の林のコナラにクマ棚があった。川沿いを進むと、壊れた橋があり、右岸の山側に水路のようなトンネルがあった。

 国道から山道が入っていた。この道は南の尾根の方に上がっていた。国道の北側にも道が続いていた。長者原上橋付近の水流は大分早くなっていた。柴木川はここからカルカヤ橋を通り、曲流して下る。

ミヤマシキミ
ツルリンドウ
カラコギカエデ





地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。

 『日本語とアイヌ語』(片山龍峯)、『日本語とアイヌ語の起源』(鳴海日出志)では、「和語」と「アイヌ語」を比較し、つぎのように述べている。

 「日本語とアイヌ語、このふたつの言語がともに共通の祖先から流れ出た姉妹語である」(片山)。

 「かなり規則的に和語の語根に対応することを見れば、アイヌ語と和語は、太古、同源であるか、強い借用関係にあったとも推定される」(鳴海)。

 「日本語、アイヌ語、さらには朝鮮語には、音韻上、文法上の特徴において、あるまとまりがあるみれれるといってよいであろう。あるまとまりがみられるということは、これらの言語には、共通の基盤があることを思わせる。
 …日本語、朝鮮語、アイヌ語の共通の基盤を、『古極東アジア語と名づけることにする』」(『日本民族の誕生』安本美典)。

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 「八幡湿原の花粉分析学的研究」(中村 純)
  (「三段峡と八幡高原 総合学術調査研究報告」から)

 1、序(略)

 2、試料及び研究法

 試料は盆地中央部におけるハンドボーリングの2試料(bP7、12)である。同地点付近は、湿原の発達も良好で堆積層も厚く、基盤までは約20mに達すると推定されている。表層部3mの堆積物である。

 試料bP7

 0〜60cm:ヨシ・ヌマガヤ類の根茎を主としオオミズゴケも散見される泥炭、無機質は少ない。黒褐色色。

 60〜135cm:木質の破片、ヨシ根茎を含む粘土質 mud. 灰黒色。
 135〜165cm:植物破片少なく粘土、灰色。
 165〜285cm:植物質少なし、粘土質沈泥、灰色。
 285〜300cm:有機質なし、細砂を混じた粘土、灰白色。

 試料bP2

 0〜120cm:bP7における0〜60cmに同じ。
 120〜150cm:木質破片、ヨシ根茎を含む。粘土質 mud. 灰黒色。
 150〜230cm:植物質少なし、沈泥多し、灰色。
 230〜240cm:細砂、灰白色。
 240〜270cm:砂質沈泥、灰色。
 270〜280cm:有機質多し、粘土、灰色。
 280〜290cm:細砂、灰白色。
 290〜300cm:有機質多し、粘土、灰色。

 花粉分析は、表層より15cmごとに試料をとり、HF-acetolysis 法により花粉を検出した。

 3、分析結果

 a 試料bP7

 第1時代、0〜30cm Pinus-Quercus 時代(マツ・コナラ)

 第2時代、30〜120cm Cryptomeria-Quercus-Alnus 時代(スギ・コナラ・ハンノキ)
             
 第3時代、120〜285cm Pinus-Abies-Tsuga-Picea 時代(マツ・モミ・ツガ・トウヒ)
              
 Pinus、Abies、Tsuga、Picea の優勢な時代に突発的に変遷している。特にPicea のこの時代に初めて出現することは注目すべきで、現在は中国地方には全く分布しない樹種である。このような全く別な植生への変化はとうてい考えられないことであり、第1、第2両時代の間には時間的な開きがあるものと考えられる。

 常緑型 Quercus が当時は現地近くまで分布していたことが推察される。
 また Gramineae(イネ科)は全層を通じて比較的多量に出現するが、−120cm以上の堆積物中には栽培型を含むとみなすことができる。すなわち、−120cmの時代より既に作物の栽培が付近に見られたことも想像に難くない。

 b 試料bP2

 bP7の試料では中層部に明瞭な不整合面を認めることができたが、bP7試料の位置より南西800mの地点(八幡小北西)、すなわちbP2の試料を分析した。便宜上−135cm以下の結果を示すと、花粉分析図に示す通りである。これにより明らかなごとく本試料における各種類の消長は、bP7における上層下部以降のそれらとほとんど一致する。すなわち次のごとく対比することができた。

 bP7           bP2
 75〜120cm  ←→ 135〜180cm
 135〜285cm ←→ 195〜300cm

 換言すればbP2の135〜180cmは、bP7の Cryptomeria-Quercus-Alnus 時代、195〜300cmは Pinus-Abies-Tsuga-Picea 時代に対比される。

 4、考察

 a Pinus-Querces 及び Cryptomeria-Quercus-Alnus 時代

 第1時代はRV、第2時代はRU末期とみなされ、下層の針葉樹時代はRTまたはそれ以前のものと考えることができる。

 b Pinus-Abies-Tsuga-Picea 時代

 Picea を亜寒帯種とみなせば、上述の広葉樹が劣勢であること、Pinus 花粉がチョウセンマツ・ヒメコマツなどのごとき Haploxylon 型であること、この時代に及んで Lycopodiaceae(ヒカゲノカズラ)、 cyperaceae(カヤツリグサ)の胞子及び花粉が優勢となること、更にミズガシワ・ヒメザセンソウなどの北方系湿原植物が現在もなお残存することなども容易に理解される。したがって本時代をトウヒ・コメツガ・シラビソまたはオオシラビソなどよりなる亜寒帯林時代とみなせば、これは氷期あるいは晩氷期(RT)に対比されるべきである。そして当時の森林帯は、少なくとも700〜800m現在よりも下降していたことが考えられ、ここに低率ながら出現する Fagus(ブナ) Quercus(コナラ) Carpinus(クマシデ) Cryptomeria(スギ) などは山麓地帯に分布したものより飛来堆積したものとみることができる。また最下層の結果をみると上記山麓帯に分布した樹種は、わずかながら増加しているが、もしこの針葉樹時代を氷期と考えれば、最下層は以前の間氷期の末期を示しているのかもしれない。


 c 不整合面について

 この針葉樹時代は突如として温帯林の第2時代に移行する。この不整合面付近の分析結果より明らかな点は、両地点の試料ともに、時を同じくして移行していること、上下両時代の堆積物はあまり混合されず、両時代は判然と区別することができることである。このことはかなり広い面積にわたり不整合面が露出するや、ただちに第2時代の堆積が開始されたこと、及び不整合面下の堆積物はかなり緻密に圧縮された状態にあったことを暗示している。おそらくこの不整合面より上部にも、針葉樹時代及びそれに続く堆積物が存在し、そのため下層部はかなり圧縮されていたものであるが、なんらかの原因により水位の低下とともに流水による剥脱作用でしだいに堆積物は流下された。この状態はRU末期まで続いたが、その後水位は再び回復し剥脱作用はやみ、再び堆積を始めたものであろう。また第2時代は Alnus 花粉が圧倒的に多数で、その枝葉とともに発見され、シダ類胞子も多いが、これは水位が低下していた間にこれらの叢林が侵蝕面に成立していたものと考えられ、水位の上昇とともにこれらの多くは枯死堆積したものと推測される。その後堆積物の増加とともにしだいに陸化して現在に至ったものであろう。

 もしこのような推測が妥当なものであれば、針葉樹時代によって示される湖底堆積物を形成せしめた第1古八幡湖、及び第2時代によって示される第2古八幡湖の2回の湖沼化が八幡盆地に見られたことになる。
 
 5、要約

 氷期または晩氷期には、八幡盆地付近は亜寒帯性の針葉樹林におおわれ、山麓地帯には落葉広葉樹が分布していた。その当時は第1古八幡湖が盆地内に形成されていた。ついでこの湖沼の水位の低下とともに、湖底堆積物は剥脱作用を受け、この状態はRU末期まで継続した。この間露出された湖底面には、周囲の植物の侵入が行われ、ハンノキ、時にはスギの叢林すら見られた。しかしその後水位の回復とともにこれらの叢林は水没して姿を消し、第2古八幡湖が形成された。その当時はイネ科花粉の粒径頻度によると、既に付近にはイネ科植物の栽培が行われていたらしい。たま Quercus の同様な頻度図によると現在より常緑性カシ類の頻度が高く、現在よりもいくぶん温和な気候下にあったらしい。かくして第2古八幡湖はしだいに陸化して、現在のごとき湿原となり、その一部は水田となり、周囲の森林も伐採を受け、特にスギは減少してアカマツがその跡地に侵入し現在の植生状態に達したものであろう。

 (以上「八幡湿原の花粉分析学的研究」から)
 


 マツ属・モミ属・ツガ属・トウヒ属の針葉樹時代に、八幡湖が形成されていた。トウヒは7000年前まで、枕湿原では8000年前まで出現している。7000年より前(135cm以下)、コナラ属が減じているが、長者原湿原では6500〜8000年の間に、コナラ属(落葉型)のピーク(125〜100cm)がある。

 枕湿原では9000年にコナラ属(落葉型)のピークがあり、それより以前(RT期)には減じている。八幡湿原では7〜9000前年付近の堆積物が剥脱されていると考えられる。

 八幡湿原では、7000前年以後、水位の低下とともに、堆積物が剥脱されたが、長者原湿原では、堆積物の剥脱はなかったと考えられる。

 7000前、水位の低下とともに、ハンノキなどの叢林が侵食面に成立する。7000年前以後、120〜70cm付近にハンノキ花粉が異常に多数検出される。長者原湿原では6500〜4000年前にかけて、ハンノキ花粉が急増する(100〜70cm)。長者原湿原でも水位の低下があったと考えられる。

 その際、長者原湿原の水位の低下は、八幡湿原より500年遅れて発生したと考えられる。古代八幡湖の湖面標高が800m、長者原湿原が780mであることから、その標高差が水位低下の遅れとなったのではないか。

 120cm以上のイネ科の堆積物は栽培型を含むとみなされている。八幡原は旧石器時代から人々の出入りがあるが、縄文時代早期から作物の栽培が行われていたことをうかがわせる。イネ科の急増は、長者原では6500年前、枕湿原では8000年前である。枕湿原では、この原因として「発火による環境変化」を挙げている。

 ハンノキ花粉は60cm付近から急減する。スギ、コナラも減ずる。長者原では4000年前以後、ハンノキ花粉が急減し、スギ、コナラも減ずる(70cm付近から)。

 4000年前以後、水位は再び回復に転じ、ハンノキなどは水没して姿を消し、第2古八幡湖が形成された。


 8000年前、第1古八幡湖が盆地内に形成されていた。湖面標高は約800mで、虫送峠北の県境尾根(795m標高に粘土・シルト状の層)が排水口で、匹見川に流下していた。

 その後、水位が回復し、第2古八幡湖が形成された。第2古八幡湖の排水口は、虫送峠北の県境尾根にあったが、排水口が除除に侵蝕され、虫送峠に下っていった。その後、柴木川の谷頭浸食が進み、柴木川に河川争奪された。

 2度にわたる古代八幡湖の出現を、旧石器人、縄文人は目撃していたと考えられる。

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●八幡原(ヤワタハラ)
 ya-wata-para
 ヤワタパラ
 陸の・海・広い

 八幡原周辺には旧石器時代から人々の出入りがあった。2度にわたる古代八幡湖の出現を、旧石器人、縄文人は目撃していたと考えられる。

 「樽床遺跡群は、人工湖である聖湖に面した丘陵を中心に立地している。旧石器〜縄文時代を中心とする遺物が採集され、旧石器時代の遺物は、縦長剥片素材の基部加工ナイフ形石器、掻器や整った形態の縦長剥片が多数採集されており、石材は黒曜石、安山岩などだが、黒曜石の割合が高く、理化学分析では島根県隠岐産という分析結果が出ている。

 出土石器は後期旧石器時代後半期に位置づけられるものと思われ、隠岐からの距離は直線で約200kmあることや石器群の特徴が山陰・北陸地域と関連を持つことなどから、今後の調査・研究の進展が期待される」(「広島大学埋蔵文化調査室」)。

 縄文・旧石器時代を通じて、八幡原や樽床に隠岐や姫島(大分県)産の黒曜石を持ち込んでいた人々は、広い海を知っていた人々である。

 海の朝鮮語 pata,pada

 アイヌ語彙
 atuy-okake アトウィ・オカケ 海の跡
 atuy-pa アトウィ・パ 海の頭
 atuy-kes アトウィ・ケシ 海の末
 atuy-noski アトウィ・ノシキ 海の真ん中
 watara ワタラ 海中の岩
 wa ワ 渡渉する・渡る
 wawa ワワ 渡渉する・渡る

 at または wat アッ・ワッ オヒョウニレ

 万葉集の海=わた
 海神 わたつみ
 海中 わたなか
 海の底 わたのそこ

 日本書紀・古事記の海
 海北 わたのきた
 海西 わたのにし
 海表 わたのほか

 アイヌ語地名
 ya-ta-cis ヤタチシ 陸の・方の・立岩
 ya-kus-i ヤクシ 丘を・通る・所
 ya-un-kur ヤウンクル 陸・の・人
 ya-wa-an-pet ヤワンペッ 陸の・方に・ある・川

●シジリ谷(カジヤ谷)
 si-siri シ・シリ 大きい・崖

 シジリ谷はカジヤ谷とも呼ぶ。聖山はシジリ谷が山名になっている。検地帳では「シシリ谷」と呼ぶ。シジリ谷は樽床ダムの懸崖の間を通って、三ツ滝に落ちる谷である。
 シシリ→シジリ→ヒジリと転訛した。

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カシミール3Dデータ

総沿面距離4.6km
標高差146m

区間沿面距離

押ヶ峠
↓ 2.1km
城ヶ谷
↓ 0.9km
池ガ原
↓ 0.7km
長者原上橋
↓ 0.9km
押ヶ峠
 

八幡湿原の花粉分布図(『八幡湿原の花粉分析学的研究』中村 純)
 bP2地点=八幡小北西 bP7地点=12地点の北東800m地点
 135cm付近が7090±145yrB.P.(N-2238)であることが最近明らかとなった『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究W.枕湿原』
赤字は付け加えた
 
長者原湿原堆積物の木本花粉分布図
(『広島県北広島町長者原湿原堆積物の花粉分析』高原の自然史第12号=2007年3月)
 花粉分析は表層から10cmごとに、厚さ2cmで切り分けた合計13試料について行った。
 (+は出現率が1%未満であることを示す)
赤字は付け加えた
 
長者原湿原堆積物の草本花粉及び胞子の分布図
(前同)
 (+は出現率が1%未満であることを示す)
赤字は付け加えた
 
枕湿原の花粉分布図(『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W枕湿原』三好教夫・波田善夫)
 枕湿原は畳山の南方6kmの海抜720mにある。八幡原の東方20km
 190cmの堆積物を採取し、10cm毎に1試料(5cmの堆積物)を分析。

 14C年代測定と堆積速度
  50cm 1040±85 yrB.P. 0.048cm/yr
  100cm 6020±110 yrB.P. 0.010cm/yr
  150cm 7920±130 yrB.P. 0.026cm/yr

赤字は付け加えた
 
新期八幡湖成層(「八幡高原の地質、特に八幡盆地の湖成層について」)
 八幡小北西の上田郷の「B12」地点が資料bP2地点(bP7地点はここから北東800m)
 
登路(「カシミール3D」+「地理院地図」より)