6:15 飯山 晴れ 気温19度
7:00 三つ石
7:30 鬼ヶ城山
7:45 床越
8:50 旧道
9:25 相波峠
9:50 お鉢山遺跡D
10:30 お鉢山遺跡A
11:30 165番鉄塔
11:40 コ谷=164番鉄塔入口
12:50 イイノ峠
13:00 アカナメラ谷
13:15 木橋分岐
14:25 飯山
飯山の河内神社を出発。神社の大スギの根元に御幣が立てかけられ、笹を数本立てて、張られた縄に紙の幣が下げてある。神社に亀の図柄の切り紙が奉られてある。飯山集落にガスがかかり、霧の上に鬼ヶ城山が見える。コガクウツギの咲く、植林地の林道に入る。
林道を進み、お鉢山遺跡E地点(縄文・弥生)の横を通る。コアジサイが咲き始めている。林道を右に進み、小谷を渡ると平岩。平岩の横を林道が南に延びている。平岩から上の小谷の両岸に、表面に突起のある岩が点在する。三つ石である。この岩は「三つ岩」、「ふとり石」、「物言石」とも呼ぶ。
大スギの根元に御幣 |
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河内神社の亀の切り紙 |
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874ピーク西の鞍部から尾根に登ると、シロモジが多くなる。緑色の実を付けている。オニガジョウの大岩の端を通り、尾根に出るとすぐに山頂。少し開けている羅漢山方向は雲が覆う。ササ尾根を北へ下る。大岩を過ぎると床越。西側へ山道が下りている。
湿った山道を下ると植林地に入る。炭焼跡から少し下ると、山道は段の原へ下りている。山道を離れ、植林地の尾根を横切るように進む。スギの倒木が多い斜面を横切り、床越から1時間ほどで平岩東の旧道に下りた。
旧道を進み、30分ほどで相波峠。峠からササ薮と化した道を進み林道に出た。そこはちょうどお鉢山遺跡D地点付近であった。そこから林道を少し進むと、お鉢山遺跡C地点。そこは林道の山側が崩れている所だった。
コアジサイ |
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マムシグサ |
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さらに林道を南へ進むと、お鉢山遺跡B地点の横を通り、林道分岐を過ぎて作業道に入る。左の林道はすぐにササ薮になる。お鉢山遺跡A地点を過ぎて、作業道から植林地に入り、黒滝山から下りる山道に出る。839ピークの南側を通り、コ谷水源に下りずに、山道を東に進むと165番鉄塔に出た。
鉄塔道をコ谷に下る。コ谷に架かる木橋を過ぎると164番鉄塔に上がる道に出る。植林地の小谷に沿う山道を進むと164番鉄塔。鉄塔を繋ぐ道を進むと、伐採地に出る。伐採地の向こうに鉄塔が林立する。山道にエゴノキの花がたくさん落ちている。
植林地を抜けて163番鉄塔に出た。163番鉄塔から少し進むと、山道に腰掛けるのに良い岩があった。近づいてよく見ると、松の木峠付近に多い冠山安山岩であった。ナタの背で軽く叩いてみると、薄く、鋭くナイフように剥がれる。
お鉢山遺跡A地点は安山岩原石の露頭地だが、ちょうど山を隔てて真東に当たる所に、この安山岩があった。冠山から大分離れているが、ずいぶん南まで流れ出たものである。そこからほどなく林道に出た。上空に送電線が見えるとイイノ峠である。コ谷に下りてから1時間ほどであった。
イイノ峠に日本製紙社有林の看板がある。途中の林道の崩壊地点に黒ボク土の露頭が見られる。アカナメラ谷の水源を渡って、植林地を北へ進むと林道終点。左岸に渡って少し進むと木橋があり、次の木橋の所に山陽国策パルプ社有林の古い看板があり、分岐を右へ進む。
小谷の道を進むと、日本製紙社有林「飯ノ山山林」の看板がある。そこから先は猛烈な薮となる。薮を抜けて、807三角点(中崎)東の林道に出る。植林地の奥にNTTのアンテナ塔が立っている。そこから先に伐採地があり、植林地を抜けて186号線に出た。
クマシデ |
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エゴノキ |
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ヤマハンノキ |
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アマドコロ |
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ギンリョウソウ |
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ヤブウツギ |
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ミズタビラコ |
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サワギク |
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コツクバネウツギ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
『日本語とアイヌ語』(片山龍峯)、『日本語とアイヌ語の起源』(鳴海日出志)では、「和語」と「アイヌ語」を比較し、つぎのように述べている。
「日本語とアイヌ語、このふたつの言語がともに共通の祖先から流れ出た姉妹語である」(片山)。
「かなり規則的に和語の語根に対応することを見れば、アイヌ語と和語は、太古、同源であるか、強い借用関係にあったとも推定される」(鳴海)。
松の木峠南に広がる黒ボク土は、164番鉄塔付近まで延びている。その黒ボク土の中にお鉢山遺跡AからE地点がある。この遺跡は旧石器、縄文、弥生に遡るものである。
最近の研究に黒ボク土と山焼きの関連を明らかにしたものがある。
「砥峰高原(兵庫県)の堆積性土壌(黒ボク土)の植物珪酸体分析・微粒炭分析を行った。植生変化の時期・山焼きの開始時期などを特定した。微粒炭は数百年前に堆積したと考えられる土壌表層から多く産出し、それ以前に堆積した土壌からの微粒炭産出量は少ない。このことは、山焼きが数百年前から現在にかけて行われていたことを示唆する…山焼きの開始により、ササ属が優占する草原からススキ原へと変わった可能性が示唆された」(『堆積性土壌の微化石分析による山焼きの歴史と草原の成立の解明』井上 淳=要約)。
冠遺跡D地点の黒ボク層=松の木峠付近
(『冠遺跡群 D地点の調査』1989年 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター)から
黒ボク土層厚は約70cm |
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冠遺跡群D地点(795m標高)は松の木峠の国道沿いの東側にあり、堆積物に含まれる火山噴出物の分析が行われた。黒ボク土に多い植物珪酸体含有率はアカホヤ火山灰(6000から6500年前)のある6000年前がピークとなっている(図2)。
D地点周辺の植物珪酸体分析は次のようになっている。
「K−Ah(アカホヤ火山灰)にかけては…この時期にはススキ属、キビ属などが生育する草原植生が成立したと考えられ…これらのイネ科植物は陽当たりの悪い林床では生育が困難であり、ススキ属やチガヤ属の草原が維持されるためには定期的な刈り取りや火入れ(焼き払い)が必要である。このことから当時は火入れなど人間による何らかの植生干渉が行われた可能性が考えられる」(『冠遺跡群[』2001)。
鬼ヶ城山周辺の黒ボク土は、Ysi1 と Ysi2 がある。
Ysi1は土層50cm以下。
Ysi2は土層50cm以上。
冠遺跡群D地点の黒ボク土は約70cmで1万年遡る。従って、鬼ヶ城山周辺の黒ボク土は、この1万年の間に形成されたものであり、この間の縄文人、弥生人の山焼きによって形成されたと考えられえる。
●松の木峠(マツノキダオ)
松の木峠の東西に黒ボク土が広がる。黒ボク土の中央にあるのが松の木峠。
●三つ石(ミツイシ)
●三つ岩(ミツイワ)
●鬼ヶ城山(オニガジョウヤマ)
onne-kamuy-so
オネカショウ
大きい・神・岩
カシミール3Dデータ
総沿面距離13.8km
標高差342m
区間沿面距離
飯山
↓ 2.6km
鬼ヶ城山
↓ 2.8km
相波峠
↓ 5.1km
イイノ峠
↓ 3.3km
飯山
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