6:40 注連川 晴れ 気温3度
7:30 大工屋敷
9:05 尾根
9:25 922P
10:40 平家ヶ岳
11:00 オモ越
11:45 926P
12:30 左入道(サニュウドウ)
13:05 オモ川
14:05 722m三角点(尾茂川)
14:45 カラ谷入口
15:40 注連川
中国道南の愛宕神社付近を出発。鳥居が東と西に見える。霧の下りた河内川左岸の車道を進む。ヒヤガサコの谷は水路になっている。コウラ谷はツルヨシが密生していた。タキガ谷を渡ってホンコ谷に入る。この辺りまで、広い平坦地が続く。
平坦地が無くなると、車道は砂利道に変わる。右岸の植林地の下に石垣がある。水量少ないモトクラ谷が右岸から落ちる。モトクラ谷と河内川の間の植林地にも石垣がある。堰堤の上を川側に進むと、オシドリが十数羽飛び立った。堰堤の下は深い渕となっていた。
オトコヨウゾメ |
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下に見えるカラ谷下流の橋を過ぎて、長い林道の植林地を抜けると、大工屋敷に出る。段段畑の上にビニールハウスがあり、煙が上がっていた。農作業されているようだった。石垣の下の林道を進むと、鉄の橋が架かっている。橋を渡って進むと、トマリガ谷左岸に出た。
山道を進むと、ワサビ田跡の石積みがある。公社造林地の標識があった。所在地は「六日市町大字注連川字遅越」となっていた。谷の分岐に滝があった。左岸を巻いて谷に下りると、大きいカツラの横にワサビ田の石積みがあった。
水源の植林地を登る。トマリガ谷の取り付きから1時間半ほどで植林地の尾根に出た。しばらく植林道が続くが、922ピークを過ぎた辺りで、植林道のピンクのテープが消え、道が無くなる。尾根のササと潅木の薮に入る。コナラにクマ棚と小さい爪痕があった。
クマの爪痕 |
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前方に紅葉した平家ヶ岳が見えてくる。東側が開けて展望地に出る。大将陣山が大きく見える。ササ薮を分けて山頂に出た。北東面と南面への展望がある。大将陣山の右に羅漢山、左手に寂地山の峯峰が見える。南側に馬糞ヶ岳と長野山。
ササの登山道を下り、オモ越に出た。尾茂川造林地の林道を東へ進む。平家ヶ岳の北面は紅葉の山であったが、東面は緑の植林地である。林道分岐を左に進む。林道の削られた斜面は脆い土山であった。林間から高津川の平地が見える。
林道が南に折れるところで、尾根のササ薮に入る。926ピークから植林地の北東の尾根を進む。オモ越から1時間半ほどで759m三角点の左入道。「サニュウドウ」と読み、西の「シヤニユドウ」の谷のことであろう。
アセビ |
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シヤニユドウの谷へ下る。ササ薮を抜けると、植林地に入る。谷に倒木が多い。涸れた谷の入口の方にワサビ田跡の石積みがあった。30分ほどでオモ川の林道に出た。川を少し下ると、小滝の下りる小谷がある。小谷を少し進むと滝に当たる。左岸を巻いて谷へ下りると薮だった。
谷の薮を避けて、左岸の植林地の尾根を登る。小尾根の上部に北から上がる山道があった。モトクラから上がる谷のようだ。地元の人の話では、モトクラから火防線尾根に上がって平家ヶ岳に登ったと言う。1時間ほどで植林地の722m三角点に出た。
植林地からカラ谷右岸の小尾根を下った。40分ほどでカラ谷入口の右岸に出た。カラ谷は水が少ない谷であった。河内川を渡り、林道に上がった。
クサギ |
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ミヤマシキミ |
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サイヨウシャジン |
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チャノキ |
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ミニトマト |
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西の愛宕神社 |
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東の愛宕神社 |
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旧道面家住宅 |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
アイヌ民族と沖縄人が遺伝的に近いことが、DNA解析から明らかになった。
「北海道のアイヌ民族は地理的に近い関東よりも、沖縄の人たちと遺伝的に近いことがDNA解析から証明されたとする研究成果を、東京大学や国立遺伝学研究所などで作る「日本列島人類集団遺伝学コンソーシアム」がまとめた。
北海道と沖縄では、日本列島に古くから住んでいた縄文人と渡来の弥生人の混血が一部にとどまり、縄文系の人々が残ったとする「二重構造説」を裏付ける成果という。1日付の日本人類遺伝学会誌に発表する。
研究チームはアイヌ民族36人と、3世代以上続く沖縄出身者35人の遺伝情報を詳細に調べた。DNAのわずか1文字(1塩基)の違い「SNP(スニップ)」を約60万か所にわたって分析。すでにデータとしてそろっている関東に住む243人と比較し、アイヌ民族は沖縄出身者により近いことを確認した。こうした傾向はこれまでも示されていたが、データが少なく結論は出ていなかった」(11月1日読売から)。
沖縄の地名がアイヌ語によって説明できることが、以前から言われている。縄文時代の言語がアイヌ語に引き継がれている証左でもある。
縄文人と弥生人の混血は日本列島で一気に進んだわけでなく、沖縄と北海道が取り残された。縄文文化はアイヌ語地名として、東北、北海道、沖縄に残された。西中国山地の山間部でも縄文文化、縄文地名が残されていると考えられる。
そのようなところに残った縄文地名は、弥生時代にも引き継がれ、現代につながっている。
周辺は古代遺跡が多い。縄文から近世につながる遺跡もある。縄文時代に成立した地名が現代に引き継がれていると考えられる。
注連川周辺の遺跡
★河内遺跡(注連川 河内)
縄文・弥生・奈良・平安・中世・近世
石器(縄文か弥生) 打製石斧(縄文か弥生)
★堂面遺跡(注連川)
縄文土器
★前立山遺跡(マエタテヤマ・注連川 三助)
弥生・古墳・奈良・平安・中世
竪穴住居(後期14)
土壙墓(中期1・時期不明4)
木棺墓1 溝 祭壇状遺構
サヌカイト製石鏃工房
土坑 柱穴
弥生土器(中期・後期)
石鏃 磨石 砥石 石包丁 棒状石製品
鉄鎌 勾玉 土玉 ミニチュア土器
石皿(後期)
★中屋敷遺跡(ナカヤシキ・注連川 堂面)
石斧(弥生)
★廃寺下遺跡(ハイジシタ・注連川 堂面)
石斧(縄文〜弥生)
土師器・須恵器(古墳)
★光長遺跡(ミツナガ・注連川 光長)
弥生土器
土師器(古墳)
★泓武家遺跡(注連川 泓武家)
土師器・須恵器(古墳)
★山入遺跡(田二穂 部栄 注連川西)
弥生土器
★藤安遺跡(注連川)
須恵器(古墳)
★沖場遺跡(注連川)
土師器(古墳)
★仲の原下遺跡(ナカノハラシタ・注連川)
須恵器(古墳)
★仲の原中遺跡(ナカノハラナカ・注連川)
須恵器
★火槍ヶ迫遺跡(注連川)
土師器・須恵器
★竹ノ鼻遺跡(タケノハナ・注連川)
土師器・須恵器
★志目川城跡(注連川)
郭・腰郭・堀切・竪堀(中世)
「西中国山地」樹木方言に、ノジ、ゴンタマキ、トチ、イトチ、アツマンダ、チナイ、タニイソギ、ハイカツギなどがある。ノジがブナ、ゴンタマキがミズナラである。
以下のようなドングリのなる木の樹木方言がある。
「コマ」「ゴマ」「コバ」「コメ」「コン」「ゴン」「クマ」などの共通性がある。
アイヌ語のドングリに、
kom kop kum hom があり、次の転訛が考えられる。
kom → koma goma
kop → kopa → koba
kom → kome
kom → kon
kum → kuma
ブナ科方言(主にドングリの木) |
樹木方言名 |
種名 |
地域 |
コマカシ
コマガシ |
ツクバネガシ |
静岡 |
コマカシ |
ウラジロガシ |
和歌山 |
コマキ |
コナラ |
長野・島根 |
ゴマギ |
ミズナラ |
岡山 |
ゴマメ |
シラカシ |
宮崎 |
シゴマ |
コナラ |
鹿児島 |
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コバカシ |
ウラジロガシ |
愛媛 |
コバジロ |
ウラジロガシ |
静岡 |
コバナラ |
コナラ |
山形 |
コバハカシ |
ツクバネガシ |
静岡 |
コバンシバ |
ウバメガシ |
徳島 |
コーバガシ |
シラカシ |
静岡 |
コーボーシバ |
コナラ |
福岡 |
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コメナラ |
コナラ |
秋田・茨城・新潟 |
コメボソ |
コナラ |
京都 |
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ゴンダ
ゴンダラマキ |
コナラ・ミズナラ |
島根 |
ゴンタロー |
ミズナラ |
島根 |
コンタローマキ
ゴンタローマキ |
ミズナラ |
広島 |
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クマガシ |
マテバシイ |
佐賀 |
クマカシ
クマガシ |
アカガシ |
静岡・兵庫・福岡
佐賀 |
クマカシ
クマガシ |
アラカシ |
静岡・愛知・兵庫
福岡・佐賀 |
クマガシ |
ウバメガシ |
島根 |
クマガシ |
シラカシ |
福岡 |
クマジー |
マテバシイ |
静岡 |
クマノガシ |
アラカシ |
静岡 |
クマノカシ |
アカガシ |
山口 |
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オボソ |
クヌギ |
滋賀 |
オボソ |
アベマキ |
和歌山 |
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コマブナ |
イヌブナ |
青森 |
オモ |
ブナ |
愛媛 |
オモノキ |
ブナ |
高知 |
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コムニ |
カシワ |
アイヌ語 |
コム kom
クム kum
コプ kop
ホム hom |
ドングリ |
アイヌ語 |
●こまのカミ山(平家ヶ岳別名 広瀬村・大野村)
周辺は植林地を除けば、コナラ群落、クリ−ミズナラ群落、ブナ−ミズナラ群落である。植林地もかつてはドングリの木の群落であったと考えられる。
注連川の河内川の左岸に前立山遺跡、右岸に沖場遺跡がある。前立山遺跡から多くの磨石、石皿が出土している。
前立山遺跡の住居跡23軒中、磨滅痕の観察される扁平な自然石の出土例が10軒みられた。他に第3号住居跡東側外に石皿様石器、21号住居跡から磨石が出土…
この種の石器が、例えば縄文時代にみうけられる堅果植物の種子を磨りつぶした石皿の機能を想像させる(前立山遺跡報告書)。
「前立山遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡の実態を知る上に貴重な資料を提供することとなっ た。集落跡、住居跡と考えられる遺構は,全部で23棟検出されている。これらの遺構の重複関係や土器形式から、住居跡の形態は、円形から隅丸方形へ、さらに方形へ変遷が辿れる。住居跡はほとんど例外なく側溝が巡り、四柱を原則とした柱穴があり、中央ピットを備えている(『中国縦貫自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書』)。
沖場遺跡では、竪穴住居址11棟、土坑5基と多量の土器等を検出した。石器は量的に少なく、磨石や打製石包丁、砥石が目に止まった。さらに弥生時代後期の住居址と古墳時代後期の住居址からは数点の鉄器が出土したことも注目された。
「沖場遺跡は、高津川本流に沿う六日市町内では比較的広い沖積平野に面した弥生後期後半期の集落遺跡である。調査した範囲からは一単位の後期集落が、短い期間、継続的に営まれたことが判明した。この集落は、前立山集落と親密に連携しながら、高津川と河内川によって形成された沖積低地で水田稲作を行い、また、少なからず背後の山野の食料資源を利用しながら農耕生活を展開していたものと思われる」(『沖場遺跡』)。
●平家ヶ岳(ヘイケガダケ)
●平家屋敷(ヘイケヤシキ)
●河内川(コウチガワ)
●大工屋敷(ダイクヤシキ)
●オモ川
カシミール3Dデータ
総沿面距離13.9km
標高差784m
区間沿面距離
注連川
↓ 2.9km
大工屋敷
↓ 2.8km
平家ヶ岳
↓ 3.4km
左入道
↓ 2.3km
カラ谷入口
↓ 2.6km
注連川
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