山歩き

金山谷…白旗山…シラハタ…オオ谷
2012/10/21

サコノ谷…中ノ谷…白旗山…シラハタ…トノゴヤ…オオバタ谷…オオ谷…ドウドウ滝…マンソウクズレ谷…ヒロ谷…深谷川

■白旗山(シラハタヤマ)1109.2m:島根県鹿足郡吉賀町田野原(点の記 点名=白旗=シラハタ 俗称:白旗頭)

河内神社とサコノ谷
深谷川奥の944ピーク
林道 迫ノ谷線
林道横のイノシシワナ
林道終点
山道の観音像
猿走り造林地
植林地を進む
ワサビ田跡
ミズナラのクマ棚 中ノ谷水源
ササ薮の白旗山
ミズナラのクマ棚 シラハタ
ワサビ田跡の石積み シラハタ
大谷山国有林
オオバタ谷右岸の林道に出た
オオバタ林道からオオ谷林道に出た
ドウドウ滝
オオ谷林道終点
オオ谷左岸の土管
オコンジョウ谷
ワサビ田跡
水源の大きいブナ
車道から見た白幡山
車道からススキの林道へ入る
小五郎山
林道分岐を左へ
尾根の植林地を下る
薮の舗装された広谷林道に出た
コセノサコ下流の林道分岐
深谷川右岸のワサビ畑
6:50 河内神社  晴れ 気温5度
 

7:20 迫ノ谷林道終点
9:50 白旗山
11:20 ウルシダコ
11:40 オオバタ林道
11:55 オオ谷林道
12:15 ドウドウ滝
12:50 オコンジョウ谷
13:10 マンソウクズレ谷
14:10 車道
14:50 ヒロ谷林道
15:35 深谷川車道 
15:55 河内神社  


 河内神社のあるサコノ谷落口付近を出発。地元の人に白旗山を尋ねたが、知らないとのことだった。刈り取ったカヤが高く束ねてある。畑の肥料にするそうである。深谷川の奥に目立つ山は小五郎山北の944ピーク。民家の裏手から林道迫ノ谷線に入る。

 奥へ進むとカヤの束が一つ立ち、その近くにイノシシワナがあった。イノシシ、サル、タヌキを捕るワナだった。草薮の中にヤブマメが這う。林道終点からサコノ谷左岸に渡る。左岸の植林道を上がり、ワル谷を渡った先の山道に観音像があった。そこから少し上に「猿走り官行造林」の看板があった。「サルバシリ」は深谷川上流の谷の名である。

トチの実 中ノ谷
ミツマタ

 山道は植林地を通って中ノ谷に入る。谷に茶碗の欠片が落ちていた。谷を大分登った所にワサビ田跡の石積みがあった。トチの実がたくさん落ちている。水源の大きいミズナラにクマ棚があった。深いササ薮を漕いで尾根に出た。そこから間もなく赤い三角点の白旗山。林で展望は無いが、林間から安蔵寺山が見える。

 北のシラハタの谷に下る。長いササ薮が続く。ミズナラの枝が散らばり、その上にクマ棚があった。ゴーロを下るとワサビ田跡の石積みがあった。長い石積みが続く。シラハタ分岐に石積みがある。大きいカツラの横の右岸の植林道を通る。小谷のウルシダコの谷を渡り、トノゴヤ左岸の植林道を下る。

 赤い境界石を過ぎると、大谷山国有林の看板がある。オオバタ谷に入り、朽ちた橋を渡ると林道に出た。オオバタ谷右岸の林道を下り、オオ谷林道に出た。オオダキ、コダキの谷を過ぎると、オオ谷林道は右岸に渡る。左岸のコシヤマ谷を過ぎると林道下に小滝がある。ドウドウ滝である。

モミジガサ
ヤマトキホコリ

 オオ谷右岸の岩盤のワル谷を過ぎた先が林道終点。左岸の山道を進む。ノブガ谷左岸に土管が置いてあり、少し先のオオ谷左岸にも土管が置いてあった。右岸の植林道を進む。オコンジョウ谷を過ぎた辺りの左岸をキンカネリと呼ぶ。谷を進むと石積みがある。

 右谷を過ぎて、マンゾウクズレ谷に入る。水源の谷を登る。ササ薮を登ると、大きいブナがあった。そこから間もなく車道に出た。車道から白旗山が大きく見える。安蔵寺山、赤土山、香仙原の山並みが続く。

 車道から856ピークの東の山腹を林道が通っていた。小五郎山が目前にある。ススキの林道を進む。林道の分岐を左へ進む。展望地から茅帽子山、寂地山、広高山の峯峰が見えてくる。ヒロ谷水源は一面の植林地であった。林道が山腹に続くので、途中から尾根をヒロ谷に下った。

 林道から20分ほどで、下のヒロ谷の林道に出た。下ると舗装道になるが、薮が覆っている。コセノサコを過ぎた先で林道の分岐に出た。林道広谷線の標識がある。山腹の林道はここへ下りるのかもしれない。

 まもなく深谷川の車道に出た。ワサビ畑の横の車道を進む。植林地の小五郎山が左手に迫る。畑にススキを束ねた小山がたくさんある。小五郎山登山口の甲羅ヶ橋を過ぎて河内神社に帰着。

カヤの束=ススキ 深谷川右岸
チゴユリ
ツルリンドウ
マムシグサ
キンミズヒキ
アカバナ
スズメウリ
ノブキ
ヤブマオ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。

856ピーク東の林道の黒ボク土


 「黒ボク土」(黒土)は山焼き・野焼きによって形成された。以下は『黒土と縄文時代』(山野井徹)からの要旨である。

 『旧石器時代の石器は赤土の中から、縄文時代の遺物は黒土の中からでてくることが多い。また、縄文期のものが赤土から出てくることはあっても、旧石器のそれが黒土から出ることはない。すなわち,黒土に埋没する土器は縄文期以降に限られるという不思議な必然性がある。

 従来黒土は「クロボク土」とよばれ、「火山灰土」と考えられてきた。

 クロボク土は植物遺体や腐植が分解されずに残っているという特性をもっている。クロボク土の特質が植物遺体が分解されないことであるならば、その条件こそがクロボク土の形成要件であろう。

 植物が分解されずに地層中に残る条件は2つある。1つ は植物遺体が酸化的な環境ではなく、還元的な環境におかれ続けることである。もう1つは分解される前に燃焼に よって炭化することである。クロボク土の生成環境は酸化的な環境であり植物遺体は分解されてしまう。したがって前者の条件は消えるから、後者の炭化条件が残る。そこでクロボク土層中の黒色破片は炭化した後に堆積した植物破片ではなかろうかという見通しが得られる。

 筆者は植物遺体を燃焼させ、その細片を顕微鏡で観察した。その結果、クロボク土中の黒色破片の形態はススキの燃焼炭粒子と共通していることを見出すことができた。よって、クロボク土中の黒色破片は燃焼炭の微粒子(以後「微粒炭」という)と考えるのが最も妥当である。

 クロボク土の中には必ず微粒炭が含まれていることから、この微粒炭の生産を、古代人の生活と関連させて考えた。古代人が火を使い、草木の燃焼炭が粉塵となって堆積し、そこに腐植が吸着したものがクロボク土であると考えた。すなわち、クロボク土の形成にとっての必要条件は、燃焼炭(微粒炭)の生産にある。つまりクロボク土の形成には微粒炭を生産したような火の使用が必要不可欠の条件となる

 さて、微粒炭を生産するような火の使用とは一体,どんなものであろうか。広大な範囲に微粒炭を堆積させるよう な火の使い方は、炊事や土器焼きのような居住地周辺での小規模なものではなく、野焼き、山焼きのような大規模なものであったと想定される』


 白旗山の呼名は周辺では知られていない。安蔵寺山登山口南の奈良原で、オオ谷の枝谷の呼称としてシラハタがある。点の記では俗称として「白旗頭」とあった。

 「周辺の奈良原、鹿足河内、金山谷の村人に山名を聞いて見たが、鹿足河内、金山谷では無名の山と言わざるを得ない。奈良原ではシラハタと呼んでいた。シラハタは大谷川の支谷の呼称なのでシラハタの頭という意だろう。奈良原の村人は白旗山とは呼んでいない」(『西中国山地』桑原良敏)。


 白旗山周辺の尾根に黒ボク土(Azo−1)がある。土壌図簿冊ではAzo−1のA層が20cm前後、B層は浅いとしている(下の@)。A層は有機物が分解された層、B層は有機物に由来する風化が進行した鉱物層。

 白旗山の黒ボク土の厚さを20cmとする。

 冠遺跡のある松の木峠の冠遺跡群(D地点)の黒ボク土は厚さ70cmで、1万年前にさかのぼる。

 白旗山の黒ボク土が、松の木峠の黒ボク土と同条件で形成されたと仮定すれば、約3000年前の間に形成されたと考えられる。


 黒ボク土は山焼き、野焼きによって形成されたことは、『クロボク土とその形成環境』(山野井徹)に詳しい(下のA)。


 宮崎県椎葉村の焼畑では、火入れ3年後ごろから発生が多くなる種として、ヤブマメなどがある(下のB)。

 「火入れ1年後以降に大きく乾燥重量を減少する種として、コアジサイが存在した。一方、火入れから火入れ5年後までの間に比較的多くの乾燥重量を有した種として、ススキ、ワラビ、シロモジが存在した。観察からワラビ、シロモジは、萌芽再生によるものであり、火入れの熱に比較的強い再生芽をもつ種であると考えられる。

 また火入れ3年後ごろから発生が多くなる種として、ヤブマメ、ナガバモミジイチゴ、バライチゴ、イヌツゲなどがあつた。ナガバモミジイチゴ、バライチゴはB戦略者(Burying 休眠種子)、ヤブマメ、イヌツゲはB戦略とC戦略 (Coppice栄養再生)混合戦略者に分類されている。

 これらの種子は、鳥などによって林内に散布されたあと、土壌中で休眠している。通常、キイチゴ属の発芽率は非常に低く休眠性が高い。そして、森林内にギャップが形成されたり、伐採や火災などで森林が破壊された時に発芽してくる種である」(『焼畑地における雑草群落と埋土種子集団の経年的変化』 -宮崎県椎葉村の事例- 田中正道)。


 万葉集にハホマメがある。

 道の辺の 茨のうれに 延ほ豆の からまる君を はかれか行かむ

 みちのへの うまらのうれに はほまめの からまるきみを はかれかゆかむ

 美知乃倍乃 宇万良能宇礼尓 波保麻米乃 可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟

 道端の イバラの先に 絡みつく豆のように 私に絡みつく君を おいて別れゆく

 波保麻米(ハホマメ)はヤブマメと言われ、万葉集の解説では這う豆の意としている。

 詠人は上総國(千葉県)の防人である(天平勝宝7年=755年)。

ヤブマメの地下の実を取る土掘用具

鹿角製 sittap
長さ31cm 太さ3cm
旭川アイヌ使用品
『知里別巻T植物編』から

sir-ta-p(sit-ta-p)
大地・掘る・もの


 「アイヌ民族は、この地中果(地下の果実)をアハまたはエハと呼んで、昔から重要な食料の一つとしていた。

 晩秋あるいは早春に掘取り、煮て油をつけて食べたり、栗飯のように米と一緒に炊いて食べると非常に美味であり、またビタミン類も豊富に含まれていることは既に報告した。 

 ヤブマメは明治時代から昭和20年頃にかけて出版された救荒植物関係書に記載されているが、最近ではほとんど知られていない山菜である『アイヌ民族の伝承有用植物に関する調査研究 ヤブマメの試験栽培』)。


 「浜田藩の飢饉の食物として次の品が挙げてある。

 あざみ・干わらび・木のぶ(りょうぼ)・うふぞりの芽・あかざ・もめら・ところ・おんばくの葉・いも・ふき・やのね・うら白・ほや・渋柿・とち・うつなくり
 
 大豆・小豆の葉・ヒルナ・アサツケ・蕗・レンゲは、いずれも飯に入れてたべた。その他アザミ・アカザ・オンバクなども食べた。藁はそぐって節を除き、節と節との間だけ採り、灰を入れて茹で、川で晒した後、不熟米を粉にしたシイラ粉に混ぜて藁餅についた(『石見匹見民俗』)。


 近辺遺跡の豆類出土例

 北講武氏元遺跡(松江市)
 縄文時代晩期後半〜弥生時代前期土器からマメ科ダイズ属のツルマメの厚痕

 弥生時代前期
 山口県・綾羅木(アズキ?)・下東(アズキ)・宮原(ダイズ)・無田(アズキ)・辻(マメ類)

 弥生時代中期
 山口県・岡山(ダイズ、アズキ、リョクトウ)・天王(ダイズ・アズキ)


●白旗山(シラハタヤマ)
 


 白旗山周辺は黒ボク土で、縄文期に山焼きが行われ、ススキ原であった。近辺の黒ボク土の分布は、南側の1037ピークに白旗山と同じ Azo-1 がある。

 西から北側にかけては弥十郎山、香仙原、安蔵寺山に Azo-1 Azo-2 がある。

 東側の小五郎山に黒ボク土は無く、高津川水源の田野原と向峠に厚層の黒ボク土がある。

 白旗山と1037ピークの黒ボク土は、周りの黒ボク土と比べて層が薄く、新しい時代のものと考えれる。


●シラハタ(谷)
 


●サコノ谷
 


●大谷川(オオタニカワ)
 


●マンゾウクズレ谷
 

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カシミール3Dデータ

総沿面距離12.7km
標高差669m

区間沿面距離
河内神社
↓ 3.3km
白旗山
↓ 2.5km
オオ谷
↓ 2.8km
車道
↓ 1.6km
ヒロ谷林道
↓ 2.5km
河内神社
 

 
 
 
 
 
@白旗山の黒ボク土

国土交通省土壌図簿冊から
 

A『クロボク土とその形成環境』山野井徹 (まとめの部分)
 
B焼畑とヤブマメ

『焼畑地における雑草群落と埋土種子集団の経年的変化』 -宮崎県椎葉村の事例- 田中正道(『雑草研究Vol.49』2004)
 
国土交通省土壌図+カシミール3D
茶色=白旗山黒ボク土 Azo−1
 
車道から
      香仙原         赤土山                                     安蔵寺山
林道から
                鉢の敷山(容谷山)                                      小五郎山
林道から
         額々山 寂地山     茅帽子山(右谷山)                                  容谷山
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より