3:30 柴木駐車場 曇り 気温−4度
3:45 内黒山登山口
5:55 薮ヶ迫山
6:15 内黒山
6:30 内黒峠
7:45 彦八の頭
8:10 藤本新道分岐
8:55 丸子頭(前三ツ倉)
9:40 中三ツ倉(道標は前三ツ倉)
9:55 奥三ツ倉
10:20 十方山
11:30 十方山登山口
12:10 二軒小屋
13:25 横川出合
14:25 葭ヶ原
15:35 黒渕
16:30 長渕橋
16:40 柴木駐車場
柴木橋を渡り、車道を進む。途中から林道柴木線に入り、坂を上がる。15分ほどで内黒山登山口。道標があり、内黒峠まで2時間半とある。雪の無い登山道を登る。落ちているマツボックリに目が留り、周辺を見るとエビフライと呼ぶマツカサの食痕があった。この辺りにもマツカサを食う小動物が居るようだ。
登山道にマツカサの殻の破片(鱗片)がたくさん落ちており、そのまわりにエビフライがあった。登山道が西から北西に向きを変えると雪道となる。雪道にカンジキの跡が続いていた。雪の上にもエビフライが落ちていた。まだ新しいもののようだ。
マツカサとエビフライ |
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雪の上のエビフライと鱗片 |
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カンジキの跡は尾根に上がる手前の急斜面で消えていた。そこから間もなく宮里山とあるセンター造林地の看板の所に出た。尾根に出ると、尾根まで林道が上がっていた。尾根を登る。時刻は5時45分ころで、薄暗い空にサバノ頭が見える。その右手に向山、雪の斑な深入山も見えた。そのまま尾根を登ると、雨量観測塔のある薮ヶ迫山(宮里山)に出た。
薮ヶ迫山から少し下ると道標がある。植林地を進み内黒山の道標の所に出た。そのころには、すっかり明るくなった。一服して内黒峠に下った。出発からちょうど3時間ほどで内黒峠に出た。北に比尻山が見える。加藤武三の碑の所から十方山登山道に入る。登っていると、内黒峠をスキーを載せた車が通過して行った。
トチノキ |
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雪は硬く、カンジキの必要はなかった。背に陽が射し始めた。展望地に出ると、眼下に恐羅漢公園線の車道が縫うように走る。深入山、サバノ頭、向山、大箒山、大平山などが見える。枯れかけたミズナラの巨木はまだ健在だった。左手に市間山、立岩山の尾根が見える。1166ピークに「彦八」の道標が立っていた。
ブナの尾根を進む。1166ピークからの下りは東側が開けている。彦八の頭の上に見えているのは十方山の北峯と思われる。リョウブ林を下ると、右手に恐羅漢スキー場が見えてくる。7時半過ぎに恐羅漢からミュージックが聞こえ始めた。彦八の頭に出た。立岩山の尾根が目前にある。先ほどまで青かった空が雲に覆われていた。
彦八の頭から下っていくと、恐羅漢スキー場の全体を見渡すことができる。カラ谷水源のカザゴヤキビレに下り、ブナ林を少し登ると藤本新道分岐。ここから二軒小屋まで1時間ほど。一服して丸子頭に向う。相変わらず雪は硬く、カンジキはいらない。ブナの巨木を見ながら、快適な尾根を進む。
クマシデ |
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後ろを振り向くと山々が低い雲に覆われ始めた。だんだんと視界が悪くなっている。藤本新道から1時間ほどで丸子頭。中三ツ倉は雪雲が掛かっていた。小雪の舞い始めた尾根を進む。那須分れの道標のところに出ると、近くに前三ツ倉(中三ツ倉)の道標が頭を出していた。
桑原良敏の『西中国山地』には北から順に前三ツ倉(丸子頭)、中三ツ倉(那須分れ)、奥三ツ倉となっている。
小雪の中を奥三ツ倉に進む。30分ほどで道標のある岩の三ツ倉に出た。大きいブナのある論所へ下る。論所の深く掘られた谷を回りこんで、十方山の道標のある横を通り、ガスと小雪の中を十方山に出た。道標周辺に雪は無かったが風が強い。
サカキ |
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早々に北へ続くカンジキの薄い跡を追った。足跡は北のピーク方向へ続いており、途中からシシガ谷へ下った。植林地に入って下ると、カンジキの跡があった。林道に出ると雪にはまるようになった。ここで今日始めてカンジキを履いた。1時間ほどで十方山登山口に出た。
十方林道は、今年は雪が多く残っていた。スキーとカンジキの跡に続く。シシガ谷の雪はまだ深い。二軒小屋駐車でカンジキを外す。魚切滝を過ぎると、旧道に入るが、ここも40cmほど雪が残っていた。深く沈んだ足跡が続いてた。足跡は途中からカンジキに変わった。
深い雪道をすすみ、ようやく横川出合に出た。田代川を渡る赤い橋は雪で覆われていた。まだ雪の多く残る三段峡遊歩道に入る。雪融け水を集めた三段峡は、普段より水量が多い。葭ヶ原まで進むと、足跡があった。この時期三段峡に入る人があるようだ。3時間ほどで三段峡を抜けた。
ヒサカキ |
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アオキ |
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川原のネコヤナギ |
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魚切滝 |
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横川出合 |
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葭ヶ原 |
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黒渕 |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
「黒ボク土」(黒土)は山焼き・野焼きによって形成された。以下は『黒土と縄文時代』(山野井徹)からの要旨である。
『旧石器時代の石器は赤土の中から、縄文時代の遺物は黒土の中からでてくることが多い。また、縄文期のものが赤土から出てくることはあっても、旧石器のそれが黒土から出ることはない。すなわち,黒土に埋没する土器は縄文期以降に限られるという不思議な必然性がある。
従来黒土は「クロボク土」とよばれ、「火山灰土」と考えられてきた。
クロボク土は植物遺体や腐植が分解されずに残っているという特性をもっている。クロボク土の特質が植物遺体が分解されないことであるならば、その条件こそがクロボク土の形成要件であろう。
植物が分解されずに地層中に残る条件は2つある。1つ は植物遺体が酸化的な環境ではなく、還元的な環境におかれ続けることである。もう1つは分解される前に燃焼に
よって炭化することである。クロボク土の生成環境は酸化的な環境であり植物遺体は分解されてしまう。したがって前者の条件は消えるから、後者の炭化条件が残る。そこでクロボク土層中の黒色破片は炭化した後に堆積した植物破片ではなかろうかという見通しが得られる。
筆者は植物遺体を燃焼させ、その細片を顕微鏡で観察した。その結果、クロボク土中の黒色破片の形態はススキの燃焼炭粒子と共通していることを見出すことができた。よって、クロボク土中の黒色破片は燃焼炭の微粒子(以後「微粒炭」という)と考えるのが最も妥当である。
クロボク土の中には必ず微粒炭が含まれていることから、この微粒炭の生産を、古代人の生活と関連させて考えた。古代人が火を使い、草木の燃焼炭が粉塵となって堆積し、そこに腐植が吸着したものがクロボク土であると考えた。すなわち、クロボク土の形成にとっての必要条件は、燃焼炭(微粒炭)の生産にある。つまりクロボク土の形成には微粒炭を生産したような火の使用が必要不可欠の条件となる
さて、微粒炭を生産するような火の使用とは一体,どんなものであろうか。広大な範囲に微粒炭を堆積させるよう
な火の使い方は、炊事や土器焼きのような居住地周辺での小規模なものではなく、野焼き、山焼きのような大規模なものであったと想定される』
サバノ頭から十方山の西端の尾根まで、黒ボク土が続いている。
黒ボク土は長年に亘る縄文人の山焼きによって形成された。「Ysi-1」と呼ぶ黒ボク土であることから、同じ地域の縄文人によって、同じ時代に継続的に山焼きが行われ、黒ボク土が形成されたと考えられる。
この黒ボク土の尾根に残る地名は縄文人の山焼きの過程で形成されたと考えられる。
●ヤブガサコ(薮ヶ迫山・宮里山)
●薮ヶ迫山
●宮里山(ミヤリ=薮ヶ迫山)
●オオクビレ(内黒峠)
●ヒコハチ谷(彦八の頭)
●マルコ谷
●三ツ倉(ミツクラ)
サバノ頭から十方山の尾根には三つの「三ツ倉」がある。「前三ツ倉」「中三ツ倉」「奥三ツ倉」である。瀬戸滝から上がる十方山登山道に「三ツ倉」がある。黒ボク土=山焼き=ススキ原の尾根は狩場の尾根であった。
●論所(ロンショ)
セイカク谷落口 龍の口の入口右岸にある |
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●セイカク谷(姉妹滝)
セイカク谷は三段峡入口の西善寺の坊さんが道に迷った谷の名とされている。この滝は姉妹滝と呼ばれている。
●姉妹滝(シマイダキ)
●タキガ谷
●柴木川(シワギガワ)
●黒渕(クロブチ)
●葭ヶ原(ヨシガハラ)
●キヤケボタン
●蛇小屋(ジャゴヤ)
●イシノコヤ
●トウダイゴヤ
カシミール3Dデータ
総沿面距離30.7km
標高差991m
区間沿面距離
柴木
↓ 5.2km
内黒峠
↓ 4.5km
丸子頭
↓ 2.9km
十方山
↓ 4.7km
二軒小屋
↓ 4.4km
横川出合
↓ 2.3km
葭ヶ原
↓ 3.3km
黒渕
↓ 3.4km
柴木
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