山歩き

茶屋…小広瀬川…牛首峠…竹ノ原
2011/5/21

広瀬自治会館…小広瀬橋…小広瀬川…牛首峠…767P…788P…736P…84鉄塔…鉄塔道…竹ノ原…広瀬橋…自治会館

■沖ノ原遺跡 (縄文遺跡 小字名:沖ノ原・竹ノ原・田屋  所在地:匹見町広瀬竹ノ原)
■砂田ノ上遺跡 (縄文遺跡 小字名:砂田ノ上  所在地:匹見町広瀬竹ノ原)

広瀬城説明板
内石にあがる林道
キリナシバス停
切梨バス停の小広瀬橋
小広瀬川落口
広瀬城と小広瀬橋
車道終点の民家
草薮の段々畑
スギ林の中の石垣
堰堤
ワサビ田跡
牛首峠 ウシクビタオ
広瀬雨量観測局
アカマツ林を進む
767Pの岩
枯れたササの尾根
ヒノキの植林地に入る
クリの木のクマ棚
2mほどのアオダイショウ
84番鉄塔と左端の小郷山
尾根の鉄塔道を進む
左61右84分岐
送電線合流点
イタヤカエデ
小谷を下る
竹ノ原集落 上流方向
竹ノ原集落 下流方向
中央の水路
広瀬橋
右岸から見た竹ノ原 広瀬橋上流方向
広瀬橋と竹ノ原
右岸から見た竹ノ原 広瀬橋下流方向
竹ノ原下流
竹ノ原上流の岩礁
右岸上流から見た竹ノ原
広瀬大元神社入口
ハナウド
ワサビ
6:10 広瀬自治会館 曇り 気温19度
 
ミツバツチグリ

6:25 小広瀬橋
7:15 堰堤
8:30 牛首峠
10:15 767P・岩
11:10 788P・ヒノキ林
11:50 736P・クマ棚
12:25 84鉄塔
12:50 送電線合流点
14:25 竹ノ原車道
14:40 広瀬橋
14:50 自治会館


 広瀬自治会館駐車場を出発。匹見川右岸の国道を進む。対岸に内石へ上がる林道が見える。広瀬城下の民家へ上がる車道に広瀬城跡の説明板がある。城主の広瀬大谷氏は天正3年(1575年)美都の寺戸氏に滅ぼされた。匹見川に大きいコイが居た。川原のクマノミズキの花芽が伸び、ケヤキに袋状の虫えいがつく。クリの木に花芽が下がる。

 広瀬城のある尾根の先端に、城跡にジグザグに上がる山道がある。小広瀬橋の入口はバス停切梨。広瀬の大元神社は元々切梨にあった。切梨は字「喜利奈志」「桐梨」とも表している。小広瀬橋を進む。匹見川下流左岸にマツガ谷が落ちている。上流左岸の岩盤の淵に小広瀬川が落ちる。橋から川中の見下ろすと、小さい鮎が走り、背中の甲羅が黄色の斑点のあるカメが居た。

クマノミズキ
ギンリョウソウ

 橋を渡ると地蔵が祀られている。民家の横を通り車道を進む。車道は小広瀬川左岸の民家で終点。電線が小広瀬川に沿って上がっている。草薮の山道を上がる。広瀬城跡の尾根の上に送電線鉄塔が見える。谷沿いに草薮と化した段々畑が続く。トチノキの花が咲く。シャクの山道を進むと朽ちた橋が残っていた。アサガラが咲き、谷にヤマメが居た。スギ林の中に高い石垣があった。

 林道に出た。林道は大きい堰堤に下っていた。堰堤沿いの薮を上がり、堰堤上の右岸に出た。山道は谷に下り、葉の茂るワサビ田跡に出た。左岸の竹薮に入ると、掘り返した跡があり、まだ新しいイノシシの糞があちこちにあった。左岸のスギ林に入ろうと一歩踏み出すと、突然スギの木の下の薮から潜んでいたイノシシが飛び出し、上の車道へ逃げ出した。

マムシグサ
トチノキ

 林道広瀬内石線は北へ大きく迂回している。林道から右岸の山道を進む。フキの間からイタドリが伸びている。フキの雌株が綿毛を付ける。サワガニが居た。ワサビ田跡がある。峠近くまでワサビの葉が出ていた。2時間ほどで峠の車道に出た。峠の西は植林地で植林道が通っていた。牛首峠は地元ではウシクビタオと呼んでいる。峠の西に牛首古墳、その近くにコブク縄文遺跡がある。

 「匹見川に流れ込む急峻な小谷を胸つき八丁の言葉さながらの急な坂道を越すのである。始めの内こそ石垣の高い棚田が続いているが、その内それもなくなり、人里離れた山の中の急坂を登るのである。どんなに急いでも一時間近く登らねばこの峠の上に立つことは出来ない。

 急峻な峠道、それを表現するかのような里謡の一節が残っている。

 『牛首にのせうとすれば、沖はほっこ谷、身は捨木』

と云うのである。牛首は牛首峠であり、牛と首の掛け言葉であろう。のせうは牛の首に乗せると云う意味と、この牛首にあったと云う家の家号が『のせう』であってそれと掛け言葉となっているのである。ほっこ谷は深い谷と云う意味で、身は捨木(すてぎ)は、命は捨てた想いで越すと云う意味と、この峠を越した向う側の部落が、捨木と云う部落なので、それを掛け言葉にしたものと思われるのである」(『ひきみ川』春日野満)。

 「内谷街道の交差点から小橋を渡り、内石川に沿うて東北に歩を運ぶと小さな峡があり、これを過ぎて内石下の部落に出る。内石神社と小学校とを右に見て内石上に出る。このあたりは比較的に広い平野が展開しておる。平野のつきるところ道は上り坂となって次第に地域が狭まり、登りつめた牛首の垰を越すと、道は東南(ママ)にひた下り、ついに小広瀬にでるのである。これが内石街道である」

 「牛首の俗謡として、『牛首へのしょう(野庄)とすれば身はしてぎ』と言うのがある。野庄としてぎは、牛首附近の地名であり、のすは登るの方言である」(『石見匹見町史』矢富熊一郎)。

アサガラ

 南東の尾根に入ると山道があった。この道は広瀬雨量観測局で終わっていた。薮を進むとスギ林に出た。スギ林を横切り、雑木の薮に入る。カラスザンショウのトゲのある幹が多い。ところどころササが密集している。ヤマボウシ、ウスノキが咲く。アカマツ林を通り、大岩が現われると767ピークである。オトコヨウゾメが咲く。ササの花が咲いていた辺りから上は、ササの葉が一面枯れていた。

 ササ枯れの北東の尾根を進む。クリの木にクマ棚が残っていた。788ピークから東側はヒノキの植林地に変わる。薮の無い植林地の山道が続く。736ピークのクリの木にクマ棚があった。2mほどのアオダイショウが道を塞ぐ。近づくと三角の頭をもたげた。84番鉄塔に出た。東側から山道が上がり、北へ続いている。736ピークへの展望がある。北側に和又の里が見え、その右に春日山が見える。送電線は南側へ大神ヶ岳の方へ延びている。その左手に小郷山、右手に燕岳が見える。

ケヤマハンノキ
ヒメコウゾ

 鉄塔道を北へ進む。61番・84番の分岐道がある。61番は東にある送電線鉄塔である。送電線の合流点に二本の鉄塔が立っている。さらに鉄塔道を下るとすぐに分岐がある。86←・85→・62→・63←の標柱がある。鉄塔道を西へ下ると、埋まりかけた階段道がある。鉄塔道は獣道のように細くなり、途中にクマ糞があった。谷に下りると標柱62←・63→があった。

 標柱から谷沿いの山道を下るとイタヤカエデの巨木があった。ワサビ田跡で山道が消失していた。谷沿いを滝の手前まで下る。左岸に上がると匹見川が見える。小尾根を少し登ると山道があった。山道は途中で消失していたが民家裏山のワサビ畑に出た。水田の畦を進むと、中央に匹見川と平行に水路がある。

 広瀬橋を渡ると、三出原・持三郎・茶屋・和又・小広瀬・竹ノ原地区の案内マップがある。古い建物の横に広瀬大元神社に上がる階段がある。そこからまもなく広瀬自治会館に帰着。

ウスノキ
オトコヨウゾメ
チゴユリ
ヤマボウシ
ツリバナ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と考えられ、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 西中国山地周辺では、匹見川沿いに縄文遺跡が集中している。広瀬竹ノ原に沖ノ原、砂田ノ上の縄文遺跡があり、下流の持三郎にコフケ、山根ノ下、舟戸、芝、小田原の遺跡、三出原、土井ノ原に長尾原、嶽、アガリ、田屋ノ原、寺ノ前の縄文遺跡がある。


 発掘地点の土層図を比較してみると、縄文遺物包含層は黒褐色土にあるという共通点がある。

 沖ノ原遺跡調査区の土層構成

沖ノ原遺跡(縄文後期・晩期 姫島産黒曜石)

下流地区土層(標高202m 縄文包含層5層)

1層 暗灰色粘質土(耕作土)
2層 灰褐色小礫土(客土)
3層 橙褐色砂質土(酸化鉄層)
4層 黄褐色砂質土
5層 黒褐色砂質土(やや粘質性)
6層 黄灰色砂礫土(河床礫層)

中流地区土層(標高202m 縄文包含層6層)

1層 暗灰色粘質土(耕作土)
2層 灰褐色小礫土(客土)
3層 橙褐色砂質土(酸化鉄層)
4層 暗灰色土(2cm大の小礫を含む)
5層 黄褐色砂質土(やや粘質性)
6層 黒褐色砂質土(人頭〜1m大の円礫を含む)
7層 黄灰色砂礫土(河床礫層)

上流地区土層(標高203m 縄文包含層5層)

1層 暗灰色粘質土(耕作土)
2層 灰褐色小礫土(客土)
3層 橙褐色砂礫土(酸化鉄層)
4層 灰〜黄褐色砂質土
5層 黒褐色粘質土(人頭〜1m大の円礫を含む)
6層 黄灰色砂礫土(河床礫層)


 黒ボク土は縄文期の山焼き、野焼きによって形成された土壌であり、燃焼炭=微粒炭を多く含むことによって黒くなる。

 「地層中に微粒炭が少ない堆積物 が『褐色ローム質土』であり、微粒炭が多くなるにつれて岩質が『黒褐色ローム質土』、 『暗褐色クロボク土』となり、最も多い『黒色クロボク土』に至ることが判明し、さら にこの順で可溶腐植の含有量も高まる関係が明らかになった」(『黒土と縄文時代』山野井徹)。

 縄文(弥生)遺物包含層が黒褐色を示すことは、野焼きが長年に亘って継続されたと考えられる。野焼き、山焼きは焼畑による穀物栽培が考えられるが、匹見町の遺跡から穀物を収穫する道具である石包丁や根刈り具の出土がない。

 沖ノ原遺跡では土堀具である打製石斧の出土が多いことから、野焼きの後、ワラビ、ゼンマイ、タケノコ、ジネンジョ、クズ、オオウバユリなどの根茎類を採取していた考えられる。

 「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものであるが、近時焼山を行わないので生産量は減じた。蕨はそのまま乾したが、ぜんまいはあくがあって虫がつくので、一旦灰汁で煮た上乾かして貯蔵する。七村・矢尾・三葛・石谷等が名産で美味。両方とも煮〆にして常用する…

 わらびの根を掘るには一つの骨があった。大体わらびの根は地下一メートルの深部を這っているから、勢い深く掘り下げねばならぬ困難さがある。従って平面を掘るような無駄をしないで、傾斜面を選んで能率的に操作をはじめなければならない」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。

 匹見川沿いの縄文遺跡周辺では、野焼きは根茎類の採取に欠かせないものであったと考えられる。


広瀬竹ノ原の縄文遺跡の出土遺物
(○は出土)
遺跡名 縄文
土器
石錘 打製
石斧
石鏃
沖ノ原
オキノハラ
5054
(土錘1)
34
(石斧片
80)
19
竹ノ原地点
タケノハラ
1792  2 23
砂田ノ上 磨製
石斧
 


 匹見川の縄文遺跡から石錘が多く出土する。紙祖川の石ヶ坪遺跡から108個の石錘が出土している。石錘、土錘は網漁に使用された。

 「最も顕著に発見されるのは、植物の繊維でつくられた漁網に吊るす石錘(せきすい)・土錘(どすい)という錘である。前者は石製のもので、細長の扁平な河原石を代用したものが多い…通常は長さ5〜7cm、重さは70〜100グラム程度…土製のものは筒状で、弥生時代に登場し、近世まで踏襲されている」(『匹見町史・遺跡編』)。

 縄文時代、漁網はサケマス漁などに使われたと考えられる。

 「鮭は大正年間までは、相当さか上がっていたが、昭和に入ると次第に少くなり、現在では影をひそめた。鱒は大正年間ころまでは、非常に多く、下道川までさか上がった。どの淵を臨んでも一〜二尾は発見され、所によると十数尾もいた」(『石見匹見町史』)。

 「本地区(石ヶ坪)では…河川にはハエ・アユ・ゴギ・ヤマメ・ケガニなどが生息 し、昭和の中ごろまではサケ・マスといった冷水魚が遡上していたといわれるなど、自然豊かな環境下にある地区でもある(『市内遺跡詳細分布調査報告書X[』益田市教育委員会)。

匹見町縄文遺跡の地域別石錘数

地域

石錘数
澄川(匹見川下流) 11
道川・出合原(匹見川上流)
紙祖(紙祖川下流・主に石ヶ坪遺跡) 143
三葛(紙祖川上流) 17
広見川下流(下手遺跡)

後谷(石谷川・広戸遺跡)

31


 竹ノ原調査地点(沖ノ原遺跡)から石冠が出土した。

 「平成14年(2002)に試掘したとき、奇妙な石器が出土した。握りこぶしを重ねたような丸石で、高さが6.6cm、幅が8.7cmある。見ようによっては正月の鏡餅のような二段重ねの丸玉となっているし、縄文の遺物でいえば、寸たらずの石棒のようにも見える。要するに丸石の中央を掘り窪めて、抉った石である。表面はざらざらしており、気泡が多く柔らかい石である。

 この石器によく似た呪術具として縄文時代には石冠があって、使用時期も一致している。石冠は、磨製石器の一種で、人骨の頭部から出土したことが理由になって命名されたが、冠帽のように身に着けるものではなく、石棒にちかい遺物である

 石を叩いて窪ませる行為そのものが呪術的な所作であったこと以外に考えられないであろう。窪んだ穴は女性器の象徴であって、これを男性の象徴である石棒に対して所作を執り行うことは、性行為の演劇化であって、呪術のなかでももっとも象徴的な意味を込めたものである。この神秘的な所作は、結果そのものが次第に象徴化されて、窪んだ石が呪術具となる。石冠はそのもっとも定型化した石器で、一端が男根で、一端が女陰となった両性を具有する特異な磨製石器である。

 沖ノ原遺跡の石器は石冠に似るが、下に凹みがないところから、厳密には石冠と呼べない。しかしながら、異形石器が定型化するまでには長い実修の時間がかかっており、さまざまな中間、過渡的な石器が発生している」(『匹見町誌・遺跡編』)。

石冠

『沖ノ原遺跡調査報告書』 匹見町広瀬竹ノ原地点

●竹ノ原(タケノハラ) 
 tak-nu-hur 
 タク・エ・ヌ・フル
 円礫(玉石)・の・丘

 tak-nu-huru の転訛。

 竹ノ原から石冠が出土している。玉石とは石冠のことであろうか。

 「本地点域は、北西側を匹見川が西南西流する左河岸端にあたり、また反対の南東側にかけては緩やかに比高差約3mを測る丘陵が形成され、そしてその100m地点に至っては調査地点よりは低位となっていて、そこは旧河道であったことを窺わせる地形に立地している。つまり遺跡は中州状に形成された場所にあたっている」(『沖ノ原遺跡調査報告書』)。

 発掘地点の土層では、縄文包含層に円礫を多く含んでいる。沖ノ原遺跡の断面図にあるように、かつて匹見川は南側にも分流していて、遺跡発掘地点は縄文期以前には島であったと考えられ、縄文人がやってきた頃には円礫の覆う中州であったと思われる。「竹ノ原」とは円礫の覆う丘のことであると思われる。

 アイヌ語地名
★ tak-an-pet ゴロタ石・ある・川 
★ tak-ruy-pira 玉石・甚だしい・崖
★ tak-pet 円礫・川
★ hura-nu-i 臭・もつ・所(富良野)
★ tak,taku かたまり・塊・球・玉石・川の中のごろた石(アイヌ語小辞典)

●沖ノ原(オキノハラ)
 okimne-an-hur
 オキムネ・アン・フル
 奥の方に・ある・丘

 okine-huru の転訛。

 沖ノ原遺跡は中州の上流側にあり、中州は時とともに匹見川の浸食に曝された。遺物の分析から「下流地区は別集団の来住地」であった可能性が指摘されている。

 「つぎに遺物から文化期をみると、縄文のものは縄文後期前葉の中津式から晩期後葉の突帯文までのものが出土している。ただし、3地区とも万遍なく一様に出土しているかというとそうではなく、下流地区では後期末のものを最古級として、大半は晩期中葉を主とした突帯文系のものであった。

 また中・上流地区では後期前葉の中津式系を最古級とするが、ほとんどは後期末から晩期初めの岩田Y類などの凹線文土器類で、下流地区の突帯文系は僅かであったのである。

 このことは中・上流地区から下流地区への移動であったものなのか、もしくは後期末からの生活域の拡散であったものなのかは判らないが、中・上流地区における晩期前葉期の衰退は、仮に該時期に河流によるオーバーフローよる災害によったものとみるならば、存続というよりは下流地区には別集団の来住地であったとも考えられないでもなかろう。

 それを明確に証拠立てるものは見当たらないものの、例えば中・上流地区では黒耀石が皆無だったにもかかわらず、下流地区では石鏃を含めて16点のものが出土したという事実、そして大量の打製石斧の出土といったことも考え合せるならば、後者を肯定する材料であるかも知れないと考えている」(『沖ノ原遺跡調査報告書』)。

 アイヌ語地名
★ okimne-an-morap 奥の方に・ある・小山
★ ekimne-an-pet 山に・ある・川


●牛首峠(ウシクビのタオ)
 uskuyhe-taor
 ウシクィヘ・タオル
 その尻の・高い所(山裾の高い所)

 usis-kupita-or
 ウシシ・クピタ・オロ
 蹄の・畑・の所

 ushikuhe-tao の転訛。
 ushi-kupita-o の転訛。

 縄文晩期を中心とした沖ノ原遺跡の下流に砂田ノ上遺跡がある。この遺跡の出土遺物は石谷の広戸B遺跡に類似した様相を示しており、竹ノ原と石谷の移動・交流など何らかの関連性があったと考えられている(『匹見町誌・遺跡編』)。

 そうなると、牛首峠は縄文時代から通行していた峠であった思われる。

 「牛首と田原の両古墳は、牛首峠と田原峠の頂上近く、高手にあることを思う時、この両古墳に眠る古代人は、牛首と田原の迫田を耕したことがあり、辺鄙な所に存在するやに見えるが、この地は上代における澄川・匹見間の交通の要衝に当っていたのである」(『石見匹見町史』)。

 牛首峠の南北の山は黒ボク土で、縄文期に山焼きが行なわれ、ススキ原であったと考えられる。鹿は林と草原が点在する所を好む。周辺はコナラ群落で、ドングリはイノシシやシカの重要な食料の一つである。

 牛首峠のコブク縄文遺跡から石鏃や黒曜石片が出土している。峠周辺の山々でイノシシやシカなどの獲物をねらった狩が行なわれていたと考えられる。

 シカやイノシシの狩は縄文時代から近代まで続いていた。

 「浜田藩では鹿を、藩内各組、特に深山の当組に捕獲を命じ、その皮を徴発した。

 匹見組には鹿の外に猪がおびただしく棲み、農作を不断に荒らすので、これが防止については、田畑の附近に野火を放って林を焼き払い、鹿や猪の近づけないか、或いはおどし鉄砲の免許を得て威すか、或は鹿小屋を田畑の周囲に建てて、夜通し引枝を鳴らしながら、彼らを近づけないよう、色々と方策を考えた。

 慶応三年七月匹見組においては、猪鹿が田畑に出て作物に甚大な被害を与えるので、猪垣、落穴を作るため、拝借銀を願出ることに一致した。広瀬村庄屋山崎光右衛門は益田へ出張し、拝借内容を尋ねて帰村した光右衛門は、匹見組全体では拝借銀は容易でないから、先ずもって、猪鹿の被害の多い澄川村・小平村・千原村・広瀬村だけが拝借願をし、他の村々はしばらく遠慮して時節を待った方がよいということになった」

 「明治の初年ころも、当組には猪や鹿がおびただしく棲んで、田畑を荒らすので、またこれを狩り獲った。明治二年秋から三年の春にかけて、広瀬村では猪と鹿を狩り捕えること百四十五頭、同秋から春にかけて百五十二頭を捕り、明治二年八月までに広瀬村では百三匹の猪、鹿を捕まえた。又内谷村ハビでは一日二十一匹、千原村でも五匹を捕えた。右広瀬村での百三匹中、人別の捕獲数を挙げると

 猪 十九匹 鹿 八匹 山崎善三郎
 猪 九匹         滝太郎
 猪 五匹 鹿 五匹   甚七
 猪 七匹         守三郎
 猪 五匹         治三郎
 猪 十匹         升四郎

 以下一〜二匹づつ省略」(『石見匹見町史』)。

 匹見でシカを見たことがないが、現在広島県側から侵入しているようだ。

 「島根県内のニホンジカは、明治時代までは隠岐島を除いて広く生息分布していました。しかし、明治時代の食用などのための乱獲によって、島根半島西部の弥山山地のみが集団生息地となっていました。ところが、近年県内の中国山地でシカが目撃、捕獲される場合が増えており、農作物に食害が発生した地域も認められるようになってきました。これらのシカは、2万2千頭が生息する広島県側の中国山地から拡がってきたと推測されます」(島根県HP)。

 アイヌ語地名
★ o,osor,uskuy,shibui,us-puy,uskuyhe 尻 
★ nupuri-o-kes 山・尻・末端(山裾)
★ sir-o-sut 山・尻・根元(山のふもと)
★ tanne-kupita 長・畑


●茶屋(チャヤ) 
 ichan-ya 
 イチャン・ヤ 
 サケマス産卵場の・岸

●切梨(キリナシ)
 kiri-nay
 キリ・ナイ
 サケ産卵場・川

 サケマスはかつて紙祖川にも上っていたという。眼鏡峠に茶屋床の地名があるが、アイヌ語地名に「イチャン・エトコ」がある。「サケマス産卵場の・水源」の意であるが、サケマスは表匹見峡を越えて道川まで上っていたのではないか。

 アイヌ語地名
★ ichan-ya-oma-p サケマスの産卵場・岸・にある・所
★ putu-ichan-nay 太茶苗・フトチャナエ(北海道)
★ ichan-i 伊茶仁・イチャニ(北海道)
★ ichan-nay 茶内・チャナイ(北海道)
★ kirikatchi 鮭の産卵場(切梶川)
★ kiri-kap-kotan 鮭の産卵場

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カシミール3Dデータ

ミズタビラコ

総沿面距離11.6km
標高差603m

区間沿面距離
広瀬自治会館
↓ 3.5km
牛首峠
↓ 2.7km
788P
↓ 2.1km
84鉄塔
↓ 3.3km
自治会館
 

 


■沖ノ原遺跡地形断面図 『沖ノ原遺跡調査報告書』 益田市教育委員会)
■沖ノ原遺跡調査区配置図
■沖ノ原遺跡下流地区遺構
■石冠高さ6.6cm 幅8.7cm 厚さ7.1cm 重さ499.7g
 (『匹見町内遺跡詳細分布調査報告書]X』匹見町教育委員会 匹見町広瀬竹ノ原地点・沖ノ原遺跡)
■石冠出土状況
■沖ノ原遺跡出土遺物表 『沖ノ原遺跡調査報告書』 益田市教育委員会)
沖ノ原遺跡竹ノ原地点 『匹見町内遺跡詳細分布調査報告書]X』 匹見町教育委員会)
広瀬橋の案内マップ
84番鉄塔から見える和又
黒ボク土 (茶色 Azo-1 Azo-2) (国土交通省土壌図から)
 牛首峠の北西に黒ボク土が多い
植生図 (環境省「第6回・第7回自然環境保全基礎調査 植生調査」から)
 植林地を除けばコナラ群落が大きい割合を示す
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より