6:35 あゆみ橋 晴れ 気温9度
クサノオウ |
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7:00 持三郎の大岩
7:20 都橋(ミヤコ)
10:00 尾根
10:50 ヒノクチ炉
11:20 能登集会所
11:30 大平橋
12:10 こうれい橋
12:20 馬橋
12:40 小川橋
13:05 澄川橋
13:20 あゆみ橋
三出原のあゆみ橋を渡って匹見川左岸に下りる。エノキが緑の実を付ける。橋下は岩礁となっている。オオバアサガラの花芽が出始める。ケヤキの花はまだツボミ。水田に水を張った持三郎集落に入り、火の谷川を渡る。匹見川に架かる「もつさぶろうばし」まで出た。橋の横に「河鹿とホタルと鮎の里」の看板がある。橋から左岸を進むと、川沿いのサクラが赤い実を付けていた。
水田の端の川沿いの巨岩の上に岩を乗せた所がある。「持三郎の大岩」である。昔、大岩の上に八幡神を祀った小祠があったが、大洪水で日本海に流された。
「応安年間(1368〜1374年)よりさか上った昔、匹見澄川持三郎(もつさ)の、匹見河岸の岩上に、八幡神を祀った小祠があった。ある年の大洪水に、神社は奔流に押し流され、御神体は日本海上を漂って、鎌手地区の大谷・大浜両村の境に漂着した。そして、これを発見した両浦の漁民は、お互いに神体の奪い合いをしたが、和談の結果久城の、櫛代賀姫(くしろかひめ)神社の境内に奉斎した。何しろ、武家の鼻息が強い、当時のこととて、その後従来の賀姫神社は、次第に影を薄くし、武神たる八幡宮が、勢力を進展したのである。なおこの神社の習俗として、相撲の儀があるのは、御神体を発見した際に、大谷・大浜両浦の漁夫が、互いに組み合って演じた、喧嘩のな残名りを示すものであり…針拾いの神事は、御神体を三田瀬で拾った時、匹見のものがその場に立ちあったが、たまたま所持した針を失ったので、これを探し求めた故事が、習俗として神社に残されたものである。…今日持三郎の河岸にある岩は、ただ昔物語を伝えるだけで、何もあとが遺っていない(『石見匹見町史』矢富熊一郎)。
応安年間後の永徳年間(1381〜84)の和鏡「桧垣松柳飛鳥鏡」(ひのきがきまつやなぎひちょうきょう)が、大岩の南の山根の下遺跡から出土した。十二世紀後半のもので、祭祀に伴い供献されたものであったと考えられている(『匹見町史・遺跡編』)。
「もつさの大岩」から、上流の景色が水田に浮かんでいるのが見える。大岩の下の匹見川に大きい岩礁がある。引き返して持三郎橋に戻る。橋の下流は深い淵となっている。橋を渡り匹見川右岸を進む。火の谷川水源の山が伐採されているのが見える。川沿いにミズキ、オオバアサガラが咲き始める。ミヤコ谷に架かる都橋に出た。都谷落口の匹見川は川が狭まり、両岸が岩礁となっている。
都谷の入口のオニグルミに赤い雌花が出ていた。左に民家、右に蓮長寺がある。左岸を進み木橋を渡る。堰堤を越えると右岸に山道があった。蓮長寺から逃げ出したものか、谷の奥まで不釣合いなヤシ科のシュロが伸びていた。谷沿いにピンクのテープが続く。ワサビ田跡の石積みが残る。右岸の石垣はスギ林となっている。左岸の石垣の道を進むと、谷はゴルジュとなり小滝があった。
オニグルミ |
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マグワ |
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朽ちた木橋が架かる。ワサビの葉が点々とある。ワサビ田跡はシャクの群生地と変わっていた。小滝を越えて水源の広いワサビ田跡に出た。ヤブデマリが咲いていた。イノシシが掘り返した跡があった。少し上流のササ薮を登り尾根に出た。コナラの枝が折られ、古い爪痕があった。アカマツのある雑木の尾根を北へ進む。
30分ほどでスギ林に下った。さらに下ると両岸の合流点に石垣があり、谷の右岸に石垣が続き、山道が上がっていた。この石垣付近が火ノ口鈩と思われる。木橋を渡ると車道に出た。道の上側に民家がある。道は能登集落へ下り、能登集会所へ出た。能登川を下ると大平橋がある。ミツバウツギ、ヤマグルマが咲き始めている。シャベルカーが谷に引っくり返っていた。
能登川は匹見川と同様アオナラガシワが多い。こうれい橋を渡ると次は馬橋。ここから日晩峠へ上がる道があるが薮となっている。ウラジロガシに雌花が出る。能登から1時間余りで小川橋に出た。小川橋から尖った野間山が見える。かじか橋を渡り匹見川左岸に下りる。滝の横に三出原不動明王がある。澄川橋で地元のおじさんと立ち話。昔はサケが遡ったという。橋の下流で簗漁をしていたとのこと。そこからまもなくあゆみ橋に帰着。
ヤマグルマ |
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ウラジロガシ |
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ヤブデマリ |
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ムラサキケマン |
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ナルコユリ |
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ヤブレガサ |
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コケイラン |
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キエビネ |
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■地名考
日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。
アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。
西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と考えられ、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。
西中国山地周辺では、匹見川沿いに縄文遺跡が集中している。持三郎にコフケ、山根ノ下、舟戸、芝、小田原の遺跡、持三郎の下流に長尾原、嶽、アガリ、田屋ノ原、寺ノ前、上流の広瀬竹ノ原に沖ノ田の縄文遺跡がある。
発掘地点の土層図を比較してみると、縄文遺物包含層は黒・灰色土にあるという共通点がある。
黒ボク土は縄文期の山焼き、野焼きによって形成された土壌であり、燃焼炭=微粒炭を多く含むことによって黒くなる。
「地層中に微粒炭が少ない堆積物 が『褐色ローム質土』であり、微粒炭が多くなるにつれて岩質が『黒褐色ローム質土』、 『暗褐色クロボク土』となり、最も多い『黒色クロボク土』に至ることが判明し、さら
にこの順で可溶腐植の含有量も高まる関係が明らかになった」(『黒土と縄文時代』山野井徹)。
縄文(弥生)遺物包含層が黒・灰色土を示すことは、野焼きが長年に亘って継続されたと考えられる。野焼き、山焼きは焼畑による穀物栽培が考えられるが、匹見町の遺跡から穀物を収穫する道具である石包丁や根刈り具の出土がない。
土堀具である打製石斧の出土があることから、ワラビ、ゼンマイ、タケノコ、ジネンジョ、クズ、オオウバユリなどの根茎類を採取していた考えられる。
「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものであるが、近時焼山を行わないので生産量は減じた。蕨はそのまま乾したが、ぜんまいはあくがあって虫がつくので、一旦灰汁で煮た上乾かして貯蔵する。七村・矢尾・三葛・石谷等が名産で美味。両方とも煮〆にして常用する…
わらびの根を掘るには一つの骨があった。大体わらびの根は地下一メートルの深部を這っているから、勢い深く掘り下げねばならぬ困難さがある。従って平面を掘るような無駄をしないで、傾斜面を選んで能率的に操作をはじめなければならない」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。
匹見川沿いの縄文遺跡周辺では、野焼きは根茎類の採取に欠かせないものであったと考えられる。
澄川持三郎の縄文遺跡の出土遺物
(○は出土) |
遺跡名 |
縄文
土器 |
石錘 |
打製
石斧 |
石鏃 |
小田原
オダワラ |
6 |
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2 |
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芝
シバ |
○ |
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舟戸
フナド |
39 |
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山根ノ下
ヤマネノシタ |
5 |
土錘
38 |
14 |
黒曜石 |
小泓
コフケ |
○ |
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匹見川の縄文遺跡から石錘が多く出土する。紙祖川の石ヶ坪遺跡から108個の石錘が出土している。石錘、土錘は網漁に使用された。
「最も顕著に発見されるのは、植物の繊維でつくられた漁網に吊るす石錘(せきすい)・土錘(どすい)という錘である。前者は石製のもので、細長の扁平な河原石を代用したものが多い…通常は長さ5〜7cm、重さは70〜100グラム程度…土製のものは筒状で、弥生時代に登場し、近世まで踏襲されている」(『匹見町史・遺跡編』)。
縄文時代、漁網はサケマス漁などに使われたと考えられる。
「鮭は大正年間までは、相当さか上がっていたが、昭和に入ると次第に少くなり、現在では影をひそめた。鱒は大正年間ころまでは、非常に多く、下道川までさか上がった。どの淵を臨んでも一〜二尾は発見され、所によると十数尾もいた」(『石見匹見町史』)。
「本地区(石ヶ坪)では…河川にはハエ・アユ・ゴギ・ヤマメ・ケガニなどが生息
し、昭和の中ごろまではサケ・マスといった冷水魚が遡上していたといわれるなど、自然豊かな環境下にある地区でもある(『市内遺跡詳細分布調査報告書X[』益田市教育委員会)。
匹見町縄文遺跡の地域別石錘数
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地域
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石錘数 |
澄川(匹見川下流) |
11 |
道川・出合原(匹見川上流) |
8 |
紙祖(紙祖川下流・主に石ヶ坪遺跡) |
143 |
三葛(紙祖川上流) |
17 |
広見川下流(下手遺跡) |
1 |
後谷(石谷川・広戸遺跡)
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31 |
持三郎遺跡調査区の土層構成
■小田原遺跡(縄文・弥生・中世・近世)
(標高173m 縄文包含層4〜5層 厚さ50cm 炭化物)
1層 暗灰色土(耕作土)
2層 黄灰色土(小礫を含む)
3層 橙褐色土(酸化鉄の含浸による)
4層 黒灰〜暗灰色砂質土
5層 黄灰〜黄褐色砂質土
6層 黄褐色粘質土(1〜3cmの小礫を多く含む)
7層 下床礫層(人頭〜50cmの円礫を多く含む)
■舟戸遺跡(縄文・弥生)
(標高173m 縄文包含層3層 炭化物)
1A層 暗褐色粘質土(上位耕作土)
1B層 灰褐色粘質土(下位耕作土)
2A層 橙褐色土(上位酸化鉄層)
2B層 橙褐色土(下位酸化鉄層)
3層 黒灰色砂質土
4層 黄褐色砂土
5層 黄灰色砂土(3mm大の石粒を多く含む)
6層 橙褐色粘質土(小礫を含む)
7層 黄褐色砂礫層(人頭大の円礫を含む)
■山根ノ下遺跡
(縄文・弥生・平安・中世 桧垣松柳飛鳥鏡)
(標高176m 縄文包含層3層 厚さ6〜60cm 炭化物)
1層 灰褐色粘質土(耕作土)
2層 橙褐色土(酸化鉄層)
3層 灰〜暗褐色土(10〜30cm大の礫を含む)
4層 黄灰色砂質土(小礫を含む)
●持三郎(モッサブロウ 古名=物三郎)
持三郎の山根ノ下遺跡から土錘が38個出土している。土錘は網用のもので、周辺で漁が行なわれていたと考えられる。
「土製のものは筒状で、弥生時代に登場し、近世まで踏襲されている。これは今にみる金属性の形状のものとあまり変わったものではない」(『匹見町史・遺跡編』)。
●家ノ前(イエノマエ)
家ノ前は持三郎左岸の字名であり、周辺で石錘、土錘が出土することから、網漁が行なわれていたと考えられる。
●小田原(オダワラ)
小田原は持三郎左岸の字名である。
●都谷(ミヤコダニ)
都谷落口の匹見川は川幅が狭くなり、両岸は岩礁となっている。
カシミール3Dデータ
ウマノアシガタ |
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総沿面距離14.0km
標高差385m
区間沿面距離
あゆみ橋
↓ 2.6km
都橋
↓ 2.9km
尾根
↓ 1.9km
能登集会所
↓ 4.6km
小川橋
↓ 2.0km
あゆみ橋
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