山歩き

中津谷…488号線…坊主山…小川林道
2011/2/5

ナカツヤ…488号線…出合橋…999P…坊主山…小川林道…出合橋…488号線…中津谷

■坊主山(ボウズヤマ)1136.5m:広島県佐伯郡吉和村字吉和西(点の記) (廿日市市)

488号線 中津谷入口
不栗付橋
足跡一つ無いテンが走り去った国道
テンの足跡
国道を覆う崩れた雪
出合橋
雪の主川 出合橋上流
雪深い尾根に取り付く
明るくなった取り付きの尾根
999Pへ上がる
999P北のクリの木のクマ棚
ミズノミ谷水源のブナ
目測で周囲4mほど
坊主山東の鞍部の植林地
坊主山の東を通る林道
坊主山
植林地の中のブナ
坊主山南の尾根を通る林道
林道のブナ
植林地の尾根を下る
小川林道に出た
ツララの下がる小川
雪で埋まる小川
アシガ谷落口付近
中津谷入口
4:10 中津谷 晴れ 気温−1度
 

6:20 出合橋
8:35 999P
12:10 坊主山
13:30 小川林道
14:30 出合橋
15:55 中津谷

 暗闇の488号線入口を出発。気温はマイナス1度で寒くは無い。中津谷川左岸のキャタピラの轍の上を進む。20分ほどで不栗付橋。猟師らしき足跡が山側へ入っていた。足跡の無い雪の国道を進む。雪が深くなった所でカンジキを履く。
 
 突然、四つの光る目がこちらに向かってきた。チチ!と鳴きながら左横をすり抜けていった。金色が際立つ二匹のテンであった。すり抜けた雪の上を見ると足跡一つ残していなかった。テンが現われた辺りまで進むと、そこに足跡があった。

 ところどころ崩れた雪が国道を覆っていた。2時間ほどで出合橋。橋はすっぽりと雪で覆われていた。主川は雪の川と化していた。出合橋に下りる深い雪の小尾根を登った。数十メートルほど登った所で、辺りが明るくなり始めた。急な尾根から尾根道に入る。左手に小川林道の谷が見える。

クリの木の爪痕 999P北
ヤドリギ

 湿った重たい雪尾根を進む。ブナの実が雪の中に落ちている。クリの木にクマ棚がある。クマ棚近くにヤドリギの葉が落ち、雪がピンクに染まっていた。出合橋から2時間余りで999ピークに出た。坊主山まで相当の時間が掛かりそうだ。

 重たい雪尾根を北へ進む。クリの木にクマ棚が続く。くっきりと爪痕が残っていた。縦走する尾根にウサギの足跡が先行する。ミズノミ谷の水源を廻り込み、尾根を西へ進む。北側が開けるが、遠くは霞んでいる。ブナとスギ林の尾根を進む。1047ピークの南を通り、尾根道を南へ進む。オオガ谷水源が開け、遠く坊主山が見える。尾根道が西向きに変わり、正面に坊主山が見え、南側に冠山が見える。

 尾根を下りきり、登りに入った所に周囲4m弱の大きいブナがあった。中は空洞であったが、まだ枝を伸ばしていた。冠山、ウシロカムリ、広高山の峯が見える。この辺りからクリの木のクマ棚が多くなる。樹木全体に実がたくさん残ったブナがあった。

4m弱の大きいブナ
折られたクリの木の枝
クマ棚の多い尾根
実が残るブナ

 坊主山に近づくと植林地に変わる。林道を横切って最後の登りに入る。ちょうど出発から8時間ほどで、スギ林の中の坊主山山頂に到着。深い雪の中に赤いテープがあるだけであった。坊主西峯を経て広高山をまわる予定であったが、この雪では時間がいくらあっても足りない。

 スギ林の中を進み、坊主西峯に続く尾根の途中から東の尾根を小川林道に下った。途中、北へ上がる林道があった。林道を進むと大きいブナがあった。林道は尾根を西へ周り、シナノキ谷の方へ下りていた。林道と分かれて、植林地の尾根を東へ下った。山頂から1時間余りで小川林道に出た。

 小川と林道は雪深く覆われ、川沿いに長いツララがぶら下がっていた。川にはもうヤマメが群れていた。1時間半ほどで出合橋に到着。朝歩いた踏み跡を辿る。イノシシの足跡が新たに加わっていた。トロン谷落口付近で除雪作業が行われていた。出合橋まで除雪する予定とのことだった。出合橋から1時間半ほどで出発点に帰着した。

ツルマサキ
エゾユズリハ
ツルアジサイ
群れるヤマメ 小川
 
 
イノシシの足跡 488号線
中津谷川
除雪する小型のシャベルカー


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 「黒ボク土」(黒土)は山焼き・野焼きによって形成された。以下は『黒土と縄文時代』(山野井徹)からの要旨である。

 『旧石器時代の石器は赤土の中から、縄文時代の遺物は黒土の中からでてくることが多い。また、縄文期のものが赤土から出てくることはあっても、旧石器のそれが黒土から出ることはない。すなわち,黒土に埋没する土器は縄文期以降に限られるという不思議な必然性がある。

 従来黒土は「クロボク土」とよばれ、「火山灰土」と考えられてきた。

 クロボク土はローム質土と比べて植物遺体(黒色破片)や腐植を多量に含む点で異なる。すなわち、クロボク土は植物遺体や腐植が分解されずに残っているという特 性をもっている。クロボク土の特質が植物遺体が分解されないことであるならば、その条件こそがクロボク土の形成要件であろう。

 植物が分解されずに地層中に残る条件は2つある。1つ は植物遺体が酸化的な環境ではなく、還元的な環境におかれ続けることである。もう1つは分解される前に燃焼に よって炭化することである。クロボク土の生成環境は乾陸 の地表であるから、そこは酸化的な環境であり植物遺体は分解されてしまう。したがって前者の条件は消えるから、後者の炭化条件が残る。そこで、前述のクロボク土層中の黒色破片は炭化した後に堆積した植物破片ではなかろうかという見通しが得られる。

 筆者は植物遺体を燃焼させ、その細片を顕微鏡で観察した。その結果、クロボク土中の黒色破片の形態はススキの燃焼炭粒子と共通していることを見出すことができた。よって、クロボク土中の黒色破片は燃焼炭の微粒子(以後「微粒炭」という)と考えるのが最も妥当である。

 クロボク土の中には必ず微粒炭が含まれていることから、この微粒炭の生産を、古代人の生活と関連させて考えた。古代人が火を使い、草木の燃焼炭が粉塵となって堆積し、そこに腐植が吸着したものがクロボク土であると考えた。すなわち、クロボク土の形成にとっての必要条件は、燃焼炭(微粒炭)の生産にある。つまりクロボク土の形成には微粒炭を生産したような火の使用が必要不可欠の条件となる

 さて、微粒炭を生産するような火の使用とは一体,どんなものであろうか。広大な範囲に微粒炭を堆積させるよう な火の使い方は、炊事や土器焼きのような居住地周辺での小規模なものではなく、野焼き、山焼きのような大規模なものであったと想定される』

冠遺跡D地点の黒ボク土
(『冠遺跡群 D地点の調査』1989年・財団法人広島県埋蔵文化財調査センター)から  

 冠遺跡群D地点(795m標高)は松の木峠の国道沿いの東側にあり、堆積物に含まれる火山噴出物の分析が行われた。黒ボク土に多い植物珪酸体含有率はアカホヤ火山灰(6000から6500年前)のある6000年前がピークとなっている(図1)。

 D地点周辺の植物珪酸体分析は次のようになっている。
 「K−Ah(アカホヤ火山灰)にかけては…この時期にはススキ属、キビ属などが生育する草原植生が成立したと考えられ…これらのイネ科植物は陽当たりの悪い林床では生育が困難であり、ススキ属やチガヤ属の草原が維持されるためには定期的な刈り取りや火入れ(焼き払い)が必要である。このことから当時は火入れなど人間による何らかの植生干渉が行われた可能性が考えられる」(『冠遺跡群[』2001)。

 冠遺跡群から30kmの苅尾山西の長者原で花粉分析が行われている(780m標高)。イネ科、カヤツリグサ科の花粉のピークは5500から6500年前の間にある(図2)。

 長者原から20km東の毛無山の南の枕湿原で花粉分析が行われた(720m標高・枕牧場付近 図3)。

 「160〜140cmの間では草本類のGramineae(イネ科)とArtemisia(ヨモギ属)がたくさん出現している。一般に山地の湿原では人類時代のR-Vb時代(1500年前から現代)以外は木本類が草本類より高率に出るのが普通であるから、このような例は珍しい。この層は8000yr B.P.前後のものなので、まだ人類による植生破壊とは考えられない。そこでこの原因として環境の変化とか自然発火による山火事のような現象を考えねばならないが、現時点ではどちらとも結論を出せないので、今後の研究課題としたい」(『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W.枕湿原(広島県)』1977)。

 直線距離で50kmの間にある冠高原の植物珪酸体の分析や、長者原湿原、枕湿原の花粉分析の結果、6000年から8000年前にイネ科花粉がたくさん出現することは、縄文の人々が定期的に火入れを行ってきたと考えられえる。


 吉和地域では吉和川沿いに「Ysi-2」の厚層黒ボク土壌が分布している。小室井山や青笹山、板敷山側に黒ボク土は無く、日の平山、立岩山、市間山の尾根に黒ボク土がある。この黒ボク土が1万年前から縄文人の野焼き、山焼きによって形成されたとすれば、吉和川沿いの黒ボク土は焼畑や野焼きによるススキ原の確保などが目的であったと考えられる。

 黒ボク土の無い小室井山や焼山は、この付近の植生にあるように、ドングリやクリの実などの採集のための山であったと思われる。そのため山焼きを行わなかったのではないだろうか。


●小室井山(コムロイヤマ)
 kom-ruy
 コム・ルイ
 ドングリ・群生する(山)

 komu-rui の転訛。


●焼山川(ヤケヤマガワ)
 yanke-yam-pet
 ヤンケ・ヤム・ペッ
 村に近い方の・クリの実・川

 yake-yamu の転訛。

 
 中津谷南の半坂縄文遺跡から磨石・敲石・石皿が出土している。これらの石器はドングリ・トチ・クリ・クルミなどを磨り潰すためのものである。石鏃や尖頭器などの狩猟具も出土している。また動物を捕獲する「土壙」(落し穴)が出土している。

 焼山川沿いの焼山縄文遺跡から石鏃などが出土しており、焼山川沿いに縄文の村があったと思われる。


●頓原(トンバラ) 
 to-un-par 
 ト・ウン・パラ 
 沼・に入る・入口

 to-n-para の転訛。

 周辺が黒ボク土であるが、頓原付近は「Ebe」土壌で、粘質の湿地であったと考えられる。


●中津谷(ナカツヤ) 
 nupka-tuye-us-i 
 ヌッカ・ツィエ・ウシ・イ 
 ススキを・刈り・付けている・所

 nuka-tuie の転訛。

 中津谷付近は「Ygh」腐植質黒ボクグライ土壌で、野焼きが行われ、ススキ原であったと考えられる。

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カシミール3Dデータ

総沿面距離16.1km
標高差519m

区間沿面距離
中津谷
↓ 3.7km
出合橋
↓ 5.1km
坊主山
↓ 1.8km
小川林道
↓ 5.5km
中津谷
  

 
 
 
図1 冠遺跡群D地点(松の木峠)の堆積物の分析結果(アカホヤ火山灰は約6000から6500年前)
 
6000年前に植物珪酸体含有率のピークがある。
 
(『冠遺跡群 D地点の調査』1989年 財団法人広島県埋蔵文化財調査センター)から   

図2 『広島県北広島町長者原湿原堆積物の花粉分析』

(『高原の自然史』第12号)

「長者原湿原堆積物の草本花粉および胞子の分布図」から抜粋
(右端に深度・年代を付け加えた。)
左が堆積物の柱状図。 胞子の分布図は省略した。
 イネ科、カヤツリグサ科の花粉のピークは5500から6500年前の間にある

図3 『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W.枕湿原(広島県)』
(1977) 720m標高
 赤字は付け加えた。
 

カシミール3D+国土交通省土壌図
吉和周辺の土壌図 黒ボク土(Ysi-2,Ysi-1,Ygh,Miw,Ish,Kny,Twr)

第2回植生調査植生図(昭和54年)+カシミール3D
小室井山周辺植生図
 
冠山
スギ林の坊主山
小川
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より