山歩き

筏津…女鹿原川…ココノ峠…畳山
2010/11/13

筏津上…804三角点…女鹿原川…ココノ峠…ゲレンデ…タテバシリ…リフトトップ…畳山…オカノオク谷…筏津上

■畳山(タタミヤマ)1029.0m:広島県山県郡大朝町大字筏津字畳山(点の記) 北広島町

江の川に架かる大前原橋を渡る
石垣の小谷
薮とヒノキの植林地
薮の植林地を進む
林道終点と伐採地の堰堤
堰堤から見た林道終点付近
小谷を登る
ヒノキ林を下る 804三角点北
女鹿原川に出た
女鹿原川左岸の林道を進む
丸太橋を渡ると作業道
ワサビ田跡の石積み
ハスノハイチゴの女鹿原川水源
ココノ峠
伐採された小谷をゲレンデに下る
霞むゲレンデ北方向
阿佐山と同形山
畳山三角点
展望地から見た阿佐山
オカノオク谷右岸の山道を下る
オカノオク谷の紅葉
オカノオク谷林道終点付近の植林地の谷
右岸の伐採地
紅葉の残る林道を下る
オカノオク谷川口
6:45 筏津上 曇り・黄砂 気温3度
 
ベニバナボロギク

8:50 804P
9:20 女鹿原川
10:40 ココノ峠
11:40 リフトトップ
11:55 畳山
13:45 クリヤ谷
14:00 筏津上



 
 筏津上の江の川(筏津川)に架かる大前橋を渡ると、民家の横に小谷が流れている。谷を進むと植林地の下に石垣がある。奥に入ると、そこは伐採跡でタラノキやイバラの薮となっている。鉈を振り下ろしながら進み、ヒノキの小木の中に入り込む。ようやく植林地に下に逃げ込んだが、まもなくまた薮となった。

 開地に出ると左岸から林道が上がっていた。その先は堰堤で終点となっている。堰堤から谷を見ると倒木と薮の谷が上に続いていた。堰堤から左岸を進み、薮の無い東の涸れ谷へ上がった。アカマツの入り込む谷から小尾根に出ると踏み跡がある。804三角点(小屋ヶ谷)を通り、北の小谷に下りた。

 ミズナラに「国土調査」のテープが巻いてあった。林床が黄色に染まったヒノキ林を下る。30分ほどで女鹿原川に出た。右岸を進むと大きい堰堤に突き当たる。堰堤の上に出ると左岸に林道が通っていた。堰堤下の谷を進み左岸の林道に上がった。「公社造林 女鹿原造林地」の看板がある。

ケヤマハンノキ

 丸太橋を渡ると作業道に変わり、右岸の植林地を上がる。谷にワサビ田跡の石積みが残り、ワサビの葉も見える。作業道終点から植林地の谷を進む。ハスノハイチゴが多い。ウバユリが一本だけあった。ココノ峠に出て、西の小谷へ下った。この小谷は伐採された谷となっている。谷の下にワサビの葉が茂っていた。

 ゲレンデに出て、オヒョウニレのある所へ少し下ってみたが、すでに葉が落ちていた。ゲレンデの北側の山々は曇り空の下で霞んでいる。黄砂の影響のようだ。ゲレンデの水路と化したタテバシリの谷の水源を登る。ゲレンデの上部にはケヤマハンノキ、オオバヤシャブシが多い。ブタナが黄色の花を咲かせている。

オオバヤシャブシ

 30分ほどでリフトトップに出た。阿佐山、同形山が見える。ゲレンデから深いササ原に入る。背丈を越えるササを100mほど漕ぐと、ササは腰ほどの高さに変わり歩き易くなる。リフトから15分ほどで山頂。ササで覆われた三角点を刈った。大ブナを通り西側の展望地に進む。阿佐山から毛無山への展望は黄砂で霞む。阿佐山直下のタキガ谷水源に作業道が上がっているのが見える。

 東のオカノオク谷へ下った。山頂直下の薮を抜けると植林地に出る。岩の谷の右岸を下る。下っていくと右岸に踏み跡がある。谷の西側を回り込む山道があった。この道はオカノオク谷の林道終点に出る道であった。林道終点から下流の両岸は伐採されている。左岸に降りるクリヤ谷は涸れ谷であった。アキノキリンソウがまだ残っている。オカノオク谷川口に広がる里は黄砂で霞んでいた。

ウリカエデ
オオモミジ
ヤマモミジ
ミヤマハハソ
サラシナショウマ
サンショウ
ミヤマシキミ
コマユミ
ウバユリ
ゲレンデのブタナ
オニノゲシ
セイタカアワダチソウ
アキノタムラソウ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 枕湿原は筏津上から南に3kmほどのところにある。花粉分析の結果(下図)をみると、木本類(AP)の中に「Ulmus」(ニレ属)がある。花粉分析では「Ulmus」とよく似た「Zelkova」(ケヤキ属)も「含まれていると思われる」としている。

 したがって「Ulmus」は、ハルニレ・アキニレ・オヒョウニレ・ケヤキが考えられる。現在、ハルニレ・アキニレはこの付近には無いので、「Ulmus」は、オヒョウニレ・ケヤキの可能性が高い。

 オヒョウニレは枕湿原の北の阿佐山周辺に多い。現在、早水川・猪子谷川水源・同形尻川・タテバシリ・カタラ谷・東西のツチダキ谷、ココノ峠にオヒョウがあり、標高600m以上の冷涼な谷筋に残っている。

 縄文時代の寒冷期には、オヒョウは低地にも広がっていたと考えられる。開発と温暖化によって、高地の谷筋に分布範囲が狭められたと思われる。縄文時代、畳山東側の低地部にオヒョウニレの分布域があったとすれば、オヒョウに関連した地名が残っていると考えられ、その地名は縄文語である。


 大朝町の縄文遺跡(『大朝町史』から)

★枝ノ宮遺跡(大塚川)

 
石斧 長さ8.1 幅5.6 厚さ3.1cm

★マツソウ遺跡(田原川)

 
石斧 長さ13 幅6 厚さ2.8cm

★原山遺跡(江の川左岸・犬追原北)

 
石斧 長さ15.5 幅4.6 厚さ4cm 石材は安山岩で重さ370g

 縄文前期前半(6〜7000年前)の土器(羽島下層式)
 縄文中期前半の土器(船元式)

★岡の段遺跡(江の川右岸・大朝IC北)

 
縄文早期の楕円押型文土器(7〜8000年前)

★地宗寺遺跡(江の川右岸・伊関)

 
早期押型文土器(7〜8000年前)
 後期前半の土器(3〜4000年前)
 縄文前期前半の土器(5〜7000年前)

 石斧 長さ10.4 幅6.4 厚さ4cm

★南宮ノ庄遺跡(江の川右岸・河原山・大下山)

 
縄文早期末の土器(7000年前)
 縄文前期前半の土器(6〜7000年前)
 縄文中期の土器(4〜5000年前)
 縄文後期の土器(3〜4000年前)

 石斧(二本の磨製石斧) 長さ16.8 幅7.0 厚さ3.4cm 重さ560g  長さ9.2 幅4.6 厚さ2.3cm 石材は安山岩で重さ170g  

 石鏃 安山岩・黒曜石

★空ヶ谷遺跡(岩戸)

 
石斧 長さ13 幅4.5 厚さ3.5cm 重さ370g

★洞泉寺遺跡(岩戸)

 
縄文・弥生・土師・須恵と続く土器と石斧

 
縄文早期の土器(7〜8000年前)
 縄文後期の土器

 三本の石斧 長さ9.4 幅5.2 厚さ2.0cm

★長迫遺跡(岩戸・どんで)

 
石斧 長さ13.9 幅3.7 厚さ2.5cm

★天磐門別神社遺跡(岩戸)

 
縄文式土器(後期)・弥生式土器


●筏津川(イカダズ)


●追坂(オッサカ)



 筏津川、追坂川はともに水源を越えると枕湿原である。周辺は枕湿原の花粉分析から、縄文期にニレ属の樹林があったと考えられる。

●大朝(オオアサ)
 

 

●大谷川(オオタニガワ・筏津川上流)
 

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カシミール3Dデータ

アキノキリンソウ

総沿面距離9.3km
標高差524m

区間沿面距離
筏津上
↓ 2.9km
女鹿原川
↓ 1.8km
ココノ峠
↓ 1.5km
畳山
↓ 3.1km
筏津上
  

 
 
 
『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W.枕湿原(広島県)』(1977) 720m標高

枕湿原の花粉分析結果から
 
大朝町の縄文・弥生遺跡
 
黄砂で霞む畳山西の展望地から見た毛無山 中の丸見山 阿佐山
畳山西のブナ
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より