山歩き

移原…毛無山…横吹峠…インキョノ谷
2010/10/2

移原…ゼンコウ谷…上峠…毛無山…横吹峠…中の丸見山…二十丁峠…インキョノ谷…高野川…枕牧場…深溝川…移原

■毛無山(ケナシヤマ)1082.5m:広島県山県郡芸北町大字大暮字毛無山(点の記・毛無山) 北広島町

ゼンコウ谷入口
毛無山が見える
クリの木の熊棚
毛無山登山口
毛無山
クリの木林を進む
登山道から車道のある上峠に出る
掘り下げた登山道
ブナ林の山頂
山頂のブナ
横吹峠
登山道のブナ
中の丸見山三角点
二十丁峠
僅かな踏み跡を進む
小鞍部の土塁
インキョノ谷水源の石畳
工事中の林道に出た
インキョノ谷奥の集落
インキョノ谷奥に見える中の丸見山
高野川水源 ますだ橋付近
高野川水源の峠 枕牧場
深溝川左岸の道を進む
6:50 移原 晴れ 気温11度
 
ママコナ

8:00 上峠
9:05 毛無山
9:20 横吹峠
9:45 中の丸見山
9:55 二十丁峠
10:55 インキョノ谷林道
11:40 インキョノ谷入口
12:25 枕牧場
13:15 移原


 
 ゼンコウ谷付近を出発。谷の右岸に町道善光線が通っている。善光川に架かるナカツカ橋を渡り、車道を進む。前方に毛無山が見える。車道にクリのイガが散乱し、集落のクリの木に熊棚があった。山のクリが不作なのであろうか。

 植林地を抜けると水田跡の石垣がある。西から下りる小谷に毛無山登山口の道標があった。この谷は上峠に上がっている。車道を進むと堰堤があり、林道が西に上がっていた。毛無山が正面に見え、左手にアンテナ塔が見える。林道はクリの木林から北へ上がっていたので、クリ林に入り上峠に向った。小谷を渡ると掘り下げた登山道に出た。

ビッチュウフウロ

 登山道から間もなく上峠の舗装された車道に出た。この車道は細見大塚線で工事中の看板があった。車道から植林地の尾根を進むと、東から上がる山道に出た。登山道を進むとKDDIのアンテナ塔に出た。東からアンテナ塔まで車道が上がっている。

 登山道にクリのイガがたくさん落ちている。幹を見ると小さい爪痕があった。小熊のようである。岩を掘り下げた登山道を進むと、クリ、ナラ、アカマツの林の中に株立ちのブナがあった。標高950m付近であった。ブナの小道を抜けて山頂に出た。

オトコヨウゾメ

 山頂は林で覆われ展望は無い。大きいブナがある。一休みして登山道を東へ進むと、すぐに西から山道が上がっている。北側の植林地と広葉樹の間の登山道を進む。緩やかに下って横吹峠に出た。峠は十字路になっている。大暮とインキョノ谷の両側から山道が上がっている。

 植林地の登山道を進むと大きいブナがある。中の丸見山の三角点は登山道から外れた薮の中にあった。二十丁峠に下りると、谷の小屋谷から上がる登山道と合流する。峠から南の薮尾根に入ると、僅かに踏み跡が残っている。踏み跡を辿って下ると植林地に出た。そこから道がはっきりしてくる。小鞍部に土塁が作られていた。

 寺屋敷の西を通り、インキョノ谷水源に出ると、分岐道が西に上がっていた。水源の谷を下ると石畳の道となった。この辺りは「下小瀧」と呼ぶようだ。道が薮に覆われた所で、テープを辿って谷を横切ると林道に出た。工事中の道が西のキジヤ原に上がっていた。

タンナトリカブト

 美和簡易水道施設を通り、道を下る。電柱に「タカノオオダニ」とある。チイチイ原を過ぎて民家に出ると、ヒガンバナが咲いていた。「たかの川 ほたるのすむ川」の看板がある。北側に中の丸見山が見える。高野川の右岸の車道を進み、左岸の道に下りた。

 ますだ橋を渡り、高野川水源を枕牧場に向って上がる。水源の小川に魚を狙う水鳥が居る。高野川水源の峠が枕牧場である。ススキ原に牛の鳴き声が聞こえるが姿は見えない。深溝川水源に魚影が走る。イヌエンジュの多い深溝川の車道を下る。車道を出発点に向って進むと毛無山、上峠が見えてくる。

ヒガンバナ
ナギナタコウジュ
タムラソウ
サンショウ
ガマズミ
イヌエンジュ



地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


●毛無山(ケナシヤマ)
 kenas  ケナシ 林


 「『芸藩通志』には、この山についての記述はないが、『国郡志御用に付下調書出帳・高野村』(1819年)に山林名として毛なし辻山≠ェある。『国郡志御用に付下調書出帖・大暮村』には、これも山林名として毛なし山≠ニあって、大暮側の呼称が山名として一般に用いられるようになったことがわかる。現在も山麓の村里では、この山名が使われている」(「西中国山地」桑原良敏)。

 ほかに苅屋形村・書出帳にけなし山=A移原村・書出帳に毛無ケ辻≠ェある。

 「山中襄太氏がケナシはアイヌ語の Kenash Kenas-i であり、木の生えている原≠フ意であることを指摘してより、ケナシ山は木の生えている山、生えていない山と論議をよんだようだ」(「西中国山地」)。

 万葉集に毛無≠ェあり、「不毛」の義でなく、アイヌ語のケナシとして称呼する方が適切と論じている。

 
天智天皇の第7皇子の志貴皇子が三室山を詠んだ万葉和歌。

 『神奈備の 石瀬の杜の 霍公鳥(ほととぎす) 毛無の岡に いつか来鳴かむ』

 ホトトギスが来て鳴くくらいだから、毛無の岡は不毛の地でなくて、森があった所だという解釈で、7世紀頃にはケナシという呼び名は定着していたと思われる。『毛無(けなし)乃岳の所在』によると、奈良県斑鳩町に12世紀まで遡る毛無の地名を確認できるという(万葉集主要論文所収 歌句データベースHP)。

 毛無山は「毛無」と名のつく最も西の山であるが、西中国山地に毛無山はこの一座だけである。毛無山は縄文期、ブナ・ミズナラの山であったと思われる。「毛無」がアイヌ語「ケナシ」の意であれば、「ケナシ」は縄文語である。

 アイヌ語地名
★kenas-or-kotan ケナショロコタン 林の中にある村
★kenas-pa-oma-nay ケナシパオマナイ 林の上手にある川


●移原(ウツノバラ)
 

 「ウツナイ」はアイヌ語地名に多い。大佐山南の雲耕(ウズノウ)の古名は「ウツノウハラ」である。

 「書出帖・移原村」(文政2年・1819)に移原の由来がある。

 「当村往古ハ当村大暮村高野村米沢村小原村溝口村六ヶ村を山野廻村と唱則鉄砲受帳ニハ今ニ右文字相用申候然ル処何の頃より款移原村と六ヶ村ニ相分レ又転字仕もの款両段共申伝も無御座候」

 移原村の鉄砲受帳に書かれた「移原」が村名の由来になっている。移原付近にある小谷を「ウツナイ」と呼んでいたのであろうか。


●横吹峠(ヨコブキタオ) 
 

 横吹峠は厚層黒ボク土(Ysi-2)、黒ボク土(Ysi-1)の土壌で、1万年前から山焼きが行われていたと考えられる。山焼きが継続され、ススキ草原が維持された。

 枕湿原の花粉分析が行われ、火入れの可能性を指摘している。湿原の周辺は黒ボク土である。

 「160〜140cm(8千年前)の間では草本類のイネ科とヨモギ属がたくさん出現している。一般に山地の湿原では人類時代のR-Vb 時代以外は木本類が草本類より高率に出るのが普通であるから、このような例は珍しい。この層は8000yrBP 前後のものなので、まだ人類よる植生破壊とは考えられない。そこでこの原因として環境の変化とか自然発火による山火事のような現象を考えねばならないが、現時点ではどちらとも結論を出せないので、今後の研究課題としたい(『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W.枕湿原』)。

 「人類による植生破壊」=縄文人による野焼きと考えれば、イネ科花粉などの出現や湿原周辺の黒ボク土の存在を合理的に説明できると思われる。


●深溝川(フカミゾガワ)
 


●高野川(タカノガワ) 
 

 高野川の水源は枕湿原である。枕湿原の花粉分析の結果、1万年前にカバノキ属が出現、7000年前ごろからハンノキ属が多く出現している(下図)。

 「Betula(カバノキ属) が最下層でたくさん出現するが、これは現在の中国山地にみられるアズサのようなものでなく、シラカンバ、ダケカンバのような亜寒帯要素の種類と思われる」(前同)。

 「ハンノキ属(Alnus)が非常にたくさん出現しているが、こらはハンノキが湿原随伴種としてよく繁茂したことを示すもので、現在も湿原の下方にハンノキ林がわずかながら残っている」(前同)。


●川小田(カワコダ) 
 


 川小田は王泊ダムから滝山川が雲月山に向って上がる中間にあるが、江戸期、川小田にマス、ゴギ、カワシンジュガイが居た。

 「『芸藩通志』に『鱒(マス)、石鮒(イシフナ)、呉岐(ゴギ)、立貝(タチガヒ)並に川小田村等の大川にあり』と記されており、現在の山県郡芸北町川小田付近には、文政年間(1818〜1830年)初期の頃ゴギが生息していたことになる」(『戸河内町史』)。

 アマゴの降海型のサツキマスは、昭和初期に三段峡入口まで上っていた。

 「サツキマスは、昭和10年代後半までは戸河内町柴木の三段峡入口付近までのぼってきており、昭和18年(1943)には三段峡入口で1個体を確認している。また『芸藩通志』に記されている現在の芸北町川小田付近にみられた鱒はこのサツキマスとも考えられ、文政年間の頃には、川小田付近までのぼっていたものと思われる」(『戸河内町史』)。

 川小田の鱒(マス)はサツキマスのようである。

 三段峡の父、熊南峰の元で作成された『名勝天然記念物三段峡の概説』(戸河内村役場 大正13年頃)に、小板川と八幡川の合流点にある「出合滝」の説明の項に次のようにある。

 「小板川ノ端末にアリテ其の高サ約八十尺幅約十五尺三段ト成りて落下シ直ニ八幡川ニ注ギテ水勢ヲ争ヒ和シテ南流ス、風光明快ニシテ盛夏ノ好納涼地トス、此付近ノ深潭ニハ鯉甚ダ多ク何レモ巨大ニシテ長大ナル『ひらべ』ト共ニ其名高し」

 「巨大ニシテ長大ナル『ひらべ』」とは、アマゴの降海型のサツキマスではないだろうか。そうすると、サツキマスは三段峡の奥の餅ノ木の先まで上っていたことになる。

 広島県東部の帝釈川ではサツキマスを「シケ」と呼んでいる。シケは縄文語と考えられ、サケに転訛したと思われる。

 アイヌ語 si-chep シチェプ 鮭

 si-chep シ・チェプ 大きい・魚
 si-che シ・チェ 
 si-ke シ・ケ
 sa-ke サ・ケ

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カシミール3Dデータ

アキノタムラソウ

総沿面距離16.0km
標高差458m

区間沿面距離
移原
↓ 4.3km
毛無山
↓ 2.8km
二十丁峠
↓ 6.1km
枕牧場
↓ 2.8km
移原
  

 
 
 
『中国地方の湿原堆積物の花粉分析学的研究 W.枕湿原(広島県)』(1977) 720m標高(赤字は付け加えた

10000−9000yr B.P.
Betula(カバノキ属) が最下層でたくさん出現するが、これは現在の中国山地にみられるアズサのようなものでなく、シラカンバ、ダケカンバのような亜寒帯要素の種類と思われる

9000−4000yr B.P.
 コナラ亜属が30%以上を占め最も優勢であるが、後半すなわち上層(120−80cm)ではブナ科が40%以上も占めている。このことは温暖化とともにミズナラ、シラカシのような落葉広葉樹が後退し、アラカシ、シラカシのような常緑広葉樹に遷移したことを示している。特に常緑広葉樹の Cyclobalanopsis(アカガシ属)は現在本湿原の周辺には自生のみられないもので、当時の気候が現在より相当に温暖であったことを示す
 ハンノキ属(Alnus)が非常にたくさん出現しているが、こらはハンノキが湿原随伴種としてよく繁茂したことを示すもので、現在も湿原の下方にハンノキ林がわずかながら残っている。
 160〜140cmの間では草本類のイネ科とヨモギ属がたくさん出現している。一般に山地の湿原では人類時代のR-Vb 時代以外は木本類が草本類より高率に出るのが普通であるから、このような例は珍しい。この層は8000yrBP 前後のものなので、まだ人類よる植生破壊とは考えられない。そこでこの原因として環境の変化とか自然発火による山火事のような現象を考えねばならないが、現時点ではどちらとも結論を出せないので、今後の研究課題としたい。

4000−1500yr B.P.
 この時代はR-Va 時代に相当し、Cyclobalanopsisの減少、コナラ亜属とマツ属の漸増を目安とした
 本湿原の分析結果の大きな特徴の一つは、スギ属の出現がきわめて定率なことである。この付近の土壌要因がスギの生育に適していないことを示している。

1500−0yr B.P.
 人類時代を象徴する二葉松型の Pinus(マツ属) がもっとも優勢である。コナラ属は10−25%の間を増減している。中国山地は古くから我国のタタラ製鉄の中心地として盛え、ミズナラ、カシワ、コナラなど落葉広葉樹が主に製鉄用木炭として大規模に伐採されたため、コナラ属の出現率も低くなっているのかもしれない。本層では草本類のイネ科とカヤツリグサ科がたくさん出現するが、これは人類による木本類の伐採と放牧が草本類の勢力範囲の拡大を助けたものとみられる。
 
毛無山・枕牧場周辺黒ボク土
(カシミール3D+国土交通省土地分類基本調査土壌図)

赤色が厚層黒ボク土(Ysi-2)、黒ボク土(Ysi-1)
 
植生図(カシミール3D+第2回植生調査植生図(昭和54年))

29(黄色・牧草地・枕牧場周辺) 21(湿地・枕牧場) 3(緑・ブナ−ミズナラ群落・毛無山北面) 
4(緑縦線・クリ−ミズナラ群落・インキョノ谷上流周辺) 5(アカマツ群落・枕牧場北面) 
8(ピンク・タラノキ・クマイチゴ群落・毛無山南面) 24(スギ・ヒノキ植林・毛無山東面)
 
上峠と毛無山  集落は移原
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より