山歩き

傍示峠…傍示山…柏原山…オオゼイ谷
2010/9/5

ボウジダオ…鉄塔…傍示山…柏原山(大潰山)…オオゼイ谷(オオツエ谷)…186号線…登り谷…新栗の木橋…長田川…傍示峠

■柏原山(カシワラヤマ)997.5m:山県郡芸北町大字荒神原字俵原(点の記 点名:傍木) (北広島町)

鉄塔道への入口
鉄塔への標柱
広い山道を進む
大潰山道標
鉄塔 760m標高
柏原山(大潰山)
傍示山と大佐山
柏原山山頂
柏原山西面 カシワは無い
植林地を下る
薮の谷を下る
オオゼイ谷
右岸の植林道
岩止堰堤
堰堤から下流方向
右岸の下り口
オオゼイ谷下流
オオゼイ谷下流方向
オオゼイ谷落口
6:10 傍示峠 晴れ 気温19度
 
カワラナデシコ

6:25 鉄塔
7:00 傍示山
7:20 柏原山
9:30 186号線
10:10 長田川  
10:50 新栗の木橋
11:15 傍示峠
 

 
 傍示峠から北側の駐車場へ進み、北へ少し歩くと鉄塔道への踏み跡がある。山道に入ると57番鉄塔への標柱がある。さらに進むと大潰山への道標がある。杉ノ谷水源を通り、10分ほどで鉄塔に出た。ここから県境に沿って山道が続く。

 県境の山道はカシワの林となっている。ヤブデマリが赤い実をつける。鉄塔から30分ほどで968ピークの傍示山。道はコメ谷の鞍部へ下る。前方に柏原山が見える。道沿いにカシワが葉を出している。

 山道は林から草原に入る。東側が開けてくる。傍示山の右手に大佐山、弥畝山が見えてくる。1時間ほどで柏原山。山頂の道標は大潰山となっている。西から上がるオオツエ谷の山の意である。古くは柏原山と呼んでいる(「西中国山地」)。南側に深入山、掛津山、苅尾山が見える。

コバギボウシ
オオカメノキ

 日が照りつけるが秋風が涼しい。山頂の気温は24度であった。カシワ林を通り、西の谷へ下りた。カシワがあるのは尾根上だけであった。下って行くと植林地に変わる。北側の谷と合流すると、狭い薮の谷に変わった。大分下った所で、右岸の植林地の踏み跡を進む。

 植林道から岩止堰堤に下りた。谷は薮となっている。岩止堰堤の下流の堰堤に上がった。右岸の林を抜けて186号線に出た。186号線を少し下ると車道があったが、この道は薮であった。薮の道を分けて谷へ出て、少し下ると堰堤があった。堰堤の下流に民家があった。

 オオゼイ谷右岸の道を下る。長田川に水田が広がる。ハラダオキ橋を渡り、長田川左岸の道に出た。ここからは、先週通ったコースである。1時間ほどで傍示峠に上がった。

ワレモコウ
ママコナ
ツリフネソウ
オタカラコウ
ジャコウソウ
オオナルコユリ
スミナガシ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 金城町内の遺跡

 今福・岩塚U遺跡(縄文時代前期の爪形文土器、後期の石鏃、磨石、 叩石、石皿、石匙などの石器類が出土)

 上来原・郷田門遺跡(縄文時代の石斧出土)

 小国・柿ノ木遺跡(弥生時代の石斧出土)

 波佐・槇ケ曾根遺跡(縄文時代の石斧出土)

 長田・長田郷遺跡(縄文時代後期・晩期と弥生時代後期の土器、石鏃、石匙、磨石、石斧、石錘、凹石、古墳時代前期の土師器、奈良時代から平安時代の須恵器と土師器および中世の中国産青磁などが出土)

 長田・長田郷U遺跡(弥生時代の土器、石斧出土)などの遺跡が分布している。

 古代以降、文献などによると長田別符、長田保、波佐庄などの名称を見ることができる。これらは、中国山地の優秀な真砂砂鉄から産する黒鉄(たたら鉄)の生産が大きく影響していると考えられる。

 波佐地区には、たたら製鉄跡が30数力所あり、往古より産出し、豊富な木炭資源と水資源の恵まれた環境に立脚して経済基盤が確立していた。このため、中世以降、波佐一本松城を中心に黒鉄をめぐる攻防がくりひろげられたのである」(『七渡瀬遺跡発掘調査報告書』金城町教育委員会)。


●柏原山(カシワラヤマ)
 

 ワラビは万葉集では「サワラビ」として登場する。ワラビのアイヌ語に「ツワ」がある。「ツワ・ラプ」は「飛ぶ・翼」の意である。「サワラビ」はワラビの葉を翼に例えたものであると思われる。

 柏原山周辺は黒ボク土で縄文期、山焼きが行われた。「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものである」。柏原山は縄文時代、ワラビ山であったと考えられる。波佐の槇ヶ曽根遺跡(落谷川)、長田郷遺跡では、土掘り道具である石斧が出土している。

 柏原山は点名は傍示、山頂の道標は「大潰山」となっている。「国土地理院の二万五千分の一の図には大潰山と山名が記されているが、これも昭和四十九年版から記された山名である」(「西中国山地」)。

 『書出帳・苅屋形村』(1819年)や『芸藩通志』(1825年)に柏原山とあり、昔からそう呼ばれてきたようだ。

●オオゼイ谷(オオズエ谷・オオツエ谷)
 

 「オオゼイ谷はかなり急な谷なので大崩壊したことがあるという。崩壊することをガレルとかツエルとか表現することはよく知られている。(「西中国山地」)。

 大潰山(柏原山)はオオツエ谷の山の意である。大潰山付近は黒ボク土で、縄文期に山焼きが行われ、ススキ草原が広がっていたと考えられる。オオツエ谷水源の尾根は扇形に広がり、広く雨を集める地形である。

 「柏原山は、広島県側が緩い斜面で標高差300mであるのに対して、島根県側は急落し標高差600m近くある」(「西中国山地」)。オオツエ谷は大雨が降ると一挙に流れ出す川であった。

 石見弁「つえがぬける」=山崩れする、土砂崩れが起こる。

 

●登り谷(ノボリダニ)
 

 オオゼイ谷の川口付近が登り谷と呼ぶ地名である。崩壊する川は濁り水を出す。オオゼイ谷と長田川の合流点は水が濁る所であったと考えられる。

 

●三本ノジ(サンボンノジ)
 

 三本ノジの谷は傍示山に西から上がる谷である。「三本ノジのノジは、ブナの樹木方言である」(「西中国山地」)。広島県では「ノジイ」とも呼び、大阪・京都でも「ノジ」と呼んでいる。

 星はアイヌ語で「keta」(ケタ)、「nociw」(ノチウ)と言う。ヒシ(ヒシ科)の実(ケタ)もブナの実(殻斗)も星型をしている。西中国山地のブナの樹木方言「ノジ」は「ノチウ」の音につながる。

 第2回植生調査植生図(昭和54年)によると、柏原山の県境尾根周辺はブナ−ミズナラ群落、クリ−ミズナラ群落、東側に植林地とタラノキ−クマイチゴ群落の伐採植生となっている。元々はブナ・ミズナラ・クリの山であったと考えられ、縄文期にはブナの森が広がっていたと思われる。

 「西中国山地」に「ノジ」を含む地名は、「ケンノジ谷」「ケンノジキビレ」(広島)「シノジ谷」(島根)「ノジイ川」(広島)「ノジガ原」(広島)などがあり、いずれもブナ帯にある。

●コメ谷 
 

 柏原山は元々ブナとドングリの山であったと考えられる。

 

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カシミール3Dデータ

コオニユリ

総沿面距離9.5km
標高差537m

区間沿面距離
傍示峠
↓ 2.7km
柏原山
↓ 2.6km
186号線
↓ 2.9km
新栗の木橋
↓ 1.3km
傍示峠
  

 


 
七渡瀬遺跡(波佐) 『七渡瀬遺跡発掘調査報告書』(金城町教育委員会より)

柏原山周辺の黒ボク土(緑・赤) (国土交通省土壌図GIS+カシミール3D)

第2回植生調査植生図(昭和54年)+カシミール3D
ブナ−ミズナラ群落(10) クリ−ミズナラ群落(11) タラノキ−クマイチゴ群落(8) 植林地(24 柏原山東はカラマツ林)

         掛津山      苅尾山      比尻山   高岳                      大佐山       弥畝山
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より