山歩き

矢尾…本エキ…春日山…四の谷
2010/8/21

こしまつ橋…大山橋…美都登山道分岐…春日山…春日山南の鞍部…四の谷…作業道…こしまつ橋

■春日山(カスガヤマ)989.2m:島根県美濃郡匹見町大字道川字春日山(点の記) (益田市)

登山口
工事中の作業道
登山道を覆う伐採樹木
美都登山道分岐
山頂まで1000m地点
500m地点
山頂
石の祠
山頂の説明板
山頂展望地
四の谷水源植林地を下る
小滝を下る
四の谷右岸のワサビ畑
登山道の作業道に出る
四の谷落口 大山橋
矢尾 河内神社(矢尾八幡宮=石見匹見町史)
落合 大元神社
ツチアケビ
エゴノキ
6:15 こしまつ橋 晴れ 気温21度
 
オミナエシ

6:35 登山道
6:40 美都登山道分岐
7:20 500m地点
7:35 春日山
8:20 春日山南の鞍部
9:35 作業道(登山道)
9:40 こしまつ橋
 


 こしまつ橋上流の空地を出発。本エキの小谷に沿う作業道を進むとすぐ四の谷を渡る大山橋がある。四の谷の右岸に作業道が上がっており、石垣の植林地の下はワサビ畑がある。本エキ沿いに作業道が延長されている。作業道工事現場から登山道に入ると、登山道は伐採された樹木で埋まっていた。
 
 倒されたスギを越えて登山道を進むと間もなく「みと自然の森」への分岐点に出る。登山道は植林地の中を登っていく。「山頂まで1000m」地点も植林地である。炭焼き跡を通り、500m地点に入ると広葉樹の林に変わる。1時間余りで山頂。

ツリバナ

 春日大明神の鳥居が40年ぶりに建て替えられ、「春日山と春日大明神」の説明板が新しく立てられていた。

 「春日山は一名神出カ嶽ともいう。石田春律著『石見八重葎』に『昔よりこの山に登りたる人を聞かず』とある。昔は都茂・匹見・道川の三カ村にまたがる山で、女人禁制の山とし霊場視されていた。それはこの山の北側に祀ってある春日大明神が女人を忌むとの伝説からで、もし女人の姿でも付近に現われようものなら、神の怒りにふれるという。山頂は全く一面の草原で一木も生えていない。

 昭和十九年、春日山頂三角点の側には石の祠が矢尾の人桐田秀雄によって造られた。そして八月五日を祭日と決定した秀雄は都茂の神職原屋氏に願って祭を行ったが、当日山頂は八十名の人で賑わい、祭祀終了後天離る高山にお神酒を汲んで直会を了したという」

 「八尾神社の祭神は、大山祇神(オオヤマヅミノカミ)・保食神(ウケモチノカミ)・水分神(ミクマリノカミ)の三神で、合殿に春日神社が祀ってある(石見匹見町史)。

イヌザンショウ

 東側へ展望が広がるが、逆光のため霞んでいる。匹見川沿いは霧が漂う。岩倉山、広見山、半四郎山の背後にある山々は霞んでいる。北東の尾根が切り開かれていた。林道へ出る山道であろうか。一休みして南の鞍部に下った。

 四の谷水源の植林地を下る。大分下ったところで水流が現われる。小ゴルジュを抜けると、右岸にワサビ畑があった。大刈谷鈩跡はワサビ畑となっていた。四の谷右岸の作業道を下ると、春日山登山道の作業道に出た。

タラノキ
ツマグロヒョウモン


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 前田中遺跡(ヒノ谷入口)

 「この遺跡は表匹見峡の東側、道川下地区にあって、匹見川の南の段丘の狭い平地にある。遺跡のすぐ北は現在の匹見川で、地番は大字道川ロ八九−二番地である。平成五年に十メートル×二十メートル弱を発掘し、その調査区の北半分で配石遺構を検出した。地山が黄色土で、そのため黒色土のつまった遺構の検出は容易であった。

 南の住居跡や土坑との関連で考えると、配石遺構が造られた位置は集落の外縁にあたる。規模は匹見の中心部にある遺跡にくらべると小さい。個々の配石の平面ははっきりわかるものが少ないが、そのうち中芯部に大石を置き、その周りに人頭大の石を立てた遺構は、単独なのでわかりやすい。また円弧状の置石や、石塊寄せ集めた配石も見られた。配石の下には浅い土坑がある」(『匹見町誌・遺跡編』)。

 ダヤ前遺跡(ネズミイシ谷)

 「その時期については、菱根式に酷似した特徴性を見出すことができることから、縄文時代早期末に人々が住居していたものと想定される。また、これとは異なる小片の2点は彦崎Z1式と思われるものであることから、一方で縄文時代前期中葉以降の生活も存在していた可能性がある。この2期の隙間を埋める資料は今のところないことからみて、本遺跡は時期を異にする2期の複合遺跡であるということができよう」(『ダヤ前遺跡』匹見町教育委員会)。

 平内田(ヘイナイダ)遺跡(落合川入口)

 落合川入口の平内田遺跡(ヘイナイダ)から打製石斧が出土。上流の石田地点、矢尾の久保田地点から近世期の陶磁器片が出土している。道谷から矢尾には、古代から人々の出入りがあったと思われる。

 「縄文時代から古墳時代に至る約40点の遺物が混在して確認されており…本遺跡には該当期における遺物・遺構などが検出されたことは事実であり、そのことは小規模ではあるけれども小集落が形成されていたと捉えられるとともに、またその周辺域においても、該当期における遺跡の存在を示す可能性の一端を窺えるものと思えるのである(『平内田遺跡調査報告書』益田市教育委員会)。


●イヌボウ谷 
 inun-po-us-pet 
 イヌン・ポ・ウシ・ペッ 
 仮小屋・子・ある・沢(前田中遺跡から石錘)
 (小さい仮小屋ある沢)

 inu-po-u の転訛。

 アイヌ語「po」(ポ)は「子」の意で、単語の末尾について「小さい」の意を表す。

 to-po ト・ポ 沼・子(小さい沼)
 cep-po チェプ・ポ 魚・子(小魚)
 nay-po ナイ・ポ 川・子(小川)

 指小辞(小さいものを指す言葉)、「あまえんぼ」「きかんぼ」「えどっこ」「ちびっこ」など、単語の末尾に「ぼ」「こ」を付けて「子」「小」を表す。アイヌ語「po」にその由来があると考えられる。

 匹見川、紙祖川分岐点の上流にある石ヶ坪遺跡について次のような指摘がある。

 「現在の生業暦では、匹見川や紙祖川において漁労が行われるのは春から秋にかけてであり、縄文時代の人々もこれに準じたとすれば、その主な生業活動は冬以外の時期に行われたとみてもよいだろう。その場合、石ケ坪遺跡において当時の人々が通年的な定住生活を送っていたのかどうかという点が問題となる。これまで、石ケ坪遺跡からは多くの配石遺構が検出されたとされており、その点をもって当時の拠点的な集落とみる向きもあるが、季節的に限定されたいわゆる「ナツの集落」であった可能性も今後視野に入れながらさらに検討がなされるべきであろう(『石ヶ坪遺跡発掘調査概報W』島根大学法文学部考古学研究室)。

 イヌボウ谷下流のヒノ谷落口付近に前田中遺跡がある。出土遺物が少ないことから縄文のキャンプ地と考えられる。中津式土器の出土から縄文時代後期の遺跡である。周辺では下流のヨレ遺跡から中津式土器の出土がある。縄文銀座と呼ばれる下流の半田周辺の縄文集落から、魚取りや狩猟のため出向いていたと思われる。

 ヒノ谷落口の竪穴住居は、短径3.2m、長径4.2mの円形で、南側に入口がある。住居内で石錘2個・黒曜石2個が出土した。魚取り・狩猟のための仮小屋であったと思われる。

●ヒノ谷
 inun-us-pet
 イヌン・ペッ
 仮小屋・ある・沢

 inu → ino → hino の転訛。

 北海道旭川に伊野川(イノガワ)がある。アイヌ語で「イヌン・ペッ」と呼び、「漁(猟)仮小屋・川」の意である。明治期には単にイノと呼ばれていた。漁(猟)のための仮小屋が多かった川だったので、名付けられた。

 この辺りの匹見川周辺には仮小屋が多くあったのかもしれない。

●キトクのハラ 
 ki-tuk-nay-par
 キ・トク・ナイ・パラ 
 茅・生える・川・口

 ki-toku-na-para の転訛。

 「キトクのハラ」は、ヒノ谷落口の縄文の住居跡に左岸から下りる小谷である。この谷は縄文住居の水場であるとともに、仮小屋の屋根材である茅類が多く生えていたと思われる。

●ネズミイシ谷 
 net-puy-us-nay 
 ネッ・プィ・ウシ・ナイ 
 流木・桟橋・ある・川
  
 netu-pui-shi の転訛。

 ネズミイシ谷落口は岩礁があり、流木の掛かりやすい所であったと思われる。

ネズミイシ谷落口の岩礁

●ダヤ前(ダヤマエ・ダヤ前縄文遺跡字名)
 tayya-oma-i 
 タィヤ・オマ・イ 
 網・ある・所

 taya-ma-i の転訛。

 前田中遺跡から網用石錘が出土している。この辺りでサケ・マス漁が行われていたと思われる。


 以下のアイヌ語地名がある。

 トマ・オマ・イ えんごさく・ある・所(苫前 トママエ)
 トキ・オマ・イ 酒椀・ある・所(時前 トキマエ)
 タオル・オマ・イ 高岸・ある・所(樽前 タルマエ)
 マト・オマ・イ 婦人・居る・所(松前 マツマエ)
 ヌサ・オマ・イ 幣場・ある・所(幣舞 ヌサマイ)

●リョウシ谷
 riya-us-nay 
 リヤ・ウシ・ナイ 
 越年し・つけている・川

 riya-ushi の転訛。

 現在も12月には高津川までサケが遡上しているが、堰が無かった時代には匹見川にもサケが上っていた。縄文期の冬、この辺りはサケの漁場であった。川ではサケ漁、尾根では熊や鹿狩りなどが行われていたと考えられる。

 150年前の北海道余市におけるアイヌの生活暦によると、9月から11月がサケ漁、12月から1月に掛けて狩猟が行われている。縄文人も冬場の小屋を建て、漁・猟を行っていたと思われる。

●春日山(カスガヤマ)
 ka-an-tu-ka 
 カ・アン・ツ・カ 
 ワナ・ある・峯・上

 kamuy-tuk 
 カムイ・ツク 
 神・山(熊山)

 ka-tu-ka の転訛。
 ka-tuku の転訛。

●神出ヶ嶽(カミイデガタケ・1816年・春日山古名) 
 kamuy-tu-kata-ke 
 カムイ・ト・カタ・ケ 
 神の・峯・の上・の所(熊山)

 春日山から南西尾根及び、北の長薮峠に掛けては黒ボク土(Azo-1,Azo-2)で、縄文期、山焼きが行われ、ススキ草原であったと考えられる。

 「焼山の副産物として蕨やぜんまいがおびただしく生えたものであるが、近時焼山を行わないので生産量は減じた。蕨はそのまま乾したが、ぜんまいはあくがあって虫がつくので、一旦灰汁で煮た上乾かして貯蔵する。七村・矢尾・三葛・石谷等が名産で美味。両方とも煮〆にして常用する」(『石見匹見民俗』矢富熊一郎)。

 落合川入口の平内田遺跡や前田中遺跡から打製石斧が出土している。打製石斧は土堀道具であり、山焼きのあと根菜類などを掘るために使用されたのではないか。

 春日山の北に本エキ、東側にゴロウゲキ、ツエゲキの谷がある。アイヌ語「エキムネ」は「山へ行く」「山で狩をする」「山で採る」などの意がある。山焼きの後、尾根はススキ草原に変わり狩場となる。春日山と周辺の尾根は縄文の狩場、採集場であったと考えられる。

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カシミール3Dデータ

ヌスビトハギ

総沿面距離6.1km
標高差470m

区間沿面距離
こしまつ橋
↓ 2.7km
春日山
↓ 0.6km
春日山南の鞍部
↓ 2.5km
作業道
↓ 0.3km
こしまつ橋
  

 


 
前田中遺跡(下道川) 配石群 『前田中遺跡』(匹見町教育委員会)より
前田中遺跡(下道川) 竪穴住居跡の石錘と黒曜石の位置(赤矢印) 『前田中遺跡』(匹見町教育委員会)より

左側が南方向 竪穴住居跡(短径3.2m×長径4.2m)の中に石錘2・黒曜石2 住居外に石錘1

周辺遺跡の出土石器
遺跡名 楔形石器 磨石 敲石 打製
石斧
石匙 石錘 石鏃 削器 掻器 黒曜石片
(乳白色)
前田中(下道川下)         7(5)
ダヤ前(下道川上)              
平内田(落合川)                
田中ノ尻(出合原)   14      
蔵屋敷田(出合原)             14
塚ノ町(下臼木谷)                  

北海道余市におけるアイヌの生活暦 (『近世末期におけるアイヌの毛皮獣狩猟活動について』出利葉浩司)
春日山南西尾根 春日山から長薮峠にかけてが黒ボク土 Azo-1 Azo-2 (国土交通省土壌図から)

山頂の説明板
 
       恐羅漢山     旧羅漢山          十方山          広見山             半四郎山
春日山東周辺図
落合川周辺図
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より