山歩き

馬橋…日晩山…波田…日晩峠
2010/8/14

馬橋(ウマバシ)…作業道…登山道…展望地…日晩山…日晩山登山口…真砂公民館…日晩峠(ヒグラシタオ)…作業道…馬橋

■日晩山(ヒグラシヤマ)743.5m:島根県美濃郡美都町波田 (益田市波田町)
                      島根県美濃郡匹見町澄川 (益田市)

馬橋 ウマバシ
能登川
作業道入口
崖崩れ地点
薮の往還道
三子山
作業道を進む
登山道
展望地
日晩山
アカマツ林を進む
日晩山
見通し図
展望台
登山口へ下る
植林地に入る
分岐の道標
登山口広場
自然観察路案内図
久保溢(クボエキ)付近
日晩峠 ヒグラシタオ
猿田彦
日晩峠展望地
峠から匹見側の薮へ入る
薮の往還道
右岸の作業道終点付近
5:55 馬橋 晴れ 気温23度
 
ベニバナボロギク

8:15 登山道
8:45 日晩山
9:45 登山口
10:25 真砂公民館
11:35 日晩峠
12:25 作業道終点
13:10 馬橋
 
 
 
 能登川に架かる馬橋(ウマバシ)を出発。日晩峠(ヒグラシタオ)に上がる谷に作業道が入っている。鬱蒼とした樹林の中の作業道を進む。吸水するモンキアゲハが多く舞う。道の分岐の先で、崖崩れのため作業道は完全に塞がれていた。マムシがとぐろを巻いて道の真中にいた。かつて往還道が通っていた谷を見ると、左右に植林地のある谷は完全に薮で覆われていた。この谷から日晩峠に上がろうと思っていたが、作業道を進んでみることにした。

 往還 益田匹見往来

 「この街道は益田を出発、上久々茂から火ノ峠・夜明カ峠を通って、上波田において五〇〇mに達する。日晩(ひぐらし)山の険を越え匹見組の能登(のと)に出る道である。日晩の峠は上り十八町、下り三十町の険路で、上波田側には所々に休み場が設けてあった…山頂には斎藤彦三郎が建てた菅原道真の碑と芭蕉の「雲雀塚」とがある。
 山を越すと匹見組の能登に入る。能登から西南に向って下ること約一里(四キロ)、匹見川口の長尾原に出る。ここから匹見川沿いに東し、三出原・持三郎、都谷・茶屋・和又を過ぎ、落合を経て匹見のセンター、江田に到着するのである。さらにこの道は、吉和街道と通じ、安芸との国境、五里山の険を越えて吉和に出るのである」(石見匹見町史)。

クサアジサイ

 作業道は往還道のあった谷から東の山へ回り込む。樹林の間から野間山が大きく見え、その右手に三子山が見える。保安林標識があり、付近の所在地は益田市匹見町澄川となっていた。作業道が最高点に達し下り始めたところで、薮の尾根に登ると間もなく登山道に出た。

 登山道から展望地に出た。目前に日晩山がある。一休みして日晩山に進んだ。アカマツ、コナラ、クリの山でマムシの多い山道である。山頂にある見通し図によると大佐山、苅尾山、深入山、恐羅漢山、冠山が見えるようだが、今日は雲が下りて遠くは霞む。展望台に上がると益田市街が見え、その先に日本海が広がる。

 「蛇滝広場・登山口公民館3510m」の道標の方向へ下った。すぐにヒノキ・スギの植林地に入る。セミの鳴き声は全く無かった。クサアジサイが谷沿いに咲いている。1時間ほどで登山口に出た。一休みして登山口広場から車道を下る。

 「蛇滝自然観察路案内図」によると、蛇滝の滝つぼに大蛇が棲んでいたが、宝暦3年夏の大洪水で滝つぼが流され、濁流とともに大蛇も海へ流されたと言う。
 蛇谷橋、ホト田橋を渡った先の道路にセミが落ちていた。ヒグラシのようであった。

路上に落ちたヒグラシ

 日晩峠を左手に見ながら進むと、真砂公民館に登山道の道標がある。登山口に「日晩峠(平山)遊歩道のご案内」の看板がある。それによると、菅原道真が匹見街道から平山に差しかかった時、日が晩れ始め、下波田大屋形間の峠まで辿り着いた時夜が明けたので、今日もその峠を「日晩峠」「夜明峠」と呼んでいると。

 日晩峠は波田ではヒグラシタオと呼んでいる。天満宮、八幡宮の前を通り山道を進む。右手下に学校が見える。竹薮を進むと、初めてセミの声を聞いた。ツクツクボウシとミンミンゼミであった。洗川観音道標、猿田彦大神の鳥居がある。斗舛石の清水を通り、日晩峠に出た。並ぶ石碑の前を通り展望地に進む。

 展望地から波田の里が眼下に見え、特徴ある比礼振山が見える。少し休憩して、峠の笹薮を匹見側に下った。すぐに植林地に入るが、かつての往還道は猛烈な薮と化していた。200mほど下ると右岸が伐採されていた。薮を避けて伐採地に上がると、そこは作業道の終点であった。

 大きく迂回する作業道を下り、日晩山に上がる作業道に出た。日晩峠から1時間ほどであった。

マツカゼソウ
ミヤマウズラ
イヌトウバナ
スイセンノウ
ボタンヅル
作業道のマムシ
ヒメアカタテハ
ゴイシシジミ
モンキアゲハ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 アガリ遺跡

 「アガリ遺跡は澄川にあって、匹見側の北岸の平地にある。平成十二年(二〇〇〇)の分布調査で遺跡であることを確認し、翌十三年に本格調査した。遺構は立石を伴う土坑を検出したが、配石遺構の数は多くなく、遺構の規模も小さかった。そして土器もほとんど特徴のない無紋土器であった。ところが表裏両面に条痕がついていない厚手の無紋土器の方に、細い筋状のしわが顕著であった。焼きも新槙原遺跡の無紋土器によく似ていて、黄色っぽい。今回は間違いなく繊維土器と断定できるものであった。新槙原遺跡の繊維土器に比べて、繊維の量が多く、長いので、土器の表面に繊維が糸状に現れていて、識別が容易であったのである。

 さらにアガリ遺跡から出土した土器のなかに山形の突起をもつ口の破片がある。こうした口の形は早期後半の繊維土器の時期に多いから、傍証も得られたことになる」」(『匹見町誌・遺跡編』)。

 アガリ遺跡の西に寺ノ前遺跡、東側に嶽城遺跡、田屋ノ原遺跡があり、縄文遺跡、縄文を含む遺跡である。アガリ遺跡から「異形石器」、田屋ノ原遺跡から「線刻石」が出土している。


●能登(ノト)
 notu
 ノ・トゥ
 みさき(あご)

 noto の転訛。

 能登川の上流のコンボリ遺跡から尖頭器が出土しており、早くから古代人の往来があったと思われる。

 「ノト」(あご)とは、能登川と匹見川の間にある、東から西へ下りる山の走り根のことである。「あご」は地形では「尾根」「山崎」を表わす。能登半島も「あご」(みさき)の意である。

能登川左岸 尾根の先端部

●三出原(サンデバラ)
 santu-e-par
 サント・エ・パラ
 みさきの・頭・の入口

 sant-e-para の転訛。

 三出原には田屋ノ原縄文遺跡がある。

 能登の先端にあるのが三出原である。アイヌ語「サント」は「ノト」と同じ意である。

●長尾原(ナガオバラ)
 not-ka-oma-par
 ノッ・カ・オマ・パラ
 みさき・の岸・にある・入口

 no-ka-oha-ra

 西側にアガリ縄文遺跡がある。

 「ナガオバラ」は「ノト」地名から成立した地名と考えられる。

 石見弁に「マ」(マ行)→「ハ」(ハ行)の転訛がみられる。

 まぶしい → ばばゆい
 まむ(し) → はみ
 めくる → はぐる
 おん(む)ぶ → おぶう

●江田(エダ)
 etu-ar
 エト・アル
 鼻(山崎)・の向側

 eto-a の転訛。

 紙祖川、匹見川の合流点にある江田は南側から延びる山崎付近にある。

紙祖川・匹見川合流点


●日晩(ヒグラシ)
 ci-naukar-us-i
 チ・ヌカラ・ウシ・イ
 我ら・眺め・つけている・所
 (いつも眺めている所)

●日晩峠(ヒグラシタオ)
 ci-nukar-us-taor
 チ・ヌカラ・ウシ・タオル
 我ら・眺め・つけている・高い所

 chi-kara-shi → shi-kara-shi → hi-kara-shi の転訛。

 日晩峠・日晩山は日本海が見渡せる眺めの良い所である。縄文人もここから眺望していたのかもしれない。

 アイヌ語「インカルシ」の地名は北海道では「遠軽」(エンガル)、東北では「五十嵐」(イガラシ)の呼び名で残っている。「インカルシ」は「眺め・つけている・所」の意である。

 石見弁に「シ」(サ行)→「ヒ」(ハ行)の転訛がみられる。

 敷く → ひく
 敷き藁 → ひきわら
 敷いておく → ひいとく
 する(便や屁を) → ひる・ばる
 寒い → ひやい

 「ヒグラシ」が古代からの呼び名であれば、「チカラシ」「シカラシ」「ヒカラシ」のように転訛したと考えられる。


 第3回植生調査(昭和59年度)によると、日晩峠、日晩山周辺の植生はアカマツ植林、スギ・ヒノキ植林で、その周辺部はコナラ群落となっている。元々この辺りはコナラ群落であったと考えられる。

 上波田に久保溢(クボエキ)、迫溢(サコエキ)の地名があるが、この呼び名が古代から続くものであれば、アイヌ語で「山へ行く」「山で猟をする」「山で採る」などの意がある。日晩峠・日晩山は縄文期、ドングリ山であったとすれば、食料のドングリを集めたり、ドングリをねらう動物も多く、縄文の狩場であったと考えられる。


 万葉集原文に「日晩」を含む歌が7首ある。5首は「ヒグラシ」で、2首は「日が暮れる」「暮らす」の意である。それ以外に「ひぐらし」の歌が4首あり、セミのヒグラシを含む歌は全部で9首ある。

 ヒグラシは全国に生息するセミであるから、日晩山は万葉の時代、ヒグラシと呼ぶセミの多い山の意であったのかもしれない。万葉集で詠まれたヒグラシは現代のヒグラシとは違うようだ。

1479:隠耳 居者欝悒 奈具左武登 出立聞者 来鳴日晩(ヒグラシ)

1877:春之雨尓 有来物乎 立隠 妹之家道尓 此日晩都(日が暮れる)

1964:黙然毛将有 時母鳴奈武 日晩乃 物念時尓 鳴管本名(ヒグラシ)

2157:暮影 来鳴日晩之 幾許 毎日聞跡 不足音可聞(ヒグラシ)

2231:芽子花 咲有野邊 日晩之乃 鳴奈流共 秋風吹(ヒグラシ)

2713:明日香河 逝湍乎早見 将速登 待良武妹乎 此日晩津(暮らす)

3951:日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敝之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之(ヒグラシ)


 万葉集の後に成立した『和名類聚抄』に、無末世美(ムマセミ=クマゼミ)、比久良之(ヒグラシ)、久豆久豆保宇之(クズクズホウシ=ツクツクボウシ)、奈波世美(ナハセミ)の4種がある。

 「ヒグラシ」が古代からの呼び名であれば次のように考えられる。

 mik-ra-us-i
 ミク・ラ・ウシ・イ
 鳴く・翼・ついている・もの

 miku-ra-shi の転訛。

 古語に「ひひめく」があり、「ひひと声を出して鳴く」の意で「めく」には「鳴く」の意がある。
 
 カラフトチッチゼミのアイヌ語は次のように言う。

 yukara-kikiri ユカラ(ユカル)・キキリ 歌う・虫

 セミは鳴き声にその名がある。古代から鳴き声でその名が区別されていたと考えられる。

 石見弁・出雲弁「よがる」に(動物が発情して)「鳴く」の意があるが、アイヌ語「yukar」(ユカル)の転訛とも考えられる。

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カシミール3Dデータ

コオニユリ

総沿面距離16.5km
標高差548m

区間沿面距離
馬橋
↓ 7.4km
日晩山
↓ 3.7km
真砂公民館
↓ 1.9km
日晩峠
↓ 3.5km
馬橋
  

 


 
「異形石器」 匹見町澄川 (『アガリ遺跡』匹見町教育委員会)

アガリ遺跡出土遺物表
 
(『アガリ遺跡』)

アガリ遺跡繊維混入土器 
(『アガリ遺跡』)
 
田屋ノ原遺跡出土遺物表 匹見町澄川 (『田屋ノ原遺跡』匹見町教育委員会)

霞む東側 日晩山から
展望台から見える益田市
日晩峠から見る波田の里と比礼振山
日晩峠遊歩道の案内板
能登周辺マップ
日晩山周辺植生図 第3回植生調査(昭和59年度)環境省 茶色=アカマツ植林 緑=スギ・ヒノキ植林 灰色=コナラ群落
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より