山歩き

三葛…三の谷…ヨケ岩…後谷山
2010/7/19

三葛…ツムギ谷…三の谷…佛ダキ…ヨケ岩…1074P…後谷山…ウシロ谷水源…ウエミチ谷…三葛

■ヨケ岩(ヨケイワ)1060m:島根県美濃郡匹見町大字紙祖(後谷三角点・937Pの所在地) (益田市)
■後谷山(ウシロダニヤマ)937m:島根県美濃郡匹見町大字紙祖 (益田市)

ツムギ谷入口
ハラカシラ
河内神社
魚切滝
一の谷上流の滝
三の谷 手前ツムギ谷
三の谷左岸の山道
ワサビ田を進む
スギ林を登る
佛ダキ
佛ダキ中央部
ヨケ岩
茅帽子山
西側から見たヨケ岩
周囲3.5mブナ
後谷山
ウシロ谷水源
小屋とワサビ田
木橋の先に山道が続く ここが山道の終点
ウエミチ谷
後谷山
6:55 三葛入口 小雨後晴れ 気温21度
 
ニシノヤマタイミンガサ

7:55 三の谷
9:40 佛ダキ
10:25 ヨケ岩
10:45 1074P
11:15 後谷山
12:10 ウエミチ谷
12:35 分岐
13:05 三葛

 
 小雨の中、紙祖川右岸の水田ある車道を進む。三葛地区活動促進センターの前を通り、河内橋を渡る。ツムギ谷川口の水路はまだ水量が多い。殿屋敷遺跡を過ぎて河内神社の道を入ってみた。ハラカシラの小谷が河内神社前の平坦地を横切り、小水路となってツムギ谷に落ちている。
 
 ツムギ谷左岸に河内神社がある。石の鳥居の奥に社がある。河内神社の例祭では三葛神楽が上演される。1747年の創立と言う。引き返してツムギ谷に入った。魚切滝の上流に釣り人が入っていた。一の谷の上流に滝がある。

ギボウシ

 株立ちのカツラのところから左岸に渡ると三の谷である。入口にワサビ田跡があり、左岸に道がある。奥にワサビ田があり、石積みの上を進む。右岸のスギ林に入り、小尾根を登った。1時間半ほどで岩場に出た。東側が懸崖となっている。佛ダキである。佛ダキは尾根上に50mほど岩場が続く。そこから急坂を上り、ガクガク尾根の1116ピークに出た。

 尾根道に涼しい風が抜ける。3.8mブナのとなりに大きいケヤキがある。尾根を塞ぐヨケ岩の上に登った。眼下にノブガ谷が落ち、対岸にマツダケオの谷が見える。茅帽子山の尾根は雲が掛かる。

マルバマンネングサ

 ヨケ岩を降りて北側を通る。1074ピークの手前に大きいブナがある。尾根を西へ進み、30分ほどで後谷山。ホウノキの下にある三角点の周りのササを刈った。ここから南へ降りれば河津集落である。小五郎山、白旗山の見える西の鞍部に降りて、ウシロ谷水源に下った。

 ウシロ谷水源は山が崩れ、谷は砂利道のようになっていた。砂利がなくなるとワサビ田に変わる。谷にサワガニがいた。ワサビ小屋の横を下っていると、足元に10cmほどの大きなナメクジがいた。ワサビ田を下ると山道に出た。道は尾根を回り、先日通ったウエミチ谷に出た。尾根を横切る道は三葛へ抜ける道である。この道は三葛とワサビ田をつなぐ道であった。

ムラサキニガナ
サンインマイマイ
10cm余りのヤマナメクジ
ササ裏のゴイシシジミ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 匹見町は東日本と比べても縄文遺跡が多い

 「匹見町の原始遺跡は、二十年ほど前にはほとんど分かっていなかった。そのため町は、平家の落ち武者が創始したとか、木地師や山師が住み着いたとか、想像によっていろいろなことを言うことができた。しかし、肝心な証拠は益田氏や毛利氏よりさかのぼる中世以前に関してはほとんど皆無に等しかったのである。ところが、ここ二十年ほど遺跡の発見と発掘が続いた結果、匹見町の先住民は、二万年以上も前にさかのぼる旧石器時代の人間であることがわかった。ほぼ一万年以後の縄文時代、紀元前後の弥生時代、さらに古墳時代、奈良時代と営々として匹見町で人々は暮らしてきたことが発掘調査によってわかってきた」

 「匹見町ほど(縄文遺跡の)数が多く、密度が高い地域は少ない。広島県帝釈峡には縄文時代の洞窟・岩陰遺跡がたくさんあるが、平地の遺跡が少ない。岡山県の児島湾の周辺には縄文時代の貝塚が多く残っているが、密度は匹見町の遺跡ほど濃密ではない。匹見町の遺跡の多さと比較するならば、縄文文化が栄えた東日本の遺跡を持ち出すのがふさわしい。匹見町のような川のかなり上流、山地に縄文遺跡が密集する地域は東日本でも多くはなく、縄文遺跡の多い神奈川県の酒匂川上流、北関東では群馬県の利根川上流など、東日本でも限られた地域しかないのである」(『匹見町誌・遺跡編』)。


 縄文時代の繊維は、カラムシ、ツルウメモドキ、アカソ、オヒョウなどが使われている。

 ツムギ谷はオヒョウニレが多い。西中国山地でオヒョウが一番多いのは私の知る限り、阿佐山の東側である。阿佐山の猪子谷川水源、タテバシリ谷、ツチダキ谷、カタラ谷、ココノ峠付近に多い。十方山東や広高山東にもあるが、点在している。阿佐山周辺に次いで多い所がツムギ谷である。

 阿佐山はアイヌ語で「at-sam」(アッ・サム)と表わし、「オヒョウニレ・の傍」の意である。阿佐山は「オヒョウ山」のことと思われる。

●ツムギ谷(ツムギダニ)
 atu-muk-i
 アツ・ムク・イ
 オヒョウニレの皮を・剥ぐ・所

 atu-muk-i → tumuki の転訛。


 (出雲弁の泉HP・石見方言HPから)

 石見弁
 もぐ(もぎ取る・摘みとる・外す)

 出雲弁
 もげる(禿げる)
 もしる(もぐ)

 「むぐ」は標準語にあるが、「むぐ」「もぐ」は「muk」が語源であるかもしれない。

 
 出雲弁の音韻変化・音の脱落
 (出雲弁の泉HPから)

 うまい(美味い) → まい
 せおって(背負って) → せおて → おて
 おもう(思う) → もー

 出雲弁・東北弁は古代語の発音に近いと言われている。石見地方も古代には出雲弁に近い発音であったと思われる。

 あつむき → つむき の転訛(ツムギ谷)。


 アイヌ語「mukar」(ムカラ)は「まさかり」「斧」の意である。「muk-kar」(ムク・カラ)に分解され、「剥ぎ・取る」の意である。

 中ノ坪遺跡から出土した打製石斧は土堀道具と考えられている(『匹見町誌』・遺跡編)。


●ツムギ谷(ツムギダニ)
 at-tumke-pet
 アッ・ツムケ・ペッ
 オヒョウニレ・の中の・川

 tumke → tumuke の転訛。

 アイヌ語では次の用例がある。

 kina-tumke-oma-nay
 キナ・ツムケ・オマ・ナイ
 草・中のところ・にいる・川
 (知里真志保・アイヌ語入門)

 hekachiutar tumuke heta
 ヘカチウタラ・ツムケ・ヘタ
 子供ら・の中・に
 (知里幸恵・アイヌ神謡集)


 アイヌのオヒョウニレの皮剥ぎでは、直径15cmほどの30年もののオヒョウが最適だと言う。幹の下部に10cmほどの切れ込みを入れ、幹上に向かって引っ張り上げて剥ぐ。切れ込みを入れる道具が必要である。外側の樹皮は剥ぎ取って内皮を使用する。

 中ノ坪遺跡から掻器・削器が6点出土している。

 掻器(そうき)は、刃の部分が分厚いため、獣皮の脂肪などを剥ぎ取る道具。削器(さっき)は、刃の部分が薄いため、対象物を削る道具だと言われている。また打製石斧(58点)や柳葉状石器(11点)なども切れ込みを入れる道具として使われたのかもしれない。

削器
3は長さ5.4cm・幅3.5cm・厚さ0.8cm・安山岩質(三葛・門田(カドタ)地点)
5は安山岩質(三葛清左衛門田地点)
(匹見町埋蔵文化財報告書第20集)

柳葉状石器
長さ3〜4cm 安山岩質
(中ノ坪遺跡概要・匹見町教育委員会)


 「春の雪解けの頃、北海道では男も女も、樺太では専ら男が、わざわざこれを採取するために山に出かけて行き、立木から剥ぐ。剥ぐ時は木の神に酒や幣を捧げる。これを取る時には幹の根もとに鉈目を入れ、それへ両手をさし込んで一気に上方へ剥き上げるのである。但し、樹を裸にしないという意味で皮の半分は剥がさずにおく。そのまま十数日間放置しておく。するとどろどろになって繊維質ばかり残るから、それを取り出してよく水洗いして乾竿に掛けて乾かすのである」

 「繊維は、乾くと皮が一枚一枚薄皮をはがす様に剥がれるから、それを細かく裂いて、一本一本指の先で縒をかけながら繋ぎ合わせて、大盥の中に溜めていき、それがいっぱいになったら、こんどはそれで糸玉を幾つも幾つも作っておいて、それから厚司を織りにかかる」(『知里真志保著作集』)。


 「村社紙祖河内神社は、大字紙祖字ツムギ山にある。祭神は水分神(ミクマリノカミ)・保食神(ウケモチノカミ)・大山祇神(オオヤマヅミノカミ)の三神である。由緒によると、往古当地方を開拓した時、右の諸神霊を鎮祭して、葛三本を伐りはじめたので、三葛と称えはじめたのだとの口伝がある。由緒書には延享四年(1747)の創立、宝暦八年(1758)再再建とある」(『石見匹見町史』)。

 水分神は水の分配を司る神である。保食神は食物を司る神。大山祇神は山の神である。

 河内神社はツムギ谷左岸の入口にある。両岸に水路があり、下流左岸にハラカシラの小谷がある。

●ハラカシラ
 haru-kar-sir
 ハル・カラ・シリ
 食糧を・作る・土地

 haru-ka-shiri の転訛。

 中ノ坪遺跡から打製石斧が58点出土している。石斧は土掘具であったと考えられている。
 アイヌ語「ハル・カラ・モイ」は「食糧を作る湾」の意。「ハルカラモイ」は室蘭市測量山の西にある。魚を干して食料を蓄えた所である。
 清左衛門田・殿屋敷地点から縄文晩・後期の遺物が出土している。

●ヨケ岩(ヨケイワ)
 hotke-iwa
 ホッケ・岩
 横たわる・岩

 hotke-iwa → hoke-iwa → oke-iwa の転訛。

 出雲地方における促音便の変化
 (出雲弁の泉HPから)

 かった(買った・刈った) → かた
 あった(逢った・合った) → あた
 はった(這った・張った) → はた


 三葛には冠山安山岩の原石が持ち込まれている。原石の搬入ルートは、冠高原、冠山南尾根、ガクガク尾根であったと考えられる。この搬入ルート上にあるのが東のヨケ岩、西のヨケ岩である。

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カシミール3Dデータ

トチバニンジン

総沿面距離10.7km
標高差607m

区間沿面距離
三葛
↓ 3.0km
三の谷
↓ 2.1km
ヨケ岩
↓ 1.1km
後谷山
↓ 4.5km
三葛
  

 


 
三葛の縄文遺跡・発掘地点

三葛・中ノ坪遺跡の竪穴住居と配石
(『匹見町誌・遺跡編』)
 
左端が雲が掛かる小五郎山 中央が白旗山 後谷山西の鞍部から
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より