山歩き

シウミ谷…青路頭…ダンナゴヤ谷…広見川
2010/5/29

平成橋…匹見発電所…シウミ谷…青路頭…ダンナゴヤ谷…夫婦橋…山根上…山根下…平成橋

■青路頭(アオジガシラ)989.3m:島根県美濃郡匹見町大字匹見字広見イ1028番地(点の記)
                      (基準点所在地:益田市大字匹見字半田奧本平イ1607)

匹見発電所
匹見発電所
階段の山道
シューミ・ヒヨツカ・板山分岐 左へ進む
イタヤマ谷の木橋
眼鏡峠
シウミ谷
段々畑に葉が伸びていた
カツラの巨木と石積み
覆いかぶさる懸崖
シウミ谷上部の石積み
シウミ谷水源
青路頭
ダンナゴヤ谷水源
石積み
ケーブルのある山道
オウコウ谷
夫婦渕 広見川
上ノ原遺跡の看板 匹見町黒和
上ノ原遺跡の出土物
5:55 平成橋 晴れ 気温11度
 
ハンショウヅル

6:25 イタヤマ谷
6:45 シウミ谷
9:40 青路頭
12:05 ダンナゴヤ谷入口
12:45 夫婦橋
13:00 コアカ谷 
13:15 オツ谷 
13:25 ウワゴシ谷 
13:55 平成橋 

 
 匹見萩原地区の平成橋付近を出発。ウォーキング中の地元の人に聞いてみると、発電所から匹見川左岸に昔、道があったが今残っているか分からないと言う。田植えの終わった水田の先に匹見発電所がある。発電所の上の山腹から水路が降りている。地形図では下道川から発電所まで延びる水路が表示されている。

 「大正十四年匹見川水力電気工業株式会社は、二○○万円を投じて村境あたりにダムを設け、匹見川の左岸に沿うて二キロの水路を開き、虫カ谷において10mの落差をつけ、一本の水路によって水を落し、出力一八七〇kwの電力をだしておる」(『石見匹見町史』)。

1番目 2番目 3番目

 平成橋を渡ると匹見川左岸に発電所に入る道がある。車道は発電所までで、その先に山道があった。山道を進むと、階段の付いた道がある。山道の分岐に中電の標柱があり、「板山谷」「ヒヨツカ谷」「シューミ谷」分岐と書かれている。

 シウミ谷はシューミ谷とも呼ぶようだが、ヒヨツカ谷の名は初めて聞く。分岐点には尾根側に登る道も付いていた。山腹を横切る道を進むと、眼鏡峠が見える。道はイタヤマ谷に入り木橋を渡る。次の小谷に「ヒヨツカ谷」「シューミ谷」分岐の標柱がある。さらに進むとシウミ谷の手前に「シューミ谷分岐」の標柱があった。「ヒヨツカ」谷はイタヤマ谷とシウミ谷の間の谷のことのようであった。

 さらに進むと眼鏡峠が迫って見える。シウミ谷手前まで進むと伐採地に出た。道はそこでシウミ谷に下りる道とシウミ谷上部に入る道に分かれる。シウミ谷へ下りた。山道はシウミ谷で終わっている。シウミ谷はワサビの谷であった。放棄されたワサビ田には野生化したワサビがたくさん葉を出していた。谷全体に石積と段々畑があったようだが、それが崩壊して歩きにくい谷となっている。

ヤブデマリ

 ワサビの葉の上に散ったアサガラの花がたくさん落ちていた。トチの花も散りかけている。鬱蒼とした暗い谷を1時間余り進むと、株立ちの周囲6〜7mのカツラの巨木があった。その先で谷は分岐しサワグルミの明るい谷に変わった。少し進むと左岸を懸崖が覆う。懸崖を抜けるとワサビの石積みが残っていた。ワサビ田跡は860m標高付近まで続いていた。

 ワサビ田跡を抜けるとヤブデマリの花が咲く。ミズメの葉が枝ごとあちこちに落ちている。水源を抜けると大きいブナが一本あった。シウミ谷から2時間半ほどで尾根に上がった。ミヤマガマズミの残る尾根を進み、25分で青路頭。林の間から五里山から十方山への展望がある。引き返してダンナゴヤ谷の水源に下りた。

スノキ
ミヤマガマズミ

 こちらもワサビ田跡の谷であるが、谷の上部の石積みは崩壊して残っていない。ワサビの葉が出ていることからそれと分かる。下って行くと石積みが現われる。谷の中ほどあたりで両岸が迫り、滝となっている。右岸を巻き、急な斜面を下った。しばらく下った右岸にケーブルあり、そこから山道が残っていた。オウコウ谷落口に出て一休み。

 広見川右岸の山道を進み、裏匹見峡の遊歩道に出て、30分ほどで夫婦橋。広見川左岸を下り、コアカ谷、オツ谷を経て、右岸に渡る。フナキ谷、ウワゴシ谷を通り、山根下に入ると遺跡の看板が多い。和田古墳、上ノ山城跡、上ノ原遺跡を通り平成橋に帰着。

クルマムグラ
シライトソウ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 紙祖川と広見川が匹見川と交わる付近とその南側の紙祖川、広見川沿いに縄文・弥生の遺跡が多く発掘され、古墳時代へと引き継がれている(下地図)。このあたりの古い地名は縄文時代から呼ばれてきた可能性が考えられる。

 和田地点には黒ボク土があり、周辺で野焼きが行われていたと考えられる…

 「4層は,黒ボク土の黒色粘質土。層厚は10〜24cmを測り、西壁に向って上昇し厚くなっている。遺構は検出していないものの、13点の須恵器、 3点の瓦器、2点の鉄器などが出土 した…殊に上位層での須恵器等が出土する黒ボク土などは山土の公算が強く,至近の山裾の段地に立地する古墳周辺の土壌とも考えられる」(『匹見町内遺跡詳細分布調査報告書X』匹見町教育委員会)。

 広見川沿いに以下の遺跡がある。

★越峠遺跡 磨製石斧(縄文〜弥生)
★下手遺跡(縄文・弥生)縄文土器 弥生:石斧・石包丁・石核・敲石・剥片・黒曜石
★エンショウダ遺跡(縄文)土器
★土井分(ドイワケ)遺跡(縄文晩期)打製石斧
★松田原(マツダバラ) 弥生
★先ハズミ(サキ)弥生 炭


●野入(ノイレ)


 かつて、紙祖川、匹見川にはサケ・マスが遡上していた。

 「鮭は大正年間までは、相当さか上がっていたが、昭和に入ると次第に少くなり、現在では影をひそめた。鱒は大正年間ころまでは、非常に多く、下道川までさか上がった。どの淵を臨んでも一〜二尾は発見され、所によると十数尾もいた」(『石見匹見町史』)。

 「本地区(石ヶ坪)では…河川にはハエ・アユ・ゴギ・ヤマメ・ケガニなどが生息 し、昭和の中ごろまではサケ・マスといった冷水魚が遡上していたといわれるなど、自然豊かな環境下にある地区でもある(『市内遺跡詳細分布調査報告書X[』益田市教育委員会)。


 「野入」と表す地名は、カシミール検索では福岡・兵庫・愛知にあるが、読みは「ノイリ」であり、「ノイレ」と呼ぶのは匹見町だけである。

 匹見町縄文遺跡の石錘数を地域別にみると、紙祖地域(石ヶ坪遺跡)が飛びぬけて多く出土している。石錘はサケ・マスを中心とした網漁で使われたと考えられる。サクラマスは紙祖川支流小原川の金火箸橋付近まで遡上しているので、サケも紙祖川を遡ったと思われる。

匹見町縄文遺跡の地域別石錘数

地域 石錘数
澄川(匹見川下流)
道川・出合原(匹見川上流)
紙祖(紙祖川下流・主に石ヶ坪遺跡) 143
三葛(紙祖川上流) 17
広見川下流(下手遺跡)

後谷(石谷川・広戸遺跡)

31

 野入は匹見川・紙祖川・広見川の三つの川が合流し、サケ・マスなど魚が多く集まる川であったと考えられる。匹見川を上がってきた縄文人は、野入の三角地帯に魚が豊富であることに気付き、この地で網漁を行うようになった。それが紙祖地域の縄文遺跡から石錘が多く出土する理由である。

 

石ヶ坪遺跡の南側にある尾根の先端部


●石ヶ坪(イシガツボ)


 石ヶ坪遺跡は岡山県美作市真加部(縄文後期)、姫路市亀山(縄文)にもあり、「イシガツボ」と呼んでいる。匹見町の縄文遺跡から出土する石錘は石ヶ坪遺跡が突出している。

オツ谷

●オツ谷
 

 オツ谷は広見川左岸に下りる小さい沢である。

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カシミール3Dデータ

タツナミソウ

総沿面距離13.5km
標高差712m

区間沿面距離
平成橋
↓ 2.0km
シウミ谷
↓ 3.2km
青路頭
↓ 4.2km
夫婦橋
↓ 4.1km
平成橋
  

 


 
1158ピーク 1064ピーク 五里山
十方山
石ヶ坪遺跡の看板
周辺の縄文・弥生遺跡
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より