山歩き

三ノ谷…野田原の頭…天杉山…一ノ谷
2010/3/21

登山センター…三ノ谷(奥匹見峡)…のたの原…野田原の頭…天杉山…ブンジュウ…一ノ谷…元組…登山センター

■野田原の頭(ノタノハラノカシラ)1136m:島根県美濃郡匹見町 (益田市)
■天杉山(アマスギヤマ)1173.6m:島根県美濃郡匹見町一ノ谷(点の記) 益田市

元組小学校跡(登山センター)
遊歩道を進む
石垣の道
鉄の階段を登ると大竜頭
大竜頭
大竜頭上の三ノ谷
三の滝
三の滝上流の滝
三ノ谷最奥の滝
ササ原の平坦地に入る
スゲの群生する湿地
登山道を進む
天杉山
ブンジュウ谷のブナ
小木が覆うブンジュウ谷
三ツ滝
左岸のシャラシャラ滝
鉄滓・カナクソのあった平坦地の窪地
ハコ渕
ナベ渕
イヨキリ
一ノ谷鍛冶屋原鈩跡
匹見川に架かる橋
 
7:15 登山センター 晴れ 気温6度
 
アテツマンサク

8:10 大竜頭
8:50 三の滝
9:55 のたの原
10:10 登山道
10:45 野田原の頭
11:15 天杉山
12:30 ブンジュウ落口
14:10 ウシクビ谷落口
15:30 一ノ谷入口
15:55 登山センター  

 強風の中を出発。三ノ谷はシアン橋を通って匹見川に落ちている。谷沿いにダンコウバイ、アテツマンサクの花が咲く。コ谷の上流に赤い橋が架かる。大谷鈩跡は尾根まで段々畑のように伐採されていた。道は駐車場を通って右岸に続いている。谷に入ると風は強くない。赤い橋を左岸に渡る。桂滝の立て札を過ぎ、古い石積みの残る道を進むと、右岸に渡る橋がある。

 魚切を通り石垣の道を進むと、道は滝を巻く。滝上に休憩所があり、大竜頭まで200mの道標がある。整備された道は大竜頭の手前までで、その先は谷歩きとなる。岩場を登ると鉄の階段がある。もう一つ急な階段を登ると大竜頭である。やせ尾根を進み大竜頭の右側の小谷へ降り、右岸の急な斜面を登ると大竜頭の上に出た。

ダンコウバイ

 大岩の谷を進む。右岸に薄い山道が残っている。道は三ノ滝を高巻き、小尾根を越えて曲流する谷へ降りていた。ナメラ状の滝を越えるとササ原の平坦な谷となる。谷を進むと最奥の滝があった。右岸から滝上に出ると、そこから野田の原まで曲流する平坦地となっている。ササの下の土壌は濃い茶色であった。

 所々、ササが消失するところは湿地となってスゲが群生している。山の斜面に大きいブナも見られる。ミズナラにクマ棚が残っていた。のたの原から水源に入り登山道に出た。ここまで3時間ほどであった。クマ糞のあるブナの登山道を進む。オオウラジロノキの実がたくさん落ちていた。道に少し雪が残っていた。30分ほどで野田原の頭。

セリバオウレン

 ホタノコヤ鞍部に下り、神木の巨杉を通り、30分で天杉山。林の間から雪の無い深入山が見える。登山道を10分ほど進み、大きいブナのところからブンジュウの谷へ降りた。山の斜面には大きいブナがある。平坦な谷から岩倉山が見える。小木が覆う谷を抜けると北から降りる谷の合流点、そこから下流はゴルジュとなっている。右岸を進む

 トリゴエ谷落口を通り、小ゴルジュを過ぎると小滝の見えるカミタタラ谷。タタラ原は深いササ原である。さらに小ゴルジュを過ぎると下タタラ谷。三ツ滝は三段に落ちている。左岸を巻いた。シャラシャラ滝は左岸の崖から落ちる谷。右岸は懸崖となっている。そこから少し下った平坦地に掘られたような窪地があり、その少し下流で鉄滓(カナクソ)を一つ見付けた。辺りを探してみたが、これ一つきりであった。タタラ場にしては小さいようだ。

ウシクビ谷落口上流左岸の鉄滓 カナクソ

 ウシクビ谷落口を過ぎるとハコ渕。左岸を巻く。少し下るとナベ渕。谷が数段の渕となって落ちている。クマスベリ付近は左岸から懸崖の谷が落ち、小滝が続いている。この辺りから右岸に木馬道が残るが寸断されている。イヨキリ滝を過ぎると左岸から小さいオオドチ谷が落ちる。

 炭焼跡の石積みを過ぎると一ノ谷鍛冶屋原鈩跡。壊れた建物や石積みが残っている。スギ林の下にはワサビが葉を出していた。一ノ谷沿いのススキ原を通り匹見川に出ると、元組橋の下流に赤い橋が架かっていた。

キブシ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。

新槇原遺跡

 「匹見町内で、現在わかっている最も古い遺跡は新槙原遺跡である…第5層の上面から縄文早期の土器が出土し、間層をはさんで第7層からわずか1点であるが、縦長の石片が出土した…この遺物が姶良・丹沢パミスの地層から出土したことは、今から二万年以上前の旧石器ということになる」(『匹見町誌・遺跡編』)。

 新槇原遺跡は道川小学校南の匹見川と赤谷川合流点の東側にある。旧石器時代の層から石器遺物が出土したことから、20000年前に古代人の出入りがあった。縄文早期の層から土器が出土し、アカホヤAh火山灰降下年代(6500年以前)より古いものと推定された。出土した黒曜石の分析から隠岐島久見産と大分県姫島産であるとされた。縄文時代の磨製石器、けつ状耳飾りが出土した。

 けつ状耳飾りは島根県では鹿島町佐陀宮内・名分の佐太講武貝塚、匹見では、石谷の土井田遺跡、三葛の中ノ坪遺跡から出土している。けつ状耳飾りは耳たぶに開けた穴に垂れ下げたイヤリングである。中ノ坪遺跡の耳飾りの材質は蛇紋岩質で全体が研磨され、平滑仕上げとなっている(『中ノ坪遺跡概要』)。

 「耳飾は出土点数も少なく、従って着装者はシャーマンなどの儀礼執行者に限定されていたであろうし、その着装にあたっては、耳に切れ込みを入れるといった身体変更を伴うものであり、通過儀礼の試練に耐え、集落の成員、およびその祖霊(カミ)からの承認を得なければならなかったであろう」(『匹見町誌・遺跡編』)。

けつ状耳飾り(右半分の表裏面)

『新槇原遺跡発掘調査報告書』
(匹見町教育委員会より)
上記けつ状耳飾りの図


 「けつ状耳飾りは、縄紋時代の早期末に登場し、縄紋前期には全国的に流行します。しかし、その発見数はそれほど多くないのです。例えば、栃木県根古屋遺跡で179体の人骨が発掘されていますが、けつ状耳飾りをもったものは、たった2体だけだったのです…
 つまり、縄紋村の人々のうち、けつ状耳飾りをつけた人はごく少数だったのです。けつ状耳飾は個人的な趣味でつけたのではなく、縄紋社会のルールにしたがってつけていたと考えられるのです。言葉を換えると、けつ状耳飾りは縄紋社会の特別な身分を表わす象徴だった可能性があって、縄紋社会の性格を考えるうえで、大変重要な情報を秘めている遺物だと思うのです」(藤井寺市HP)。


 新槇原遺跡の北側に縄文早期・前期の田中ノ尻遺跡、蔵屋敷田遺跡がある。調査面積はそれぞれ16u、147u、165uと小さく、出合原にはまだ多くの遺物が眠っていると考えられる。上流の下臼木谷の塚ノ町遺跡からは縄文土器が出土している。

 「縄紋社会の特別な身分を表わす」けつ状耳飾りをもつ人がいると、それを持たない縄文人が数十人は居たと考えられる。縄文遺跡北の黒ボク土=ススキ原から供給できる竪穴住居数は36棟である。ススキは住居の修理・維持や他の用途にも使用されたから、竪穴住居数を仮に20棟とすると、20棟×数人=100人規模の縄文集落であったと推定される。

出合原付近の黒ボク土(赤)
カシミール3D+国土交通省土壌図GIS

ススキ原が供給できる竪穴住居数

★一般的な茅葺家屋では1uの屋根を葺くには15cm角のススキの束が50束が必要

★ススキ1束に3.3uのススキ面積が必要

★縄文の竪穴式住居の床面積は20〜30u
 中ノ坪遺跡(三葛)の竪穴住居は
  短径4.5m×長径4.8mの円形
 前田中遺跡(下道川)の竪穴住居は
  短径3.2m×長径4.2mの円形

★竪穴式住居の屋根の表面積
 (4.5m×4.5mの円形の場合)
 26.5u(床面積20.25u・高さ3mの場合)

★竪穴式住居1棟に必要なススキ束 
 26.5u×50束=1325束

★竪穴式住居1棟に必要なススキ面積
 1325束×3.3u=4373u

★出合原のススキ面積(地図の黒ボク土)
 長さ400m×幅400m=160000u

★出合原のススキが1年間で供給できる竪穴式住居数
 160000u÷4373u=36棟
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●出合原(デアイバラ)
 putu-ay-us-hur
 プト・アイ・ウシ・フル
 その川口に・イラクサ・群生する・丘

 tetar-ay-us-pe
 テタラ・アイ・ウシ・ペ
 白い・繊維・ある・もの(テタラペ)

 to-ai-huru の転訛。
 te-ai-pe の転訛。

 縄文人はイラクサから糸を作り、イラクサの編み物が出土している。アイヌも糸をつくり布を織った。

 「樺太の白浦では、秋10月に枯れた茎を刈りとり、皮をはがした。この皮は1人の女で1日に3貫から5貫ぐらい採集した。採集した皮を水に漬けておいて、“川真珠貝の殻”の縁で荒皮をはだけて乾した。乾したらそれを冬まで貯えておき、厳冬に取り出して微温湯に浸して柔らかくし、何回も水を代えてから、取り出して雪の上に置いて足で踏みつけて、それからまた水に入れ、この操作を数回繰り返してから、竿に懸けて10日でも20日でも放置して真白な繊維を得た。この繊維をほぐして糸により、織機にかけて布を織った。この布で仕立てた衣服を“テタラペ”(白いもの)と言った」(『知里真志保著作集』別巻1)

 「ay」はアイヌ語でトゲの意で、矢の意もある。

 「繊維土器を匹見町で最初に発見したのは、新槙原遺跡の発掘の時である…アガリ遺跡は澄川にあって、匹見側の北岸の平地にある…表裏両面に条痕がついていない厚手の無紋土器の方に、細い筋状のしわが顕著であった。焼きも新槙原遺跡の無紋土器によく似ていて、黄色っぽい。今回は間違いなく繊維土器と断定できるものであった」(『匹見町誌・遺跡編』)。

 繊維土器は焼く前の粘土に繊維をいれて素地としたもので、繊維は、主としてイネ科のような葉や茎の繊維をよく精製したものを使用したと考えられ、新槙原遺跡の繊維土器は出合原のススキやイラクサが使用されたのかもしれない。

●元組(モトグミ)
 mun-tuk-pet
 ムン・トク・ペッ
 草・生え出る・川

 mo-to-kus-pet
 モ・ト・クシ・ペッ
 小・沼・を通る・川

 mu-toku-pe の転訛。
 mo-to-ku-pe の転訛。

 元組が縄文期からの呼び名であれば上記の意。元組の古苗代で遺跡調査が行われたが遺物の出土は無かった。底は河原石が重畳し堀削困難であったため、調査が中止された。

 T層は水田耕作土 層厚18〜23cm
 U層は客土・黄灰色砂土・1cm大の石粒
 V層は黒褐色粘質土 層厚7〜24cm 酸化鉄を含む
 W層は10〜50cm大の石を含んだ川床礫

 匹見川左岸の古苗代付近は大雨が降れば川水が溢れ、礫が流れ込む所であった。V層に粘質土があるように増水した水が残るような湿地帯で草地であったと考えられる。

●のたの原
 nutap-nupuri
 ヌタプ・ヌプリ
 曲流川の地の・山

 nuta-nupuri の転訛。

 「ノタ・ノロ 湿地。野田。ソータと同じ」(「西中国山地」)。

 アイヌ語「ヌタプ」は「川の湾曲部内の地」「川曲の中の袋地」などの意があり、曲流する川にある土地を表している。三ノ谷の滝を越えると山は平坦地となり、川は曲流する。

 以下のアイヌ語地名がある。
 
 ヌタプ・カムイ・シリ 川の湾曲部内の・神・山
 ヌタプ・エトク 川の湾曲内の土地の・突端

天杉山周辺の植生図
カシミール3D+環境省植生図

●天杉山(アマスギヤマ)
 am-tuki
 アム・ツキ
 クリの実・山

 天杉山東は植林地の山となっているが、元々ブナ・ミズナラ・クリの山であった。

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カシミールデータ

ダンコウバイ

総沿面距離15.0km
標高差691m

区間沿面距離
登山センター
↓ 5.0km
登山道
↓ 2.4km
天杉山
↓ 6.1km
一ノ谷入口
↓ 1.5km
登山センター
  

 
出合原の縄文遺跡
蔵屋敷田遺跡出土物(出合原) (『蔵屋敷田遺跡調査報告書』益田市教育委員会より)
田中ノ尻遺跡出土物(出合原) (『田中ノ尻遺跡』匹見町教育委員会より)
塚ノ町遺跡出土物(下臼木谷) (『塚ノ町遺跡』匹見町教育委員会より)
のたの原
元組橋とヨボシ山
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より