山歩き

岩節渓流…虫ヶ谷集落…青路頭…イデ谷
2010/2/28

表匹見峡入口…岩節渓流…小虫谷…虫ヶ谷集落…コズガ谷…尾根…青路頭…イデ谷…虫ヶ谷集落…岩伏渓流…表匹見峡入口

■青路頭(アオジガシラ)989.3m:島根県美濃郡匹見町大字匹見字広見イ1028番地(点の記)
                      (基準点所在地:益田市大字匹見字半田奧本平イ1607)

ウオトビ橋の下
岩節渓流入口
岩節渓流落口
丸太橋を渡る老人
小虫谷を渡る道 右岸にも道がある
最初の廃屋 ウツウ谷落口
小虫谷左岸を進む
小虫谷右岸に渡る橋
ササ尾根から見る大虫谷
ササとミズナラの主尾根
洞のある3.5mブナ
青路頭
尾根直下のワサビ田跡
ワサビ田の石垣
イデ谷の滝
群生するスゲ
集落の山手にある社
山道の石積
 
6:45 表匹見峡入口 晴れ 気温6度
 
イタヤカエデ

7:10 岩節渓流入口
7:30 大虫谷分岐
7:50 虫ヶ谷集落
8:05 コズガ谷
9:45 尾根
10:30 青路頭
13:05 虫ヶ谷集落 
14:00 表匹見峡入口


 
 「点の記」によると青路頭は明治28年選点で道順が記されている。それによると「尾根まで林道(幅約1.0m) 尾根より小径あり(幅約0.7m) 徒歩時間約180分(約3.1km)」とある。平成14年9月18日更新されており、GPS測量が行われた。地形図にある破線道と同じ登路が点の記にある。広見川にアオジガ谷があるので、青路頭はアオジガ谷の山の意で広見側の呼称と思われる。

 表匹見峡の入口を出発、入口に小さい祠がある。ウオトビ橋に高津川漁協の全面禁漁の看板がある。匹見川左岸を進むと「岩節渓流取水口(12号暗渠)入口」の標柱がある。入口を通り過ぎて岩節渓流の落口へ進んだ。

 岩節渓流の入口は岩の間から小滝が落ちている。両岸は岸壁となっている。ここは岩盤を破壊して道路を通したようで匹見川に岸壁の末端部が残っている。岩節渓流はイワブシ谷と呼んでいたのであろうか。

イイギリ

 さきほどの標柱の所まで引き返してみると、山に入る人がいた。虫ヶ谷のワサビ田に入るとのことで、途中まで案内していただいた。足軽く登るお年寄りの方は80歳であった。「山道は木馬道の跡で大きいブナを下ろしていたのを見たことがある」「釣り人がよくこの谷に入っている」「虫ヶ谷には二、三軒の家があった」などと話を伺いながら、丸太橋を渡りスギ林の先でお別れした。ご老人は大虫谷へ入って行かれた。

 大虫谷川口の少し上流の壊れた木橋がある地点を渡る。大虫谷、小虫谷の合流点付近はスゲが多い。小虫谷右岸の山道を進み、左岸に渡って進むとスギ林の中に水田跡の石垣がある。ウツウ谷落口に廃屋があった。小虫谷左岸が広い平坦地のスギ林となっている。かつては廃屋の東側に水源が広がっていたようだ。

 廃屋の前を通り、スギ林の中を進むと二軒の潰れた廃屋の跡が残っていた。イデ谷を渡り、石垣の残る小虫谷左岸のスギ林の山道を上がる。苔むした木橋を渡り右岸を進む。ワサビ田跡付近で道が消失する。小尾根に上がる消えかけた踏み跡の斜面を登り、尾根に取り付くが、この辺りから地形図にある破線道は無くなる。

チャルメルソウ

 植林地の尾根は間伐された丸太が登路の邪魔となる。植林地を抜けると雑木とササの薮となる。小尾根に取り付いてから1時間余りで主尾根に出た。ササとミズナラの尾根を進む。ガスで見通しは良くない。尾根に大きいブナが一本だけ残っていた。周囲3.5mで中が空洞となっている。洞があるため伐採を免れたようだ。かつては大ブナの多い山であったのだろう。

 尾根に出てから45分で青路頭。ガスで展望は無いが、ガスの切れ目から御境付近が見える。尾根を少し西へ進みイデ谷へ降りた。キハダ、シデ類、シダの覆うゴウロの谷を下るとほどなくワサビ田跡に出た。ワサビの葉が出る谷を下った。下っていくとワサビ田の石垣が残っている。さらに滝を下っていくとスゲの群生地があった。葉はミヤマカンスゲに似ている。スゲの群生地はイデ谷の左岸に長く続いていた。

 廃屋のあった西側の山手のスギ林に降りると壊れていない小屋があった。家というより大きい社のようであった。この付近の谷間もスゲが多い。虫ヶ谷の集落は廃屋でみるかぎり三軒であった。廃屋の前を通り山道を下った。虫ヶ谷に上がる山道は石垣の残る木馬道の跡であった。

 昭和31年8月、虫ヶ谷集落に電気が導入され、無点燈集落が解消されたが、昭和45年の移転事業のため広見とともに廃村となる。

アラカシ
ネコヤナギ
ヤブコウジ


地名考

 日本の縄文語(日本列島共通語)を受け継いだのは、アイヌ語系民族であった。

 アイヌ語によって西日本の古い地名が合理的に説明できることは、その一つの証でもある。

 西中国山地にアイヌ語地名が存在することは、その地名は縄文時代から呼ばれていた可能性のある地名と思われ、またアイヌ語地名が存在することは、その地名の周辺に縄文遺跡が存在することを予見している。


 ハゼ科の淡水魚、カワヨシノボリ斑紋型が八幡盆地と匹見川だけに分布していることから、かつて八幡盆地が匹見川と連絡があった可能性が指摘され、これはゴギについても言え、柴木川水系のゴギは人為的移入種と言われてきたが、自然分布の可能性がある。

 「カワヨシノボリ斑紋型が太田川水系内で確認されたのは八幡盆地だけであり、八幡盆地近隣の河川で分布しているのは別水系となる高津川水系匹見川のみである。また、匹見川と八幡盆地との間は不完全な分水嶺となっている虫送峠があり、これは川が流れていた痕跡とされる風隙と思われ両地域を連絡する河川がかつて存在したことを予測させる…

 柴木川水系にはゴギSalvelinus leucomaenis imbrius の生息が古くから知られており、これについては自然分布か人為的移入種かが問題となっている(内藤ほか、1996)。しかし、この地域にカワヨシノボ リ斑紋型で推定した仮説のように日本海側流入河川から瀬戸内海側流入河川への河川争奪があったと考えればゴキについても自然分布である可能性が否定できない」(『八幡高原(広島県芸北町)のカワヨシノボリ』吉郷英範 2003年)。

 「八幡盆地は標高750m〜800mで、西中国山地の中でも最も標高の高い盆地である。周囲は1000mを越す山々をめぐらし、かなり広い面積を占めている。
 湖成段丘が780m〜810m標高にあることより、古八幡湖の水面は、800mから810m標高であった。
 盆地内の泥炭層の花粉分析から…古八幡湖は二度に渡って出現した。
 氷期または晩氷期に出現していた第一古八幡湖。第二古八幡湖の水が柴木川へ流出して、現在の状態になった」(「西中国山地」桑原良敏)。

 第一古八幡湖は1.3万年前、第二古八幡湖は8000年前に出現した。第一古八幡湖の水面は810m標高まで達していた。湖があった時代、八幡盆地を囲む山々から流れる谷の水は、八幡湖に呑みこまれていた。

 1万年前、匹見の縄文人は虫送峠で野焼きを行っていた(黒ボク土Azo-2)。その時代、古八幡湖は虫送峠から匹見川に流出していた。虫送峠のすぐ北側に八幡湖の湖岸があった(黒ボクグライ土Ygh)。

 古八幡湖湖水面の780m標高線と黒ボク土(Ysi-1)の分布域線が一致する領域にある。このことは第2期八幡湖が出現した後、湖岸周辺では野焼きが行われていた(黒ボク土Ysi-1)ことを示す。長者原湿原の花粉分析では、イネ科花粉のピークが6500年前であることから、湖岸周辺での野焼きは7000年前ごろ始まったと考えられる。

 八幡湖が消滅した後、かつての湖底でも野焼きが行われた(黒ボクグライ土Ygh)。


●八幡原(ヤワタバラ)
 ya-wa-ta-an-haru-us-i
 ヤ・ワ・タ・アン・ハル・ウシ・イ
 内陸・の方・に・ある・食料・多い・所

●匹見川(ヒキミガワ)
 he-kim-un-pet
 ヘ・キム・ウン・ペッ
 頭が・山・に入っている・川

 虫送峠に1万年前から形成された黒ボク土があることから、縄文人は古八幡湖から虫送峠を越えて匹見川に流れる川を目撃していたと思われる。

 匹見川とは虫送峠からさらに山奥の八幡盆地に入って行く川のことである。

 古代の匹見川の水源は八幡原であり、ゴギが遡上する(あるいはサケが遡上)食料の多いところであった。縄文人は八幡原をめざして虫送峠を越えた。

●虫送峠(ムシオクリタオ)
 mun-us-ok-ri-taor
 ムン・ウシ・オク・リ・タオル
 ススキ・群生する・峠の・高い・岸

 虫送峠の西側は厚層黒ボク土(Azo-2)、東側は黒ボク土(Ysi-1)であり、ススキ草原であったと考えられる。西側は1万年前から、東側は7千年前から野焼きが行われた。峠の東側は古八幡湖の湖岸であった。古八幡湖は虫送峠から匹見川に流れていたと思われる。

虫送峠東のススキ原 柴木川上流方向


●虫ヶ谷(ムシガダニ)
 mun-us-ke-pet
 ムン・ウシ・ケ・ペッ
 草・多い・所の・川(スゲ)

●大虫谷(オオムシダニ)
 o-mun-us-nay
 オ・ムン・ウシ・ナイ
 川尻・草・多い・川(スゲ)

●小虫谷(コムシダニ)
 husko-o-mun-us-nay
 フシコ・オ・ムシ 
 古い(元の)・大虫谷

 mu-shi-ke の転訛。
 o-mu-shi の転訛。
 ko-mu-shi の転訛。

 小虫谷、大虫谷合流点からイデ谷の奥にかけてカヤツリグサ科のスゲが多い。草とはスゲのことであろうか。アイヌ語「イ・テセ・ムン」は「もの・編む・草」の意である。スゲで篭状の網をつくり、アイヌの仕掛ける簗の末端部に取り付けた。

 匹見川では縄文時代の石錘が発掘されているが、これは網に取り付けられたもので、簗漁が行われていたと考えられる。虫ヶ谷に群生するスゲで簗用の網篭をつくったのであろうか。

 カヤツリグサ科のアイヌ語の以下がある。

 tem-mun ウシオスゲ
 isepo-kero-mun タルマイスゲ
 pes-sa-mus カサスゲ
 kamuy-kina オオカサスゲ
 kiro-mun ワタスゲ


●岩節渓流(イワブシ)
 iwa-pus-pet
 イワ・プシ・ペッ 
 岩を・破る・川

 川口は岩の間から出てくる谷である。「イワブシ谷」と呼んでいたと思われる。

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カシミールデータ

オオウラジロノキ

総沿面距離12.5km
標高差672m

区間沿面距離
表匹見峡入口
↓ 3.4km
虫ヶ谷集落
↓ 3.5km
青路頭
↓ 2.9km
イデ谷入口
↓ 2.7km
表匹見峡入口
  

 
古八幡湖と黒ボク土(カシミール3D+国土交通省土地分類基本調査土壌図)
水色(柴木川) 黒線(第二古八幡湖水面の780m標高線) 
赤茶(黒ボク土 Ysi-1) 紫(腐植質黒ボクグライ土 八木橋 Ygh) 茶(厚層黒ボク土 Azo-2) 薄茶(黒ボク土 Azo-1)

★第一古八幡湖の水面は柴木川を囲む黒ボク土(Ysi-1 赤茶)域の810m標高の所であった。
★第二古八幡湖の水面(780m標高線=黒線)の周りで野焼きが行われ、黒ボク土(Ysi-1 赤茶)が形成された。
★古八幡湖が消滅した後、湖底(780m標高線内)でも野焼きが行われ、腐植質黒ボクグライ土(八木橋 Ygh 紫)が形成された。
★長者原湿原で花粉分析(花粉分析地)が行われ、イネ科花粉が6500年前以後増加した原因は野焼きの継続にある。
 したがって黒ボク土(Ysi-1)は6500年前頃より形成されたと考えられる。
★虫送峠の西に厚層黒ボク土(Azo-2)があり、1万年前頃から野焼きが行われた。
土壌図の説明(国土交通省土地分類基本調査簿冊)
 
『広島県北広島町長者原湿原堆積物の花粉分析』
(『高原の自然史』第12号)

「長者原湿原堆積物の草本花粉および胞子の分布図」から抜粋(右端に深度・年代を付け加えた。)
左が堆積物の柱状図。 胞子の分布図は省略した。
 イネ科、カヤツリグサ科の花粉のピークは5500から6500年前の間にある
虫ヶ谷に残る廃屋
登路(薄茶は900m超 茶は1000m超)  「カシミール3D」+「国土地理院『ウォッちず』12500」より